浮遊感覚と、魔物
暑い。
雲ひとつないような青空に、いつもより何倍か大きくなっているのではないかと思わせる、真夏の太陽がひとつ。それだけで暑くて仕方が無いのに、加えて大きな声援と、観客の期待、不安、喜びなどが入り混じった中を、緊張を携えて全速力で走るのだ。体感温度はさらに何倍にも膨れ上がる。
甲子園だぞ、甲子園の初戦だぞ、と俺はレフトの守備位置に走りながら、再確認する。
そういえば、甲子園には魔物が住んでいる、なんて言うな、とふと思い出す。この暑さの原因の一つに、その魔物の熱気という理由もあるかもしれない――なんて考えて、慌てて思考を切り替える。
いけない、たるんでいる。
二回表、点はまだ入っていない。守備位置につく。遠くに、エースの姿が見える。皆の視線が一斉に彼に集まっている。虫眼鏡が太陽光を集めて紙を焼くように、あいつは視線で焼けてはしまわないかと、俺は心配になった。
あいつは今、どんな気持ちなのだろう。俺は、まだ打席にも入っていないし、ボールがレフトに飛んでも来ていないので、いまいち実感がわいていない。ふわふわと、浮いている感覚がする。緊張の極限なのかもしれない。
甲子園だぞ。
何度も言い聞かせる。そうか、たるんでいるのではなく、必死に落ち着かせようとしているのか、と自分の思考回路に気がつく。
一球目、ストライク。左バッターだ。二球目はボール。慎重に出方を見ているようだ。
三球目はファール。初めて相手はバットを振った。外角低めをファールにした。金属音が、トランペットの音の中に交じっていくようだ。
四球目、外角低め、よく見てボール。ツーツーだ。
五球目、高めの真ん中を思い切り振った。バットは宙を切る。わっと歓声が上がった。まずひとつ、アウトだ。
バッター交代の間に、汗を拭う。日差しが指すようだ。何度も思うが、野球のユニフォームはやっぱり暑い。肌の露出が本当に少ない。
二人目のバッターが打席に立つ。今度は右打者、長距離バッターだ。
一球目、バッターは真ん中低めを救いあげるようにして打った。
金属音が響く。ピッチャーの頭上を越え、センターの真ん前にぽとりと落ちた。綺麗なヒットだ。相手側の応援席が沸く。
その次のバッターに対し、一球目はストライク、二球目のボールを投げたところで盗塁された。ワンナウト、二塁。うちのエースは、それでも冷静に、空振り三振で仕留めた。ツーアウト、あとワンナウトだ。
次のバッターはなかなか粘り強かった。ボール、ボールと続いた後に、一球ファール。その次はぎりぎりストライクに入ったが、その後が長かった。連続四回ファールの後、冷静に一球を見て、フルカウントまで持ち込んだ。
緊張する。汗がにじむ。
投げた、金属音が響く、ボールは切れる、ファールだ。わっ、と安堵のため息と惜しいと言う叫び声が交じる。
なぜだか耳鳴りがした。集中し過ぎか、緊張し過ぎか。
もう一球、投げた。
またも金属音。ボールは大きく弧を描き、俺の方へ向かってきた。体が反射的に走り出す。後ろだ、後ろだ、ボールは伸びる、まだ伸びる、もっと後ろだ。
抜けたら、一点は取られてしまう。
無我夢中で走り続けた。どこまで甲子園は伸びているのかと不思議に感じた。足が、もつれそうで、しかししっかりとグラウンドを蹴っていた。
ボールが重力に逆らえず、落ちてくる。
落下地点はどこだ。
走る、まだ走る。後ろに走る。
もう、すぐそこまでボールは来ていた。
間に合わないか、どうなんだ。このボールは俺の頭上を越えていくのか?
俺は後ろに飛んでいた。手を思い切り上に伸ばす。
飛びながら、取れるかもしれないと思って飛んだのか、と自分の行動を認識し直す。
スローモーションのようだった。今までで一番、手を伸ばしただろう。
グラブの中に衝撃が走った。俺は、その衝撃を感じながら、受け身を取り、ぐるぐると甲子園のグラウンドを転がった。
すぐに顔を挙げる。どうなった?
わっ、と沸いたのは味方の観客席だった。左手のグラブの中には、白い球がすっぽりと収まっていた。
つま先から、頭の先端にまで、鳥肌が駆け巡った。
スリーアウト、チェンジ。
俺は大歓声を受けながら、ベンチに急いで戻った。
頭の中が真っ白だった。暑いなんて感じている暇もないほどに、興奮していた。
スローモーションになり、手を目いっぱい伸ばした、あの初めての感覚を頭の中で思い出す。
魔物だ、甲子園の魔物が手を貸してくれたのだ。
俺は今、甲子園にいるのか。
そのとき、初めてその事実を認識した。震えた。感動していた。
次の瞬間、走っていた足が、とん、と土を踏みしめた。浮いている感覚は無くなった。甲子園の空は、相変わらず、暑い。
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テーマ「高校野球」




