第1話 精霊の逆鱗に触れる方法
『ちょっと、ノエルってば! いい加減起きなさいよ!!』
頭の中に響く、苛立たしげな女性の声に重い瞼を薄く開くと、明るい光が目に飛び込んできた。首をもたげて辺りを見回すと、見慣れない調度品が置かれた全く馴染みのない部屋に、出窓から燦々と陽光が差している。
ここがどこなのか、わからなかった。そういえば、ソニアの姿が見えない。見覚えのない部屋とソニアの不在。
突然、得も言われぬ不安に襲われた僕は、上半身を跳ね起こした。
「ソニア、どこにいるんだ? ここは一体……」
『何寝ぼけてんのよ、バカ。宿に決まってるじゃないの』
僕の不安感丸出しの問いかけに、すかさずソニアの呆れたような声が返ってくる。
いつも通りのソニアの声に安堵しながらも、彼女の姿が見えないことを不審に思い、なおも部屋の様子を観察すると、ベッド正面の壁に立てかけられた姿見に映る自分の黒髪に、合点がいった。
そうだった。昨夜は宿の主の計らいで、生まれて初めて個室に泊まったのだ。明け方に催した尿意に目覚め、備え付けの“おまる箱”を使うとき、薄暗い室内での放尿に、妙な罪悪感を抱いたことを思い出す。
そういえば、その後、無意識にヘルメットを脱いで、ベッド横の物置台の上に置いたような気がする。おぼろげな記憶を頼りに顔を右へ向けると、果たしてそこにヘルメットを見つけることができた。
誰が見ているわけでもないのに、少し恥ずかしくなった僕は、さもはじめから、それがそこにあることを知っていたかのように、至極当然だという素振りで身体をひねり、ベッドから降りることなくヘルメットに手を伸ばす。
そして、何事も無かったかのように自然な動作で頭に被ると、跳ね上がったままだったゴーグルを下ろした。
『ほんと、アンタって間の抜けたところがあるわよね』
「おわっ!」
ベッドの上で上半身を起こした姿勢の僕に、四つん這いで覆い被さるソニアの顔が、魔境越しのすぐ目の前にあった。
その大きく澄んだ紅玉の瞳が、まっすぐ僕の目を見つめている。いつもと変わらない、深緑色をしたシャツ一枚の姿で突然現れたソニアに驚き、あまりにも間近な彼女の顔に少し恥ずかしくなった僕が、思わず視線を下にずらすと、彼女の襟口の奥に、控えめな胸の膨らみが覗いた。
『なっ、どこ見てんのよっ、アンタッ! アタシに欲情するなんて、信じられないっ!!』
「ご、ごめん」
僕から飛び退いてベッドの隅に座り込み、初々しい少女のような胸を両手で庇いながら、顔を真っ赤にして抗議するソニアに思わず謝るが、これではソニアに欲情していたことになると気付いた僕は言葉を続けた。
「い、今謝ったのは胸を見てしまったことに対してであって、決して君に欲情したことへの謝罪ではないんだ。そもそも欲情なんかしていない。だから、今の言葉は見たくもない君の胸を見てしまったという……」
しどろもどろに言う僕の言葉に、こちらを睨むソニアの表情は、恥じらいから呆れ、そして怒りへと、秋の空のごとく変化した。
『い、言ったわね。見たくもないなんて言ったわね! ええ、そうよ! どうせアタシは、見ても全く楽しくない「まな板」よ! でも、好きでそうなったんじゃないんだからね! アンタは知らないでしょうけど、ホントはもっと、現実にはあり得ないくらい大きかったんだから。でも、ペンタゴンのお偉いさんが「兵士の士気に影響する」って言うんで、急遽デザイン変更されちゃったんだもん、しょうがないじゃないっ!! 大体アンタッ、そこをそんなに硬くして、説得力が全くないっていうのっ!!』
「し、仕方ないじゃないか、朝の生理現象なんだから。望んで大きくなってるわけじゃない……」
『へぇー、そうなんだ。大きくしたかったわけじゃないんだ? ふーん。それじゃあ今、アタシが叩き潰して小さくしてあげるからっ!!』
決して直接触れることができない精霊の存在であるにもかかわらず、憤怒に駆られて僕の股間に向けて振り下ろされんとする、黒光りをした金属の輪っかをはめたソニアの拳に並々ならぬ凶悪さを覚え、思わずベッドの上を後ずさる。
「いや、ちょっと落ち着こうよソニア。ホント、ごめん。誤解なんだ。ねえ、やめよ。ねえ? ソニアさん?」
『つぶれろっ!!』
「いやーっ! ヤメテーッ!!」
「お客さん、大丈夫ですかっ!?」
僕が情けなく張り上げた叫び声に呼応するかのように、部屋の扉が内側に勢いよく弾け、何者かが飛び込んできた。
突然の闖入者に、僕とソニアが思わず目を向けると、息せき切った宿の主が、腰を落として短剣を構えていた。
「客人に手を出す賊は許さねえ――」
何者かが侵入し、宿泊客に狼藉を働いているとでも思ったのか、宿の主人として安全確保の責務を果たすべく飛び込んできたのだろう。しかし、僕以外に誰もいない室内を見て拍子抜けしたのか、ドスの利いた声は尻つぼみとなり、手練れの戦士のようなその動きは静止した。
「いやあ、ご主人、申し訳ない。初めての個室に舞い上がって、少しばかりはしゃぎすぎたようです。お騒がせして申し訳ありません」
僕はそう取り繕って頭を下げる。ソニアは振り上げていた拳を納め、『フン!』と鼻を鳴らしながらベッドを降り、出窓の方に歩いて行った。
「……そうですか、はしゃいじゃいましたか……。まあ、お客さんに何事もないのなら、それは結構なことです」
少し哀れみのこもったような、生暖かい目を僕に向けながら話す主人の様子に、右手で股間を庇い、左手で襲い来るソニアを振り払おうとする恰好のままで固まっている自分の姿に気づき、僕はみるみる顔が熱くなるのを感じた。
僕の姿は、主人の目には、朝っぱらからベッドの上で暴漢に襲われる少年を演じ、その身に起こる悲劇を思い浮かべながら愉悦に浸ろうとする、変態の姿に映ったに違いない。
「あっ、あのっ! これは決して変なことをしているわけではなく、戦士として柔軟に身体を動かせるように体操を――」
「お客さん、人にはいろんな趣味があるもんです。いちいち気にしていては、宿屋や酒場の主人は務まりません。もちろん、他言はいたしませんのでご安心を」
これまでも多種多様な客が、この宿や酒場を通り過ぎていったのだろう。この程度の出来事では動じることはないようで、主人はこともなげに言うが、彼の中では、僕もそれらの“特殊客”の一人に計上されてしまったことに違いなかった。
「ところでお客さん、朝食を用意しておりますので、昨夜の酒場の方へおいでくださいませんか。お泊まりいただいた方のお食事は、あちらでお召し上がりいただくことになっておりますので」
何事もなかったような素振りでベッドから降りて背伸びをする僕に、主人は言った。
「部屋はその後の昼食を召し上がってからの退出で結構ですので、ごゆっくり、おくつろぎください。でも、こんなに良い天気ですので、一度外に出られて、この町を散策されてはいかがですか? そうそう、いずれのお食事もお代はいりませんのでご安心を」




