渋谷、大好き
「渋谷!」
谷川慶太は走っていた。電車の音がかすかに聞こえる。夜中だというのに、まだ走っているのかと考え、すぐにいやいや、と頭を横にふる。
そんな場合じゃない。雑念が邪魔だ。渋谷、渋谷、渋谷のことだけ考えろ!
「どっち!」
前と右と左、ついでに後ろにも道は伸びている。
「渋谷はどっち、どの道、どれが正解なんだよ!」
「うるさいよ谷川ぁ」
名を呼ばれ振り返ると、冬なのに足を惜しげもなく出している女性たちの集団が、谷川を見てけらけらと笑っていた。どんなに滑稽に見えてもいい、と谷川は思った。第一優先事項は、渋谷の位置だ。
「なあ、なあ、渋谷の位置を携帯の地図で調べてください!」
先ほど谷川の名を呼んできた、金髪の女性の肩をつかむ。きゃあ、と女性たち特有のはやしたてるような声が、夜の街にこだました。
「自分の携帯はないわけ?」
「充電切れちゃったんだよ! 今何時?」
せわしないと、短髪の女性が笑っているが、谷川は気にしない。
「十一時半だよ」
すべてを聞く前に、谷川は頭を抱える。
「やばい! なあ、地図地図!」
「落ち着け、何言ってるんだ。乗りツッコミをしてやってるだけなんだぞ。携帯の、地図で、調べられると思うのか、渋谷の位置が」
金髪の女性が低い声で言ったあと、こいつ必死だよと高い声で笑う。ああそうか、馬鹿か俺はと思いながらも、必死に決まってるだろと、谷川は叫ぶ。
「渋谷はどこ! いま十一時半なんだろ、やばいやばい」
「もしかしておまえの携帯で、渋谷の位置、調べられるの?」
金髪の女性がニヤつく。それを皮切りに、女性たちが好き勝手に言いたいことを叫び出す。
「調べられそう!」
「こいつなら、そういう携帯持ってそう!」
「近未来だ、渋谷って入力したら、すぐに場所が分かる!」
「ハチ公さしちゃったりして!」
「それやばい! 携帯まちがってない!」
ぎゃはははは、という声を背中に、谷川は走り出していた。もういい!
「渋谷……どこだよ……」
星が綺麗な夜だった。最終手段は星に願うことだ、あと三十分。お星様、渋谷はどこですか。
「んなことしてもなあ」
落ち着け、と先ほど言われた言葉を思い出す。確かに落ち着かなければ。なぜさっき、携帯の地図で渋谷の場所が調べられると思ったのだろう? そんなことできるわけないのに。
それでも、そんな奇跡に、そんなハイテクに期待してしまうほど、谷川は絶望していた。
こんな広い東京で、渋谷の場所などわかるはずがない!
ついさっき、バイト終わりに読んだメールを思い出す。何度も読んだ、覚えてしまった。今日、私の誕生日。知ってるよね。仲直りしよう。思い出の場所で待ってる、思い出せたら許してあげる。
「女なんて……」
それでも、こうやって駆け回ってしまっているのだから、なんだかんだ惚れた方の負けなのだろう。谷川はため息をつく。手にしている紙袋を握りしめる。
よりによって、彼女の誕生日前に喧嘩を売ってしまった自分が悪い。分かってるのだ、つい、あたってしまった。
謝りたい、抱きしめたい、また、あの笑顔で笑ってほしい。
メールを読んでから二時間、走り回った。あと、二十分も無いだろうか。それでも、それでも。
谷川は走り出す。走る。とにかく走る。渋谷、渋谷、どこだ、渋谷。
息も絶え絶えになったところで、新宿西口近くにある電光掲示板を見上げる。あと二分で、今日、彼女の誕生日が終わる。
ああ、というため息と共に、足から力が抜けて行く。もう、ふらふらだ。
「懐かしかったね」
突然声をかけられ、谷川は反射的に振り向いた。振り向いた先にいた人物を見つめ、口をあんぐりと開ける。
「どうして……」
そこには、谷川の彼女がいた。懐かしかった、と彼女は繰り返す。
「久々に走ったよ、元陸上部でよかった、まだ余裕」
「どうしてっていうのは、そういう意味じゃなくて」
彼女は冗談、と肩をすくめる。
「出会った場所、初めてのデートの場所、初めてのディナーの場所、一周年記念、初めてのホテルは、笑っちゃった」
谷川の膝から力が抜けて行く。しゃがみ込みながら、小さく「ずっとつけてたのかよ」と頭を抱える。
「どんくらい覚えてくれてるかなあって、どんくらい大切に思われてるんだろって思って、ためした」
「……結論は」
「ま、合格」
ごめんね、と彼女が差し出してきた手に、谷川は紙袋を置く。
「プレゼント……誕生日おめでとう。いろいろごめん。許してください」
「うむ、許す」
谷川は立ち上がり、都会のど真ん中で彼女を抱きしめた。
「ちょっと!」
抗う彼女をますます強く抱きしめながら、谷川は小さく呟いた。
「渋谷、大好き」
私も、と言う彼女、渋谷美奈の声は、電車の通過音より小さかった。
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