後編・魔族と軍人
明くる日。
血相を変えた軍人が風呂屋に飛び込んでくる。
「ここにいたか! 大量の石炭が持ち込まれたぞ! 西の外れの蒸気屋だ! 急げ!」
男湯の脱衣所。背中からほかほかと湯気をたちのぼらせている風呂上りの刺青の男が、牛乳売りの小さな子どもの前に体を丸めてしゃがみこみ、そうっと互いの手を合わせているところだった。半分くらいしかない大きさの子どもの手を眺め、蝙蝠は、ふむ、と納得いったようにうなずいて立ち上がると、
「石鹸良かったぜって、かーちゃんにも言っとけな」
子どもに向かって刺青まみれの左手の指先をちょいちょいと折ってから、軍人の前までぺたぺたと歩いてきた。
「伝令とかいねーのかよ」
軍人がさっと表情を曇らせる。
「それが、その……通報もなく、ただ石炭が動いたというだけでは師団は動かせないと」
「はぁ? これだからお役所仕事は」
派手な赤色のズボンの上からグラディエーターサンダルの革紐を膝下まで巻きつけて店を出た蝙蝠は、そこに待機している、たった数十の軍馬を見て眉を落とした。
二人の後ろから、少女の弾んだ声。「あいよ、西ね、りょーかい!」
二人が振り向く前、肩に湿ったタオルを引っ掛けたまま、さっそうと走り去っていく少女の背中。その道の先、灯台の陰からぬっと現れた低空飛行の飛行船から、長い縄梯子がたらりと下がった。
「いっくぞー! 西の廃墟区域に砲撃だ!!」
縄梯子の下端を掴んで、上へと叫ぶ少女の指示に、おお、と船内から活気のある声が応じる。
「ま、待て!! 現行犯ーー」駆け寄ろうとする軍人の肩を、蝙蝠が片手で掴んだ。勢い余った軍靴の先が空を切る。
するすると縄を登っていく少女が途中で振り返って二人を見下ろし、満面の笑みを浮かべて、左手の指先を折ってみせた。
蝙蝠は口角を上げて「やっぱり空賊は義理堅い」と呟いたあと、
「おら、白昼堂々、空賊サマの犯行予告だ。とっとと師団動かせ」
軍人の尻を蹴り飛ばし、手近な空馬に飛び乗った。
*
白い蒸気が、もうもうと豪華な室内を埋め尽くす。
そこに、ぼんやりと浮かび上がる黒い影が二匹分。ファサードでよく吠えている勇ましい守護獣の彫刻ととてもよく似た、だが本物の魔獣が長いたてがみを逆だてて、ぐるぐると低く鳴いた。血走った目を落ち着きなく左右に動かしながら、だらだらとよだれを垂らす。鋭い鉤爪で床に溝を刻みながら進み、杖を構えたローブ姿の男たちの間を抜けると、開け放たれた両開きの木戸から市街地の方角へと走り去っていく。
「二匹か。お前の勝ちだな」
その様子を、赤ら顔の男たちが二階の回廊の手すり越しに眺めている。豪華な杯を傾け、小さな銀貨をざらざらと一人の皿に移す。下男らしき一人が全員の杯になみなみと透明な液体を注ぎ終えたところで、
「さて、次の勝負だ」
階下から再び、キイィン、と甲高い発動音。周囲にただよう白い蒸気が鮮やかな紫に色づき、
「おおこれは間違いない、大物一匹だ」と呟いた一人が目を輝かせて銀貨を握りしめーー
「よう、ひっさしぶり」
開け放たれた窓から新鮮な空気が流れ込んで、たちこめる蒸気を一気に吹き飛ばす。
赤ら顔の男たちが、怪訝な顔をして階下を覗き込む。ローブ姿の術師たちが杖を向ける部屋の中央にはーー仁王立ちする異様に大きな体格。派手な赤色のズボン。グラディエーターサンダル。左の頬に蝙蝠のような形の刺青。それだけで人を射殺さんばかりの獰猛な目つき。
「お前! なにやってる!」二階にいる小太りの男が、口の端から白い泡を飛ばしながら蝙蝠に怒鳴る。
衆人環視の中央ーー蝙蝠の右足の下には、踏みつけられて白目を剥いている中級魔族が一匹。先程五人かがりでようやく召喚したばかりの貴重な異界生物を、蝙蝠は風呂屋から借りたままの杖を軽く振るだけで、3秒で元の世界に戻してから、男たちに向かって言った。
「早く逃げねぇと軍が来るぜ」
「お前、俺たちを売ったのか?!」ローブ姿の一人が、蝙蝠に杖を向けたまま、警戒しきった目を見開く。
「金もらってねー」太い両腕を頭の後ろで組んで、楽しげにけらけら笑う蝙蝠。
と。
すぐ隣の蒸気屋から、「軍令だ! 今すぐ投炭を中止しろ!」と怒声が聞こえた。
ほぼ同時、開け放たれたままの木戸から軍人たちが一斉になだれ込んでくる。またたく間に、蝙蝠の前で杖を構えていた五人の召喚術師を取り押さえた。
部下に指示を飛ばしながら駆け寄ってきた軍人の男が、蝙蝠を睨む。「どういうことだ、知り合いか?」
「知り合いっつうか、俺の召喚術師サマ」蝙蝠がけろっとした顔で答える。
「……は?」
