楽しいことは海の向こうから
「お母さん、お腹がすいたよう」
「そうですね、もう少し待っていてね。あと少しで、お母さんがひょいとご飯をとってきますからね」
「今じゃだめなのですか」
「まだ少し時間が早いのですよ。あせってはいけない、何事もね」
「しかしお母さん、おなかがすいた、この空腹感はどうにもできません」
「我慢が大切ですよ」
「お母さん、僕はおばあさんの時代に生まれたかった」
「あら、どうして」
「聞いたことがあるのです。おばあさんの時代には、ご飯が山のようにもらえたって……どこにいっても、人間たちが、かわいいかわいいって、ごはんをくれたって」
「おばあさまのおばあさまの、そのまたおばあさまの時代のお話ね。そうね……夢のような話だけれど、そんなときもあったみたいね。犬さんはとくに可愛がられていたそうよ」
「犬はごはんを食べて、人間はそのごはんを食べられなかったって、本当?」
「きいたはなしだとね。それで、人間が大暴れしたのよ」
「そして、動物をかわいがりましょうっていう決まりごとがなくなって、僕らはまた、自分でごはんを探さなくちゃならなくなったんだね」
「そうね。でも、お米がしっかりと蓄えられるようになったから、お米のありかを探す必要はなくなったわ」
「たくわえるってなあに、お母さん」
「たいせつにしておくってことよ」
「では、この国もいま、たくわえられているんだね」
「どういうこと?」
「だってほら、おじいさんが生きていた頃は、海の向こうからたっくさん船がやってきていたんでしょ。あのお舟は怖いお舟だって、だから、日本を大切にするために、お舟がこないように、人間たちが決まりごとを作ったって、きいたことがあるよ」
「おじいさんのおじいさんのおじいさんがいきていたころのお話ね。色々知っているのね」
「すごいだろう、お母さん。でも、遠く離れたところでは、怖くないお舟があるんだって。渡り鳥さんが言っていたよ。ご本をたくさんくれるんだって。お医者様がいるんだ」
「そうみたいね、お母さんもみたことはないけれど」
「人間のお医者様だけかなあ。動物のお医者様もいればいいのにね。そうしたら、その人がまた、動物を大切にしましょうって決まりを作ってくれるかもしれない」
「私たちは、大切にされていると思うわ。もう十分……まあ、見て。あそこに座っていたお兄さんが、お米をそっと、木の下に置いてくれたわ。ちょっとまってね、お母さん、お米を取ってくるから……」
鳥の声真似だと、高い声を出していたヨウタは、そこまで言うと立ち上がり、手に持っていた握り飯をほんのひとかけら取り、鳥の巣がある木の下に放り投げた。鳥の巣から顔を覗かせていた母鳥が、そのかけらにむかってふわりとおりたち、それを口にくわえると、すっと静かに巣に戻った。
「お母さんは、あれが罠だとは思わないのですか」
ヨウタの隣にいて、同じように高い声を出していたリュウは、そういってけらけらと笑った。もうあきた、とヨウタは母鳥の声真似をやめ、リュウの隣に寝転んだ。草の香りが、空だ全体を包み込む。海の香りも混ざって、とてもいい気持ちになる。このまま眠ってしまおうかと考えたが、リュウがそれをゆるさなかった。
「なあ、ひまだよ、ヨウタ」
「鳥の声真似してこの国の歴史をふりかえるって、なかなか高尚な遊びだったと思うよ」
「なにか楽しいこと、ねえかなあ」
「楽しいことって、例えば?」
ヨウタの質問に、リュウはうーんと首をかしげた。いつもこうだ、とりあえず、なにか楽しいこと。
「リュウ、よく考えろ。楽しいことはたくさんあるじゃねえか。こうやって、なんでもない時間を過ごすこと。飯を食うこと。寝ること。働くこと。おまえがほしいのは、驚くことさ」
「おどろくこと……」
「そう」
「例えば?」
「例えば……」
ヨウタがうーんと首をかしげた、そのときだった。先ほどまで見ていた鳥が、けたたましい鳴き声をあげ、ばさばさと子を残し、飛び立っていく。なんだあ、と飛び上がり、鳥の飛んでいく方向を見て、ヨウタは眼を丸くした。
「リュウ、見てみろ」
ヨウタが、指をさすその先に、リュウはゆっくりと目をやり、うおお、と声をあげた。
「ヨウタ、ヨウタ、何あれ」
「わかんねえ……でも、きっと、楽しいことだぜ」
ヨウタは立ち上がる。
海の向こうからやって来た黒い船が、ぼおっと挨拶をするように、大きな音をたてた。
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テーマ「江戸時代」




