第9話 ゲルタッシュの暗い宿
小さな町に似合わない石敷きの道を少しばかり進んで酒場の裏へ回ると、何かの店舗の一つ向こうに、道に面する宿屋の入口が見つかった。ドルフは裏通りと呼んでいたが、そこは表通りと変わらぬ道幅で、特に寂しげな雰囲気もない。
何の照明も灯っていない木戸を潜ると、同じく灯り一つない帳場があった。窓もないようで、木戸を閉めると月明かりも入ってこない。満月の差す中から急に暗闇に包まれたため、余計に目が慣れず、何も見えない。
正面の壁の隙間から、ぼんやりした明かりと相変わらず騒がしげな酒場の音が僅かに漏れてくる。どうやら、酒場への通用口があるようだ。同じ建物でも、向こうは豪勢にいくつもの燭台が備わっていたが、こちらには何もなく、暗く静まりかえるその落差に、驚きを禁じ得なかった。
『なによ、これ。暗いわねえ。客商売なのに、こんなのでやっていけてるのかしら、このモーテル』
「モーテルって?」
『モーターホテルのことに決まってるじゃない。造りは全然違うけど、入口の向こうに厩舎があったから、用途は同じもんでしょ? それにしても、誰もいないなんて、勝手に泊まれってことかしら?』
その時、帳場から奥へ続く廊下の向こうがぼんやりと明るくなったように思えた。目を向けると僅かに光る何かが、ふわふわと浮かんでいる。よく見ると宙を舞う生首だった。
「!?」
『バカ、何驚いてんのよ。よく見なさいってば』
ソニアの呆れ声が耳に響くと同時に視界が緑色になり、どこに何があるかさえ判らなかった帳場が、眼前にくっきりと浮かび上がる。「暗視モード」というソニアの魔法で、酒場への通用扉から漏れる光が眩しいほどだ。
そして問題の生首は、行灯皿を持って廊下を歩いてくる、先ほどの酒場の主人だった。
「これはこれは、お客さん。お待たせして申し訳ない。今すぐ手続きをするんで、少々お待ちを」
宿を併設する酒場は珍しくはないが、多くの場合、宿と酒場は別の者が経営していることが多い。だがドルフの話では、ここはカリーニャの父親で元衛士隊長だった酒場の主人が営んでいるという。
「エルフの給仕さんは大丈夫ですか」
「ご心配をおかけしてすいません。娘は自室に寝かせました。今はなんとか落ち着いた様子です」
カリーニャのことを問うと、花柄エプロンをつけたままの主人は、伏し目がちにそう答えた。
奥の扉の向こうから漏れ伝わる喧噪が気になり、酒場を空けていて大丈夫なのかと聞くと、雇っている給仕に任せているから問題ないとのことだった。
確かに僕が精算する際も、背の高い女の給仕に支払ったことを思い出したが、そんなに雇い人を信用していていいものだろうかと、人ごとながら心配になる。
「こんなに暗くて申し訳ない。このところ鯨油がなかなか手に入らなくてね、灯りの数を半分にしているんですよ。まあ、お客は皆、寝に来るだけですから、あまり問題はないんですがね」
主人の話に相槌を打ちながら、宿帳への記入が終わると、二階へ案内される。
「暗いですからね、足下に気をつけてくださいよ」
確かに、階段でさえ、踊り場に行灯が一つ灯っているだけだったが、ゴーグルのおかげで、緑一色の景色ではありながらも、昼間のように周りがよく見えた。
軋む階段を上がりきると、正面に扉が見えたが、主人は右へ折れる。ちょうど帳場の真上にあるその扉が気になり主人に聞くと、向こう側にある暗宿への通用扉だという。
そこの経営には主人は関与しておらず、別の女性がオーナーだと言うが、その口ぶりからすると、主人はあまり快く思っていないようだ。
全く窓も照明もない、長い廊下の突き当たりにある扉を押し開き、主人は僕を招き入れた。そこには麦わらの上に亜麻布が敷かれたベッドが一つあり、その側に衣装籠が二つばかり置かれている。ベッド脇の窓から差し込む月光が、照明のない部屋を明るく照らす。
