彼女が少しでも私を愛するために
「あの人の後ろ姿が切ない。追いかけている恋が叶わないと知らないからだわ」
彼女の長い髪が好きだった。風に撫でられるようにさらさらと流れるそれは、彼女の冷たさを表しているようでもあった。風になびいてなお、染まることなど決してない漆黒。
「本当に叶わないのかな」
私からの意地悪な質問に、彼女は動じない。ツンとすまして、まるで用意していたかのように、さらりと返事をよこす。
「時間をおいたら、あるいは叶うかもしれない。でもあの人はそれを望んではいないでしょう。今すぐに伝えたいのよ、美しい想いを。心の中で音を立てて燃えさかっている火を、そのまま、差し出して……」
は、と彼女はため息をつく。
「消してほしいのよ、多分。私の予想でしかないけれど、あの人はもうすぐ自分の想いを伝えるわ」
「それは、つまりは……可哀想?」
ええ、と彼女は頷く。たぶん、その答えもきちんと用意していた。長いまつ毛の先まで、ずっとあの人を追っている。隣で、私が彼女のことを見つめていることに、気がつくはずもない。
彼女は、独り言のように言う。
「優しさよ……そして愚かしい……自分の愛を伝えることが正義だと思っている、若い愚者だわ。でも優しいの、あなたには分からないかもね」
わかる、という言葉は飲み込んだ。
「私は優しい人が好き。優しい人を愛しているから、幸せなの」
知っている、という言葉も飲み込む。
「教えてあげればいいのに」
彼女への提案は、即座に却下された。
「いやよ。あの人に言うの? あなたが愛している人には、すでに恋人がいるそうですよ、だなんて」
「そう、そうすればあの人は傷つかなくてすむ」
「それは優しさではないわ」
彼女は、長い髪をかきあげた。風と戯れる髪先が、一瞬の芸術品となってそこに存在することに、彼女は気がついていない。
彼女は、私の熱い、熱い視線に気がつかない。
「本当に?」
「もちろんよ。自分のためなのに、相手のために動いているようにふるまうのなら、それはエゴイズム」
私は知っていた。彼女がそのような考えを持っていることも、彼女がそのことを言葉にすることを、ためらわないことも。
聞けて良かった。私は、合っていた。
「ああ、切ない背中。その背中が、きっともうすぐ、悲しみと切なさによって染められる」
愛おしそうに、彼女は「あの人」の背中につぶやく。
「その背中も、私は愛してあげられるの」
彼女は知らない。私と、「あの人」を、知らない。
翌日の昼休みに、私は「あの人」を屋上に呼び出した。
「何」
「あの人」はボソリと言った。やはりそうだ、「あの人」は、自分の感情を隠すためにこんな態度をとる、根は冷たい人だ。
「君の好きな人を知っている」
「あの人」は驚いたように目を見開く。やはりそうだ、「あの人」は感情を隠せもしない幼稚な人だ。
「何が言いたいのかな」
「あなたの好きな人には、恋人がいることをあなたは知らない」
「あの人」は「え」と弱々しい声を漏らす。やはりそうだ、「あの人」は私の言ったことが本当か嘘かを見極めることもしない、単純な人だ。
「……それで?」
「それだけ」
「あの人」は、「そう」と投げ捨てるように叫び、私の方に向かってきた。もしかして殴られるかな、とひっそり奥歯を噛んだけれど、「あの人」は私に少しぶつかり、そのまま通り過ぎただけだった。
「あの人」は去ってしまった。やはりそうだ、「あの人」は意気地なしで弱虫の、愚者だ――彼女の言う通り。
「あの人の後ろ姿が、変わってしまったわ」
その日の夕方、彼女は少しだけ楽しそうに言った。気がついた、と私の心は喜びに弾んだが、私は言わない。私は、自分の感情をきちんとコントロールできる人間だ。
「ねえ、本当に、あなたはあの人の好きな人が誰かは知らないんだよね?」
「そうよ。でも、好きな人がいることは間違いないわ……いえ、今となっては、好きだった人ね。あの人はすぐにあきらめると思ったの。それにしても、あなたは本当に、あの人の好きな人を知らないのかって何度も訊くのね」
私は、本当か嘘かを慎重に見極めていく人間だから、それはもちろんのことだ。
「あなたは正しかった」
その時だ。
彼女は、私に視線をやった。
私は、その場で、石か氷かにでもなってしまうかと思った。
一瞬の出来事だった。すぐに彼女は視線をそらし、いつものようにあの人の背中を見つめ始めた。
――私は正しかったのだ。
「ねえ、幸せ?」
「もちろん。私は幸せ」
やはりそうだ。彼女はそう言うと思っていた。
だから私は「あの人」の元へ向かい、私に恋人がいると嘘をついた。
彼女には幸せでいてほしい。
そして少しでも私を愛してほしい。
そのためにだったら、なんだってする。
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テーマ「優しさ」




