モノクロームの運命
運命。
交響曲第五番。重々しい始まりが、頭の中をがんがんと叩く。勘弁してくれ。運命がドアを叩く音、だっけか。
音楽家にして、耳が聞こえなくなっていった彼は、その中でさえ作品を残していく。
俺は、じゃあ、どうするんだ?
ふざけるな。絵描きなのに、こんな、運命。まるで神様の暇つぶしだ。
可哀想な俺。ある日起きたら、世界から色が消えていた。モノクローム。散乱した絵の具に書いてある色を見て、笑えた。嘘だ、赤だなんて、この灰色が。
いつもの公園に行く。頭の中では、相変わらず運命の冒頭部分がループする。
「絵描きのお兄さん、死にそうな顔してる」
ベンチに座っていると、髪の長い女子高生が覗き込んできた。三年前ぐらいから、たまにふらっと現れる名前も知らない彼女を、俺は幻覚の類ではないかと思ったこともある。長すぎるロングヘアは、まるでフィクションのように美しかった。
ふいに、描きたいと思った。
でも、何色で?
「ベートーヴェン、交響曲第五番」
挨拶もなしに言うと、彼女は笑った。
「ハ短調、作品六十七。ソソソミー、ファファファレー。どうしたの」
「色が見えなくなった。神様の暇つぶしにひっかかっちまった」
俺は目を覆った。彼女が息を呑む音が聞こえる。
「それ、ほんと?」
「嘘だといいけど」
彼女は俺の隣に腰掛けると、そっかあ、とつぶやいて、足を揺らした。ぎ、ぎ、ぎ、と軋む音が等間隔て聞こえる。ぎ、ぎ、ぎ、それに合わせて聞こえる、運命の旋律。
「モノクロ?」
「空が灰色」
「お医者さんには?」
「まだ行ってない」
「怖いもんね、分かるよ」
てっきり非難されると思っていた俺は、なぜ、とつぶやいていた。
「バレリーナのたまごは、あるとき腱を切りました。三年前だね」
俺は黙って、顔をあげた。モノクロの彼女は微笑んでいた。
「神様の暇つぶし、いいかも。私もそれだった。ブチンって言うんだよ。その瞬間、あ、だめだって思った。調べたら、やっぱりだめでね。私も、お兄さんと同じ。運命の曲が頭から離れなかった。あの曲、すごいよね。でも、あの曲、お兄さん冒頭部分しか知らないんじゃない?」
「そうだね。そこが有名だから……」
モノクロの彼女の目が、空を見上げながらきらりと光った。
「じゃあ、全部聞いてみて。私は、全部聞いて、私自身の運命と仲良くなれたよ。お兄さんも、もしドアの向こうにいる運命と対面できると思ったら、病院に行ってね」
彼女は立ち上がると、小指を突き出した。
「私、お兄さんの絵、大好きなんだよ」
俺は、小指を静かに絡めると、すがるように彼女に訊いた。
「なぜ、優しい運命は、あんなにけたたましくドアを叩くんだ」
「それは、はやくお兄さんに会いたいからだよ」
じゃあねと去って行く後ろ姿に、天使の羽を見た気がした。
運命を聞くと、その曲は後半から豹変した。
モノクロームの世界が運命であり、俺に会いたがっているとはつまり、あとは俺次第なのか。
俺がそれでも、逃げられないのなら、その扉を開けるしかない。
後日、絵の具だらけの格好で公園に行くと、彼女はいつものベンチに座っていた。
俺の姿を見つけると、きらきらとした表情で立ち上がる。
「運命は、未来だった」
挨拶もなしに報告すると、彼女はきょとんとしたまま硬直した。モノクロームでもわかる、頬が「赤く」なっていく。
「どういうこと?」
「え、だから、ドアを叩く運命は、未来だったなって」
「……フューチャー?」
上目遣いで訪ねてくる女子高生。うむ。
「……フューチャー」
「あ、お兄さん、私の名前知らないのか」
やだ、と頬を抑えて「私、未来っていうの」と彼女は笑った。俺は目を丸くする。
なんて運命的。
「ねえ、よかったら、モデルをしてくれない」
運命は、未来だと思った。
彼女は、おそらくこの世の絵の具では表せないほどの美しい薔薇色に頬を染めて、もちろんと頷いた。
「覚えてる?」
彼女は、頬をおさえたまま、いたずらっぽく笑う。
「三年前、絶望しながらこの辺を歩いてたら、お兄さんに出会ったんだよ。何て言ったか、覚えてる?」
出会いのころの記憶が、俺にはなかった。首を横に振ると、彼女はもう、と眉根をよせた。
「死にそうな顔して、俺の好きな景色の中に入らないでくれないか。でも、酷すぎて笑えて、大丈夫だって思えたの。お兄さんが、私の運命の扉を開けるの、手伝ってくれたんだよ」
交響曲第五番が頭の中で流れた。
なぜだか優しく聞こえるその音に合わせて、俺の鼓動が高鳴っていた。
ベートーヴェンも、こんな気持ちだったのかもしれない。
運命の先には未来があった。未来は、フューチャーは、美しい希望だと思えた。
未来は、明るかった。
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テーマ「クラシック音楽」




