よくある言い回し
「そもそも幸せをさあ、数値にできないところに見いだしちゃったのが敗因なわけ」
とある裏路地にあるバーの個室で、女は机をばんと叩いた。
「相変わらず難しい言葉を使いうなあ、愛してるぜ」
正面に座っていた男も、負けじと机を叩く。うるさいわよ! と、女は男の手をつねった。
「何しやがるっ」
「愛情表現の一環よ。だいたいさ、分かりきってることを、よく面と向かって言えるわよね。あ、もうすぐ言えなくなるからってのは、無しにしてよ」
しゅん、と女は俯いた。男は、つねられた手の甲を押さえながら、ジェシー? と女の顔を覗きこむ。視界の上方に現れた髭面があまりにも近く、ジェシーは「わあ」と後ろに飛びのいた。
「びっくりした、やめてよ、エディ」
「俺のセリフだぜ」
ちぇ、とエディは、空になったグラスを意味も無く唇につける。二人がバーに入ってもう一時間近くが経っていたが、ジェシーもエディも、最初の一杯以降、酒を頼むことはしなかった。いつもだったら、バーのマスターが「次の酒は」と急かすところだ。
「マスター、来ねえなあ」
エディが、グラスを指先で持ち、くるりと回す。
「出会いがしらにあんなこと言っちゃね。気を使ってくれてるんでしょ」
「いいマスターだ。もっと、来とけばよかったな」
「後悔先にたたず、よね」
「なんだそりゃ」
「あんた、本気で言ってるの?」
あいにく俺は学が無いからね、とエディは少年のように頬を膨らます。その仕草に、ジェシーはふ、と小さく笑うと、細い指先をそっと、エディの頬に這わせた。
「今度会うときは、この髭、なくなってるのかしら」
「禿げてるってことか?」
「違うわよ、刑務所ではそらされるでしょ」
ぺちん、と軽く頬を叩かれたエディは、突然涙目になった。やめてよ、とジェシーが顔をしかめる。
「なあ、ジェシー。その爪で俺をひっかいてくれ」
「頭おかしいわ」
「傷をつけてくれたらさ、お前のこと、思いだせるだろ」
「……頭、おかしいわよ」
いつもそうだ、エディは、たまにとんでもない提案をする。
「ねえ、今思い出したんだけど、警官に追われててさ、角を曲がって、でももうすぐ追いつかれるってときに、あんた何したか覚えてる?」
突然の質問に、エディは固まる。
「忘れた?」
「そんなへましたか?」
「はは、確かに。したわよ、四回目のとき。あんたは私の長かった髪を、持っていたナイフで切った」
ああ、とエディは笑った。思い出した、と髭をさする。
「そうだ、それでお前の服を引きちぎって、ほぼ裸の状態にした。変装用のサングラスも、この手で握り潰した」
「そうよ、とても寒かった!」
「それで、俺はゴミ箱の間に身を沈めて、お前を俺の前に立たせた」
「立派な娼婦の出来あがり。警察もぎょっとしてたわね」
「その後、また邪魔? お客さん、ごめんなさいね、っていうお前のセリフは、賢かった」
「警察に、あのときの娼婦は私ですって言うわ」
「それはいい。覚えてくれているかな」
さあ、と小さくジェシーがこぼす。
「たくさん、盗んできたものね」
「……でももう終わり。俺らが愛しあっちまったのが、運のつきだな。ああ、幸せを数値にできないって、お金じゃない幸せが愛ってことか?」
恥ずかしいわ、とジェシーはエディの口を覆った。
「罪を償って、再会しましょ。――あら、マスター」
現れたマスターは、個室に顔をのぞかせ「なあ、さっきの話は本当かい。本当に出頭しちまうのかい」と訊ねた。入るタイミングを伺ってたのかしらと、ジェシーはおかしくなる。
「そうよ。世間を騒がせた泥棒も、今日でおしまい」
「しばしの別れだ」
「そうか……今日は俺のおごりだ」
マスターは泣きそうな表情を浮かべながら、とぼとぼと個室を後にした。
「ああ、やっぱりこの生活を手放したくないとも思っちまう」
「だめよ、私たちはお金じゃない幸せを見つけたの」
「けっ、よくある言い回しだぜ」
「あんたがさっき言ったのよ」
「そうだっけ」
ふ、とジェシーは微笑む。
「やっぱり、もうお別れしましょうか。なんだか、寂しくなってきちゃった」
「俺もそう言おうと思ってた」
エディは俯いたまま、顔を上げない。じゃあ、とジェシーは立ち上がり、震える声で言った。
「しばしの、別れよね?」
「あったり前だろお!」
はっ、とエディは笑いながら立ち上がると、涙に濡れた髭面をジェシーの赤い唇に押しつけた。長いキスをふりほどき、「動物!」とジェシーが笑う。
「じゃあ、またね」
「おう、またな」
ジェシーは早足でバーを出て、月夜の空を仰ぎ見た。向かうは、警察署だ。夜の空気を目いっぱい肺に入れ、吐き出すと同時に彼女は呟いた。
「愛してるわエディ。すぐに会いましょ」
星空が、エールを送るようにちかちかと瞬いていた。
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テーマ「別れ」




