母校と、恋の香り
学校は閉鎖的な空間だということを、私は社会人になってから意識するようになった。
学生のころは、学校に通う事が日常で、生活の多くを学校が占めていた。
(よくまぁ、こんな狭いところで)
私は、母校の廊下を歩いていた。冬休みだからだろう、生徒はあまりいない。暖房はきいていないため、ひんやりと空気が冷たかった。
私は、学校に来たり、学校を思い出したりするたびに、いつも思うことがある。
よくまぁ、こんな狭いところで――恋に落ちたものだなぁ、と。
高校の全校生徒が、約千人。先生は何人だろう、わからない。仲のいい人は、その中のほんの一握りだ。
その出会いの中で、心から好きな人に出会えて、毎日ここに来るのが楽しくて、すれ違うだけでドキドキして。
(あの頃の私が、一番かわいかったなぁ)
高校を卒業して、大学に行って、就職して四年。恋は何度かしたけれど、あそこまで純粋な恋は、あれっきりだ。
好きで好きで好きで好きで、たまらない。ただただ、好き。
多分、そんな恋にはもう二度と出会うことなどないのだろう。今では、その時の感覚さえ、ぼんやりとしてしまった。
前から、女子高生が三人、ぱたぱたと走ってきた。ぼうっとその子たちを見ていると、彼女たちは少し不思議そうに私を見つめ、それでも笑顔で「こんにちは」と頭を下げた。
「こんにちは」
彼女たちはもう一度にこりと笑うと、ぱたぱたと駆けて行ってしまった。制服の裾が絵の具で汚れていた。
振り向いて彼女たちを見ると、右端の子の手には筆が握られていた。筆を握って廊下を走って、あの子たちは何をしているのだろうと、思わず噴き出す。
「こんにちは」
背後から急に声をかけられ、思わずわっと声に出してしまう。
「こんにち――」
振り向いて、挨拶をする途中で止まってしまった。
「あ」
そこにいた相手も、驚いて目を見開いている。
「……平野?」
「――お久しぶりです、水谷先生」
私の前に立っていた、背の高い短髪の先生は、やっぱり、と駆け寄ってきた。
「びっくりした」
「何年ぶりでしょうね」
「随分前の学祭で会ったっきりだよな? 四年?」
「……ですね」
「そっかぁ……どしたの、今日は」
「後輩に誘われて、こっそり。懐かしくて、ぶらぶらしてました」
「そうかそうか」
水谷先生。
四年ぶりに、声に出した言葉だ。さっきはとぼけたけれど、四年前に会ったことを、私はちゃんと覚えていた。覚えていて、確かめたくて聞いた。
先生は覚えていてくれていた。
「凄いですね、先生」
「何が?」
少しだけしわの増えた笑顔で、先生はあのときと変わらず、くしゃっと笑う。
「私がいつ来たか、覚えていてくださった」
振り向いたときに、先生の姿が目に入り、私は恐怖で包まれた。忘れられていたら、どうしよう。
毎年毎年数百人の生徒が、出て入ってを繰り返すのだ。その中の、一人なんて、何千人の、下手をしたら何万人の中の一人なんて――時間と共に、忘れられてしまってもおかしくない。
私はそれが怖かった。
本当は先生に会って、お久しぶりですと言いたかったけれど、会いに行なかったのは、怖かったからだ。
「忘れるわけないだろー、平野とはよく話したもんなぁ。あれだけ熱心に質問しに来る生徒は、あんまりいないぞ?」
私はくすりと笑うと、「嬉しいです」と返した。
高校生のころは、先生と話をするだけで心臓が飛び跳ねていたのを思い出す。先生に向かって、素直に「嬉しい」と言える日が来るなんて、あのときの私はきっと想像もできなかっただろう。
「お元気そうでなによりです」
「元気元気、ま、あのころみたいに若くはないけど……平野が卒業したのは、えっと……いつだ?」
「今年、就職四年目ですから――」
「え、もうそんなに経つの。早いなあ」
「ここは、時間が止まっているみたい」
「学校? はは、そんなことないよ」
俺の白髪も増えるし、と先生は笑う。
「生徒はころころころころ入れ換わる。建物は変わらないけどね」
「不思議な空間ですね」
「ほんとにな」
先生はじっと私を見つめると、神妙な顔つきで言った。
「平野が、なぜだか……にやついてる」
「……先生も」
一瞬間を置き、二人で笑った。
「先生に会えてよかったー……」
ぽろりと本音を出すと、ありがとうと先生は笑った。
「俺もだよ。卒業した生徒とこうやってまた再開できる、この瞬間が、先生やってて良かったって思える瞬間なんだよ」
先生のその言葉に、ふわりと体が浮いた気がした。少しだけ頬が熱くなる。
(そっか、先生も私と会えて、嬉しいんだ)
もし私の心の中に学生の頃の私が住んでいたら、制服姿でやったあと万歳をするだろうな、と、そんなことを考えた。
久々に、あの頃の純粋な感情を、思い出せた気がした。
----------
テーマ「学校」




