第8話 月光に浮かぶ城下町
店の外に出ると、どこからともなく吹いてくる夜風が頬を涼しく撫でる。酒場の熱気が嘘のようだ。天頂の月が、深夜の石畳を青く静かに照らしている。道端には汚物も少なく、地方の小さな町とは思えないほど、小綺麗なところだ。
ドルフに聞くと、ソニアの推測どおり、酒場には宿泊できるという。宿は酒場と同じ建物の二階から上にあるということだった。酒場の内階段から上がることのできる部屋もあるとのことだが、そちらは娼婦と同衾する場合にしか泊まることができないらしい。
女を買うつもりのない僕は、一旦酒場を出て、その外壁に沿いながら、建物の裏通り側にあるという宿の入り口に向かって歩いていた。月明かりの中、僕の前方を無言で進むソニアの後ろ姿が、ゴーグルの魔鏡を通して見える。
先ほどの騒動のあと、ここゲルタッシュの町で武器屋を営むという武器鍛冶屋のドルフが、この小さな町が属するアリーゴ伯領のことを聞かせてくれた。
数多くの魔石鉱山を有し、帝国随一の魔石産出量を誇っていたのも、今は昔。領邦南部にある鉱山の一部では、細々と採掘を行っているものの、今ではそのほとんどが廃鉱となり、魔物の巣くう魔窟と化しているという。
過去に産出した魔石によって代々累積した巨万の富により、領主であるアリーゴ家の帝国内での発言力は、一時は非常に強いものだったそうだが、今では三流領主の地位に甘んじている。
とはいえ近年では、鉄や銅といった鉱石の採掘に力を入れていることもあり、未だに領主の蓄えは尽きることなく、領邦の社会資本整備に投資を惜しまないなど、領民の人気も高いそうだ。ただし、それは人格者として知られる現領主のガスタール・アリーゴに限った話である。
ガスタールは正室、側室ともに子に恵まれず、五十代になってから、やっと一男一女を継室にもうけただけだった。当初は長男ランツァが後継者と目されていたが、次第にあらわになる人間性の欠如に、さしものガスタールもその適性に疑問を抱き、今では、ランツァの妹である長女が後継者であると公言しているという。
満月に白く光り並ぶ甍の向こうに見える、小振りな城。小高い丘の上にこぢんまりと佇むその古城は、領都ルミランでのランツァの傍若無人な振る舞いに激怒した領主ガスタールが、愚息という言葉が謙遜にもならない息子に、ついに愛想を尽かし、八年ほど前、放蕩息子をその側室たちとともに蟄居を命じたゲルタッシュ分城である。
そこで夜といわず昼といわず、ランツァが淫蕩に溺れていることは、町の民なら知らぬ者はいないらしい。
そして、蟄居とはいいながらも、それは昼間だけのことで、夜間は自由に外出することが許されていた。そこからも、領主の親馬鹿ぶりが窺える。年頃の娘を持つ町の者は、色情魔の毒牙を怖れ、日没前には門戸を閉じているという。
とにかく、腹が立って仕方がなかった。縁もゆかりもない町の出来事であるとはいえ、理不尽に虐げられる者の姿は、見るに忍びない。
あのニヤけた殿下の顔が一向に頭から離れず、僕自身もあのクズ野郎に侵食されたような気がして、吐き気がする。
僕の前を歩くソニアは、さっきからずっと黙りこくっていた。いつもなら、ことあるごとに話しかけてくる彼女だったが、全く口を開かないまま、僕の歩調に構わずに、早足でスタスタ進んでいく。
「ソニア、ちょっと待ってよ」
ソニアに声をかけるが、何も聞こえないかのように、建物の角を曲がろうとする。彼女には、どんな時でも声が届く。聞いて欲しいことも、そうでないことも。
だから、僕の声が聞こえないはずなのだが、答えようとすらしない。
「おい! なに無視してるんだよっ!!」
つい出てしまった咎めるような声に、ソニアがいきなり立ち止まり、振り返ったかと思うと、ツカツカと僕の目前に歩み迫る。いきなり進路を絶たれて思わず立ち止まると、彼女は僕を睨みながら、触れることのできない右手の人差し指で、僕の胸を突いてきた。
『手を出すなって言ったのに、なんでアタシの言うことを聞かないのよっ! トラブルに首を突っ込むなって、いつも言ってるでしょっ!!』
と、先ほどの僕の振る舞いに、不満をあらわにする。
たしかに彼女には常日頃から、無用なトラブルに巻き込まれぬよう注意を受けていた。ただでさえ弾薬が乏しくなりつつある現状から見て、それは至極当然のことだろう。
『そりゃあ、さっきの状況じゃあ、あのゲス男を殴りたくなるのはよくわかるわ。いえ、殴るだけじゃあ物足りない。LCACのダクテッドファンに放り込んで、養殖魚の餌にしてやりたいくらいよ!』
よくわからない表現だが、ソニアもあの殿下には、いたく不快感を抱いていたようだ。
『でもね、ノエル、よく聞いて。アンタは強いわけじゃない。むしろ弱いと言っていい。この世界の人間だってのに、魔法も一切使えない。近接格闘術は教えたけれど、それもあくまで基本だけ。そんなアンタが幾度となく敵を倒して、異名を取るまでになれたのは、銃があったからなのよ』
「……」
彼女の言葉が耳に痛い。たしかに僕は、二つ名を得られるほどの人間ではない。
冒険者ギルドのポーターをしていた頃に鍛えた身体と、収納魔道具を扱える生まれつきの能力はあるものの、底辺クラスの冒険者ほどの技能さえ持ち合わせていないということは、僕自身、百も承知だ。
ソニアに出会い、銃火器の取り扱いや、それを用いた戦闘を、一から叩き込まれたからこそ、僕は今ここにいる。もしも彼女に出会うことがなければ、今頃はどこかのダンジョンで、骸と成り果てていたことだろう。
『今までの戦闘は、やむを得ないものがほとんどだったわ。でもね、戦闘資材が乏しいこの状況下では、なるべく無用なトラブルは避けてほしいの。判るでしょ? こんなところで身動きがとれなくなれば、この旅自体が無意味になるのよ?』
ソニアは僕のことを、いつも気にかけてくれる。結構きつい物言いをしながらも、その下に隠れている優しさを、僕は知っている。不要な騒動に巻き込まれて傷つかぬようにと忠告してくれる彼女の言葉は、痛いほどに理解できる。
もとより、この旅の最大の目的は、両親の仇を討つことだ。それを討ち果たすためには、ソニアの主張はこれ以上ないほど正論だ。
しかし、この世には避けて通ることのできない理不尽な出来事がある。自分に不利になることが明らかだったとしても、人として逃げてはいけない局面もあるのだということを、精霊には理解できないのだろうか。
だが、甚だ納得はいかないものの、ひとまずここは折れることにした。
「わかったよ。以後、気をつける」
『でもね……。アンタのそういうところ、嫌いじゃないわよ』
ソニアはつっけんどんにそう言うと、再び僕を残して進んでいった。




