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春の君は忘れ物よと 夏の僕の左手に

 夏の終わりに、それは空から突如現れ、計っていたかのように僕の頭上に舞い降りた。本当に軽いものなのに、僕はそれに気がつき、何だろうと左手でそれをつまんだ。薄いそれを見て、僕は君を思い出した。そして、ぎょっとした。嘘だろうと言いたかった。


 僕は君を思い出した。



 忘れるのは常だと、君は白い顔をして笑った。僕は、君への言葉が見つけられずに、ただ来るであろう時間を恐れていた。細い、細すぎる手を取ると、君はいつでも、僕の健康すぎる指に、そっと指をからめてきた。僕は、その弱々しい動作がとても好きで、同時に、とても辛かった。

 だめみたいだと、もう長くないと言われたその日から、僕は君の傍にできるだけいることにしようと、密かに決心していた。しかし、君はそういった僕の献身ぶりを嫌がった。特別扱いは嫌だと言っていた。

 でも、もうすぐいなくなってしまう人に、特別扱いをしない方が無理だ。

 ただ君と一緒にいたいだけだと言うと、君は困ったように眉を下げて笑った。仕方のない人、という言い方は、どこか古めかしくて、僕もつられて笑ってしまった。

 君と笑いあう時間は特別だった。全てを覚えていたいと思った。でも、その日、家に帰って、全ての会話を思い出したいと思っても、それは無理なことだった。ノートにできる限り書き綴ってはいたが、明らかにその量は、今日の君と過ごした時間よりも少ないのだった。

 僕は、僕の脳みそを呪った。なんて使えない、と頭を殴ったりもした。もっと働け、もっと働け、君を忘れないために。


 君は強くて、僕は弱かった。もしかしたら、君は僕に弱さを見せなかっただけかもしれないが、僕は君に弱さを見せていた。見せ続けていた。最後まで、僕は君に甘えっきりだった。

 僕は毎晩、暗闇の中で恐れていた。君を失うことも怖かったけれど、君を忘れてしまうことも同じように怖かった。今思えば、どうしてそのことを君に打ち明けたりしたのだろうか。君は、そのときに、馬鹿ねえと細い声で言った。

「忘れないと生きていけないの。忘れていいの。ずっとずっと、覚えている方が無理よ。私だって、天国で少しずつ、あなたのことを忘れていくわ」

 やめてくれと、僕は君にすがりついた。君からそんな言葉を訊くのが嫌だった。もうすっかり、何もかもを受け入れている君の強さが怖かった。弱さを見せてくれとも言えない僕は、もしかしたら、君の悲しみの代弁者になっていたのかもしれない。

 そう思うのは、少しおこがましいだろうか。


 春なのに雪が降ったある日、君はその雪より白くなって天国へ行ってしまった。

 君は、僕に手紙とプレゼントを残していた。プレゼントは、腕時計だった。生きることへの暗示だということは、すぐに分かった。長い長い手紙で、君はずっと、僕のことを心配していた。

「忘れていいの。でも、全ては忘れないで。少しだけ覚えていてね」

 この言葉が、僕をどれだけ苦しめたか。

「忘れないから」

 僕は、常に左手に腕時計をつけるようにした。それを見るたびに君を思い出そうと誓ったのだ。君は望まないかもしれないが、それでも君をできるだけ覚えていようとした。ノートに、君との思い出を書きつづった。時間のある限り、君を思い出した。

 くるくると、何度その時計の針が回ったか知れない。僕は、生きていた。君のいない世界で、不思議な感覚だったが、生き続けていた。

 何度冬が来ただろう。そのたびに寂しくはなるけれど、僕は君を忘れてはいないよと、星に向かって呟やいた。星が瞬くのを、返事だと思って、雪の中一人微笑んだりもした。


 僕には自信があったのに。


 夏の終わりまで、それは奇跡的に木の枝にでも引っ掛かっていたのだろう、桜の花弁だった。しぼんで茶色くなっていたが、微かにピンクの色を残していた。その花びらをつまむ僕の指先は震えていた。

 桜花。それは君の名だ。この花弁は君か。僕は緑色の木を見上げた。

 花弁を取って、それを見たときに、僕は君を思い出した。

 君がくれた時計を、つけ忘れていることに気がついたのだ。脳みそで記憶の連鎖が起こり、僕はすぐに君を思い出した。

 そしてぎょっとしたのだ。

 僕は君を忘れていた。

 君のくれた時計を忘れて、君のことを忘れて、ふらふらと歩いて、僕はどこへ行こうとしていたのだろう。


 舞い降りたそれは、おそらく君だと思った。

 ほら、忘れている、とでも言いたげな花びらを、僕はそっと手放す。それは、風に乗って、ふわふわと飛んで行った。君が笑っているような、そんな気がした。


 僕は、雲ひとつない空を見上げた。

 君への言葉を、探していた。


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テーマ「舞い降りたものは」

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