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包丁を握って  作者: ミズノ
6/6

その6

 カーテンの隙間から漏れてきた光で、俺は目を覚ました。枕元にあったスマートフォンで時間を確認する。月曜日の午後十一時〇分。まだ夢の続きを見ているみたいに、耳の奥には水の跳ねる音が聞こえていた。

〈レース結果知りたい?〉

 昨日のレース結果を、俺はまだ知らなかった。もし、俺の大学が勝っていたら、俺はきっと悔しいだろう。初めての試合で、勝利を味わうことのできた加藤のことを、羨ましく感じて悶絶するに違いない。

 では、もし負けてしまっていたら? 河野先輩の沈んだ表情と、相手チームの歓喜を想像して、それでも悔しいと思うだろう。どちらにしても、俺にはとってはろくな結果ではない。

 ベッドから降りて、思い切り伸びをする。体は軽い。今の状態なら、何十キロでも走って西住さんを追い抜けそうだ。

 ペットボトルの水を飲み干しながら、冷蔵庫の内容物を確認する。使いかけた野菜、肉、卵、カレールウ。冷蔵庫の上に置いたスマートフォンをスリープから復活させると、デジタル数値が十五分を示していた。昼食の準備を始めるのにちょうどいい時間だ。

 包丁とまな板を準備して、必要な食材を冷蔵庫から取り出す。にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、たぶんまだ食べられる豚肉。部活に参加しない日の食事はほとんど外食で済ませていたが、たまには自分で作ってみるのもいいかもしれない。ひとまず、俺は米を洗って炊飯器に入れ、電源を押しておいた。

 それから玉ねぎの皮をむく。半分にカットし、芯を取り除く。いつだったか、芯ごと鍋に放り込もうとして人見に制止されたこともあったが、それはもうずいぶん前のことだ。

 玉ねぎを丸々一個薄切りに、にんじん二本とじゃがいも三個を荒く切ってボウルに放り込む。次の一個に手をかけたところで、俺は作業の手を止めた。

 一人前のカレーを作るにはどれだけの量の野菜を切ればいいだろう。いつも見ているだけで気分が悪くなるような量の野菜切り続けていたから、一人分の分量がわからない。

 ネットで検索してみると、必要な量はもっと少なかった。俺の調理時の量感覚は、一般的なそれとは大幅にずれていた。俺は一カ月の間に、妙な習慣を自分の体に刻み込んでしまっていたようで、出来上がったカレーはやはり作りすぎだった。

 鍋の中にあるカレーの量は、明らかに一人分ではなかった。今日と明日、もしかしたら明後日も、俺はご飯の上にひたすらカレーをかけ続ける日々を送ることになるだろう。

 食べ終わった皿とスプーンをシンクに放り込む。鍋、包丁、そのほか諸々の調理器具、シンクにたまった洗い物に手をつける気が起こらなかった。部屋の中には、調理後のカレーのにおいが満ちている。俺はベッド脇の窓を開けて、外の空気を部屋の中に取り込んだ。時計は、十二時三十分を指している。午後の講義には、余裕を持って参加できそうだった。


 昼時のキャンパスは人でごった返していた。食堂の前には列ができ、あちこちからとめどない笑いや話し声が聞こえてくる。まだ講義が始まるまで余裕がある。俺は、何か飲み物を買おうと思って、大学生協の購買に足を踏み入れた。

 店の中をゆっくり歩く。左右を通り過ぎる人の顔をちょっとだけ確認する。俺は、自分の見知った顔を見つけてしまわないか心配していた。河野先輩か、加藤か、人見か、会いたいような会いたくないような、天秤の上でふらふらとバランスを取るみたいな気分だった。

 店の奥から、適当な飲み物を一本だけ手に取り、商品棚の間を足早に歩く。左右の棚にはフライパンや鍋、菜箸などの調理器具が置かれている。大学生協には、意外といろんなものを売っているのだ。

 レジまであと五メートル。誰とも会わずに、講義室までたどり着けると思った。

「よ、奇遇だね」

 俺は足を止めた。俺は小さく手をあげて返事の代わりにした。俺は、思わず服のポケットの中に手を突っ込んだ。

「何してんの?」

 人見は不思議そうに聞いてくる。

「発信機でもついてんのかなと思って」

「何言ってんの」

 人見は笑う。俺は小さく息を吸い込んだ。

「頼みがあるんだ」

「うん」

「昨日の試合結果を教えてくれるか」

 勝っても負けても、俺にとってはろくなことがない。けれど、俺は知らなければならないと思った。人見は、いいよ、と言って満足そうな笑みを浮かべた。

「いいけどひとつ、やってもらわないといけないことがある」

 人見は、商品棚の一画に手を伸ばした。蛍光灯の光を受けて銀色に輝く刃と、木製の取っ手が目に入る。ちょっとだけ高価そうな包丁が、プラスチックの容器に梱包されて釣り具にかかっていた。人見は、包丁の刃の部分を掴むと、柄の部分を俺のほうに向けて差し出した。

「もう一度包丁を握ってみませんか」

 その様子は、天使が悪事を唆しているようにも、悪魔が善行を勧めているようにも見えた。けれど、どっちだとしても、俺はもう心を決めていたのだ。

 俺は、さっきまで軽かったはずの右腕を重く感じた。たぶん、レジについた店員さんが、不審そうな表情でこちらを見ているのが気になったからだと思う。

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