部屋の隅には三角柱の大きな木箱が置かれており、その横に大きな荷物入れ用の箱が並ぶ。そして、陶器でできた丸いヘラと水を張ったたらいが、その上に並んで置かれていた。
「ご主人。実はこんな一人部屋に泊まれるほどの持ち合わせがないんです。大部屋の相寝台でいいんですが」
個室がある宿屋は珍しい。普通は大部屋に置かれた横に長いベッドに、数十人の見知らぬ者同士が並びあって寝るものだ。もし個室に泊まるとなれば、目の玉が飛び出るほど高い宿代をふんだくられる。
それにこの部屋は、あり得ないほど豪華だ。あの三角柱の木箱は、蓋を開けて排便をする「おまる箱」だろう。すぐ脇に置かれた尻拭い用のヘラが、そうであることを教えてくれる。わざわざ階下に降りて、厩舎の厠を探す必要もない。こんな部屋に泊まれる奴はよほどの金持ちだろう。
「お客さんの部屋はここで間違いないですよ。うちの娘がご迷惑をかけたうえに、とんだトラブルに巻き込んでしまい、あげくに娘のために、手を出そうとまでしてくれたんだ。感謝してもしきれません。せめてものお礼に、こちらへお泊まりいただきたい。お代も一切頂きません」
「いや、結局何もできなかったんですから、気にしないでくださいよ」
『アンタ、本当に何もしていないわよね、そんなに感謝されるようなこと。もしかして、何か裏があるんじゃないの?』
ソニアの言葉が不安をかき立てるが、「どうしても」と固辞する主人に根負けし、この部屋に泊まることとなった。
主人が就寝の挨拶をして去った後、部屋に残された僕は、やっと重い装備を下ろすことができた。
しかし、宿屋ほど油断のできない場所はない。就寝中に荷物を盗まれることなど日常茶飯事だ。だから貴重品は寝床に抱え込んで眠るのが常識だ。
個室には泊まったことがないが、扉に閂が有るわけでもないので、普段どおりヘルメットは外さず、防弾ベストを着けてブーツを履いたまま、小銃を抱えて床に入ることにした。
もしも何かあれば、ソニアがすぐに起こしてくれる。それが、せめてもの救いだった。
いつの間にか、緑の暗視モードは解かれていた。不眠不休で二日間歩き続けて疲れ切った身体を、窓際のベッドに横たえると、窓から大きな月が見える。
今夜は満月で、月面の青い海原が普段より一層輝いている。その上にちりばめられた白い雲が、その美しさを更に強調していた。
『本当にきれいね、ここの月って。まるで地球みたい。向こうから見れば、こちらも同じように見えるのかしら?』
ソニアも満月に感嘆の声を上げていた。月はいつも美しいが、今夜はいつにも増して、きれいに見える。
『さて、明日はこの町で情報収集ね。特に『雷閃の死神』の。そのあと食糧や物資を調達して、先に進みましょ? ここから北の「ルミラン」っていう都会に向かうんだったわよね。そういえば、さっきの大男が自分の店へ遊びに来いって言ってたけど、どうするの?』
ベッドの脇に屈んだソニアが、月から目を離して僕に顔を近付けてくる。しかし、急速に睡魔が襲ってきた。
「なんだか、僕もう疲れたよ。ごめん、また明日ね。ソニア」
『うん、わかった。それじゃ、お休みなさい。ノエル』
視界が暗くなったのは、ソニアがそうしたからなのか、それとも瞼を閉じたからなのか、それさえ判らなかったし、どうでも良かった。
疲れた。ただ、それだけだ。僕はすべてを投げ捨てて、眠りの淵を落ちていく。
ふと、酒場の床に膝をつき、抜け落ちたエルフの金色に輝く長い髪を、一本一本拾い集めるドルフの悲しげな姿が、脳裏を通り過ぎていった。
(※1)暗宿:女性が性的サービスを提供する施設のこと。




