もうすぐ。私の書いた本を、君に。
ヤー君は天才だった。
私は凡人だった。
「ミホちゃん」
低い声で名前を呼ばれた。真夜中の、暗い道で。とっさに構えながら振り向くと、背の高い青年がそこにいた。電灯に照らされた彼は、やっぱりと微笑んだ。
「会えた」
「……どなたですか?」
「ヤストだよ、十年ぐらい前、隣に住んでた」
ヤスト、隣に住んでた。私は数秒考えて、記憶の底の方から、幼い少年の笑顔を思い出した。
「ヤー君?」
「そうだよ、久しぶり!」
手を広げ、彼は私に抱きついた。あれから十年。彼はおそらく、十八歳ぐらいだ。三十路である私の体温が一気に上昇する。彼は私とは対象的に、とても冷んやりとしていた。
「わ、本物だね、夢では触れなかったんだよ」
思い出す、こういう言葉の使い方。天才的な、世界の見方、表現力。
本当に本当に、羨ましい。
「私が、夢に?」
「そう、それで、ミホちゃんに会いたくなって飛んできちゃった。訊きたいことがあるんだけど、あんまり時間がないんだ」
早口で彼は言う。切羽詰まっているような口調に、私は不安を覚えながらも、じゃああそこで話そうかと、公園のベンチを指差した。
「ベンチ? ブランコがいいな、空に近くなれるから、空気が綺麗だよ」
幼いころの中身のまま、外見だけ成長したような無邪気さがそこにはあった。
彼と対峙するとき、私は自分のつまらなさを突きつけられていた。君にはこんな表現方法ができないだろう、と何かに言われている気が、いつもしていた。
ブランコに乗ると、彼は勢いよく立ちこぎをはじめた。古いブランコが、ミシミシと音を立てる。壊れるよ、と言おうとしたとき、ヤー君は「ねえっ」と大きな声を出した。
「訊こうと思ってたこと。ミホちゃんの本は、まだ出てない?」
私の本。胃がきり、と痛む。彼の記憶力に驚愕する。返事ができない。どうして覚えているのだろう、あの日の私の言葉を、夢を。
「……もう、書いてないよ」
えっ、と彼は顔をこちらに向ける。勢いよくこぎながら、そんなあ、と叫ぶ。
私は、非難されると思った。やめてしまえるほどの夢だったのか、がっかりだ、と。
しかし、違った。彼は分かった、と言って、くすくすと笑いはじめたのだ。
「何が分かったの?」
「記憶喪失でしょ?」
間髪いれずにそう言われ、私は言葉を失う。
「……へ?」
「記、憶、喪失!」
なるほどねと納得している彼をよそに、私は小さく「なんで」とつぶやいていた。その声は、彼に届いていなかったはずだ。それでも彼は、返事をするように明るい声で言った。
「だって、小説家になるって夢を、ミホちゃんが諦めるわけないもんね! あんなにいい笑顔で、話してくれたんだもん」
「……それは」
ヤー君みたいな発想力も表現力もなく、言葉の渦に飲み込まれ、悩み疲れ、もう無理だと夢から顔を背けたのは、七年も前のことだ。忘れてはいない。夢を、私は捨てただけだ。
「ミホちゃんが聞かせてくれた物語、すごく好きだったよ。空飛ぶ船に、虹色の妖精、笑う傘に、甘い雪」
「……よく、覚えてるね」
「あんな素敵な物語と夢、忘れる人が変なんだよ。ミホちゃんは、変なんだよ」
ヤー君の方が変だろう、と思って笑うと、よかったと微笑まれた。
「笑顔も忘れたのかと思った」
そんなに笑っていなかっただろうか。問う前に、彼は小さく時間だ、とつぶやいた。
「僕、引っ越すんだ。引っ越先には、宇宙一大きな本屋さんがあるんだよ」
「宇宙一?」
「うん、絶対にね。僕は信じてる。だから、ミホちゃんの本も絶対に読める。記憶が戻ったら、本を書いてね。きっとすぐに記憶は戻ってくるよ」
彼は膝に力を入れて、ぐんと前に大きくこいだ。そして、手を離し、闇に向かって、飛んだ。
「またね!」
彼は、月明かりに照らされながら、白い光になって消えた。うそ、と呟く私の声が遠くから聞こえる。白い光はきらきらと上昇しながら、星空に消えていく。
「ねえ、お母さん、ヤー君って覚えてる?」
電話の向こうで、あら、と母が驚いた。その後、何と言われたかは覚えていない。ただ、断片的な単語のみが、今でも記憶の中心にある。
私はその後、再びペンをとった。相変わらず拙い文章だが、それでも、夢を掴むために、そしてヤー君のいる世界の本屋に私の本を届けるために、物語を書き続けている。
母の言葉。
ヤー君、噂、病気、もうすぐ。
もうすぐ。
今でも、一人机に向かって泣きだしてしまうことがある。ヤー君は引っ越すと言っていた。そうだ、引っ越しだ、と自分に言い聞かせる。彼は引っ越したのだ。星の向こうに消えるようにして、引っ越していったのを私は見た。
夢を取り戻した私は、彼へ届くようにと、今日も物語を編み出すのだ。
またね、とヤー君は、確かに私に言ったのだから。
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テーマ「喪失」