「ん? ……ああ。これも説明が必要か。俺は、召喚する側じゃなくて、される側」
こともなげに言った男の背に、ばさり、と黒い翼が広がる。壁に落ちる不気味な影。明らかにヒトのものではないそれに、軍人の誰かがおののいたように小さく呟いた。「魔族……」
軍人たちに押さえつけられている術師の一人が、床に片頬を付けながら、せせら笑うように言った。「そういうことだ。ーーよし、とっとと軍人どもを蹴散らせ」
「わん」
蝙蝠は可愛く吠えて杖を構え直す。枝の先から、紫色の光と煙がぶわりと広がる。
軍人の男は青髪を振り乱し、慌てて銃を蝙蝠に向ける、
と同時ーー
「ぐわああ!」
二階にいたはずの小太りの男が、どすんと音を立てて二人の間に召喚された。高級そうな燕尾服の隙間から、紫の光をまとった太めの杖が転がり出る。
杖を下ろして肩をすくめた蝙蝠が言う。「こういう奴らは『タカ』を使うーーそこの五人はただの下っ端。『商会』精鋭の召喚術師サマは、こういう普段のしょーもない召喚はやらないんだよ。コイツが『商会』の元締めで、一番めんどくせぇ術師」
小太りの男は身を起こすと慌てて杖を手に取る。もう片方の手で、したたかに打ち付けた臀部を押さえながら、真っ赤な顔で蝙蝠に怒鳴る。「なんで我々に攻撃できる! 首輪はどうした?!」
「んなもん、こっちきた瞬間に外したわ」耳をほじりながらつまらなそうに答えた蝙蝠が、「おっと」と呟いて一歩右によける。1秒前に蝙蝠が立っていた場所に、紫色の光がほとばしる。取り押さえられたままの召喚術師の一人の杖ーー紫色の光を放っていたそれを、軍人の一人が踏みつけて折った。木粉が飛び散り、光が消える。
「ああ、汚すなよ」
不満そうにぼやいた蝙蝠が、折れた木の枝を拾い上げ、大口を開けてーー放り込む。木の枝をむしゃむしゃと美味しそうに食べてから術師を見下ろして問う。「で、おまえ何呼んだ?」
押し殺した声で、術師が答える。「……街じゅうに散らばる、かつて放った魔物たち全員」
「な」軍人が碧い目を見開く。
「おお、まとめてくれるとは、親切だねぇ」と蝙蝠が落ち着いたままの語調で言い、獰猛な目を輝かせ。
とーー二つの影が木戸から飛び込んでくる。先ほど走り去った二匹の魔獣。部屋の真ん中近くに着地し、低い声で唸った。軍人たちの放つ銃弾が、びしびしと毛皮に跳ねる。
黙した蝙蝠が杖を構える。枝の先から、紫色の光と煙がぶわりと広がる。キイィン、と甲高い発動音ーーそれらが、突然ふっと途切れた。
「足りねぇか」と顔をしかめて舌打ちを鳴らした蝙蝠に、二匹の魔獣が、鋭く長い爪を振り上げて同時に飛びかかるーー
割り込む影が、ひとつ。
ぎゃいん、と情けない悲鳴をあげて、二匹の獣が床に転がった。
「ーーその体格で近接格闘は不得手か。初めて会ったときのあの不意打ちに騙された。今回の礼に、今度教えてやる」
青い髪が蒸気になびく。重心を低く落とした軍人の男が、目を見開いたままの蝙蝠に背を向けたまま、口角の隙間から言った。左手に構えた銀色の軍刀に、たらりと獣の鮮血がつたう。腹を大きく切り裂かれた一匹は床に伏したまま微動だにしない。血だまりが広がる。もう片方の獣は、左目から鮮血を流しながら、ぎぃぎぃと苦しそうな悲鳴を上げている。軍人の右手には白煙のたちのぼる黒い拳銃。
蝙蝠が不服そうに呟く。「魔力がありゃあ、そんなもんいらねーの」
「蝙蝠さん!」若手の軍人が叫んで、術師から奪った杖を数本放り投げる。それを片手でキャッチした蝙蝠は、持っていた杖も合わせて、剣飲みの曲芸師のように丸呑みにして。
「この説明はまだしてなかったな。ーー上級魔族の場合、杖から放つよりも生身のほうが、ダンゼン魔力効率がいい」
蝙蝠の屈強な全身から、紫色の光と煙がぶわりと広がって部屋じゅうを、街一帯をうめつくす。キイィン、と甲高い発動音が大きくなりーー付近にいた人間たちはたまらず目を閉じて両耳を押さえた。
開け放たれた窓から新鮮な空気が流れ込んで、紫色の煙を吹き飛ばした。
人々が目を開けると、二匹の魔獣の姿は忽然と消えていた。血痕の一滴すら。
「魔獣の群れが消えたぞ?!」屋外から混乱しきった声。
軍人たちが次々に勝利の歓声をあげて、力強く拳を振り上げた。
元どおり魔力が充満するようになった空気を美味しそうに吸い込んでから、蝙蝠の刺青の男は、軍刀と拳銃を収めた青髪の男の肩をがっちりと掴んで、上機嫌に言う。
「背中、流してやるよ」
年若い軍人の一人が慌てて駆けてくる。
「その前に、あの空賊を止めていただけますか!」




