知られざる契約更改
俺の野球人生をかけた闘いが始まる。
テーブルを挟んだ目の前には、高級スーツを着た恰幅のいい男、球団社長が座っている。白髪は短く刈られ、日焼けした顔は浅黒い。何度も会っているが、今日の社長はいつもと違う。手元の書類を見つめる視線が睨むように鋭い。
彼の横には、この時期には毎度見慣れた中年男の姿がある。眼鏡の奥の目が相変わらず冷たい。
男が口を開く。
「誠に残念ではありますが、あなたはチームの来季の構想に入っておりません」
前置きなしにズバリと言い放たれた言葉が胸に突き刺さる。さらに社長からとどめのひと言が、
「これは戦力外通告です」
待ってくれ!
確かにケガで今季はまったく投げられなかった。だから、年俸ダウンは仕方ない。ベテランといわれる年齢だし、大幅ダウンだっていうなら、それでも受け入れましょう。でも、首って……ひどすぎる。
俺は社長の目をまっすぐ見つめ、「ケガも治りましたし、来季はガンガン投げますから、どうか首だけは」と、テーブルに頭を擦りつけるように頼みこんだ。
だが、言葉は返ってこない。
窺うように視線を上げると、社長は、次に交渉する選手のものだろうか、隣の中年男から、新たな書類を受け取っている。
俺は肩をぐるぐる回しながら、まだまだできます、とアピールした。でも、彼らは書類を見つめはまま視線さえ向けてこない。社長など小指で耳をほじくってやがる。
くそっ! こうなったら嘘でもなんでもついてやる。
「実はリハビリ中に魔球を習得したんです」
すると社長が視線を上げ、「どんな球だ?」と聞いてきた。そう問われると言葉が返せない。所詮、俺はストレートとカーブしか投げられない。
しどろもどろ状態の俺を見て、彼らは何やら頷き合っている。
まずい! このままでは退室させられてしまう。こうなったら最後の手段しかない。
ここに来る前から、もしかしたら、という嫌な予感はあった。だから、神社の賽銭箱に1万円もいれて、ひとつのお願いをしてきた。
全てはこの時のためだ!
俺はゆっくり息を吐き出し、気持ちを整えて、視線をまっすぐ前へと向けた。そして、宣言する。
「すいませんが、アレをお願いします」
アレは、公にはされていないが、選手が生涯一度だけ行使できる制度だ。
社長たちの眉間には深いしわが寄っている。そんな姿を横目に、鞄からユニフォームを取りだし、袖を通した。
ボタンもはめたし、これで準備は整った。そこでもう一度、「お願いします」と言って、深々と頭を下げた。
頭を上げると、目の前には引きつった顔がある。ツバを飲んだのか、社長のノド仏が動き、わかった、という怒りを噛み殺したような低い声が返ってきた。
それも当然。彼らにとったら、決して快い制度ではないのだ。
社長は俺を睨みながら立ち上がった。俺も社長の目を見たまま立ち上がった。ここで視線をそらせば、気持ちで負けてしまう。
中年男が渋い顔でビデオカメラを用意し、俺たちが映るようにして構えた。この制度を行使したことと、その結果をコミッショナーに報告するためのものだろう。
張り詰めた空気の中、中年男が、「それでは」と畏まった口調で言い、手にしているリモコンに指を――と突然、部屋の中に軽快なリズム音が響いた。
社長の首がリズムをとりながら微かに動きだす。軽やかな姿とは裏腹に、重く鋭い視線が、俺の目へと突き刺さってくる。
俺も、そらすことなく睨み返し、頭の中でそのリズムを刻んだ。そして、ここぞというところで声を――
「野球するなら♪ こういう具合にしやしゃんせ♪」
そして、同時に発せられた声が重なった。
「アウト! セーフ!」
塁審が行うジェスチャーをし
「よよいのよい!」
俺は運命をかけて五本の指を突きだした。
社長が突き出した手は――終わった。
もし、俺が握りしめた拳を突き出していたなら、あと1年は選手として生き延びることができた。そこで、結果を残せば、これからも選手として……。
あっという間に最後の闘いは終わった。
俺は天を仰いで、大きく息を吐き出した。
なぜだか気持ちはスッキリとしている。もちろん悔しいし、未練がないわけじゃない。だけど、やることはやった。
俺はルールに従い指をボタンにかけた。なんだか熱いものがこみあげてくる。
「お世話になりました」
高校球児のような大きな声で頭を下げた。
涙がひと粒こぼれ落ちた。
扉がゆっくりと閉まった。
テーブルの上には、少し色褪せたユニフォームが置かれている。