ミスユー
苔の生えた腕を私に突き出して、彼は笑った。
「最高のギャグだろ」
「……何がでしょう」
「これが」
「………………」
意味がわからず、私は曖昧に首をかしげた。多いときは週に一度、少ないときは二年に一度という自由気ままなペースではあるが、彼はこの宿のごひいきだ。適当にあしらってヘソを曲げられては困る。
私からの無言の返事に、彼は「まじかよおー」と天を仰いだ。彼は今、木の天井と、私が毎日浮かべているろうそくが視界に入っているだろう。ふわふわと漂うろうそくは、ラジオから流れる音楽に合わせて動いている。しゃれた魔法をかけたと思うが、それに気がついた人は目の前の根無し草ただ一人だ。
「うおーん」と遠吠えのような声を出したあと、彼は大げさに体を戻し、私の目をまっすぐに見つめた。綺麗な黄緑色の目は、宝石のように輝いている。
「苔だぜ、この俺様の手に! 君に散々、自由人、適当、後先考えない、今しか見えていない、しまいにゃ馬鹿呼ばわりされた俺に!」
「そこまで言ってないですよ」
「君は酔うと口が悪くなるんだぜ」
「………………」
知らなかった。
今度は恥ずかしさのあまり無言になってしまったが、彼がにやついているのに腹がたち、私はひとつ、咳払いをした。
「とにかく、あなたの手に、苔が生えたと」
「そう! 呪われちまって」
「呪いぃ?!」
馬鹿じゃないですか! と喉まで出かかったが止めた。
「何のこのこと来てるんですか! 早くその呪い、解いてもらわないと! だいたい、どんな呪いなんですか?」
「ほっとくと苔人間になる」
「そんなあっさり! 馬鹿ですか!」
あ、と口をふさいだときにはもう遅かった。飲みこんだ言葉を、わずか数秒後に吐きだしてしまった。ぎゃあ、と彼は自分の両手で両頬を押さえる。
「ひどい! 客に向かって!」
その通り、客に向かって私はなんてことを。すみません、と言う前に、苔の生えた腕を指差し、彼は子供のように叫ぶ。
「だって超ギャグじゃん! 最高じゃん! 大爆笑ものだと思ってすっとんできたのに!」
「笑えませんよ! 呪いでしょう?!」
「呪いでも君に見せたかったの! 転がる石には苔が生えないって言うだろぉ!」
「………………」
転がる石には苔が生えない?
「何ですかそれ」
「ことわざぁ!」
彼は、やれやれといったふうに大きな手で自分の両目を覆った。
「知らなきゃ通じないわ、そら……」
「ごめんなさい……」
少し落ち込むと、いいよと彼は優しい声で言った。時折彼は、陽だまりのような優しい声を私に注ぐ。
「転がる石ってのは、俺みたいなやつのことだよ。あれこれ好きなことして、転々として。転がってる石みたいだろ。そういうのには苔も生えない、つまりは、なーんも身につかないってことだよ」
「へえ」
「そんな俺に、苔が生えた!」
ほらあ! と手を突き出す彼が幼く、私は思わず吹き出してしまった。私の反応が気に入ったのか、彼の表情がぱっと明るくなる。
「笑ってくれた、よかった!」
「遅くてごめんなさい」
「んにゃ、十分だ」
彼はそういうと、カウンターに苔の生えていない方の手をおいて、身を乗り出し、私の額にキスをした。私が幼い頃から、彼はこうやって、サヨナラの代わりにキスをする。いいかげん私もいい大人なのだから、と思うが、嫌ではないのでやめてとは言わない。
彼が離れた後、私たちは黙ってしまった。私は、彼が何かを言ってくると思っていた。彼もそうだったのだろうか。分からないが、私たちは、ほんの数秒、無言で見つめあってしまった。
いつもへらへらとしている彼が、少しだけ眉間にしわを寄せて、私を見つめてくる。黄緑色の目が、私を捉えて離さない。
私は小さく息を吸った。何か、何か言わなければ。
「――その呪い、治るんですよね?」
「うん、軽いからね」
そう言って、彼はくしゃりと笑った。先ほどの表情が嘘のようだ。
「でも水の呪いだから、俺疎くて」
「水に潜って人魚の怒りでも買いましたか?」
彼はリュックを背負い直しながら、「そんな感じ」と答えた。
「黄緑色の魚がいるっていう湖に飛び込んだら、その湖の主が激怒! 勝手に入るなってさ」
「また変なものを……」
「変なものとは酷いな!」
彼は苦笑すると、私をみて肩を竦めた。
「君の好きな色の魚を、土産にしてやろうと思ったのに」
「えっ」
「君のために受けた呪いだよ、なんてね」
あははと間抜けな笑い声を出しながら、彼は外へのドアを開けた。
「んじゃまた、次もよろしく」
そう言うと、彼は私の返事も聞かずにドアを閉めた。
あっさりとした退出だ。急に静かになり、私は思わずため息をつく。
ラジオから「ああ、子供っぽいあなたが恋しくてたまらない」という歌声が聞こえた。
私は慌ててラジオを切った。
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テーマ「転がる石のように」 時空モノガタリ賞受賞