その5
川を下っていくと、少しずつ人や車が増えてくる。部活動オリジナルのTシャツやジャケットに身を包んだメンバーと顔を合わせないようにして、ひたすら自転車を漕いでいく。
俺はすぐ西住さんに追い越されてしまい、また後ろから追う形になった。もうどれくらい走っただろう。頬を切る風が冷たく感じる。汗をかいたし、それに自転車の速度が上がったからだ。
五十メートルくらい先に、大きな橋が見えた。その傍らで、歩行者用信号が青く明滅を繰り返していた。西住さんは、前傾姿勢になって足に力を込め、自転車の速度を上げた。信号が赤になってしまう前に、西住さんは横断歩道を渡り終えてしまった。
俺は違和感を覚えた。西住さんは、点滅する信号に自転車で突っ込んでいくなんて、安全を軽視した走り方をしない。
俺は、信号が赤に変わった横断歩道の手前で自転車を止めた。西住さんは、横断歩道を渡り切った先で俺を振り向いた。
「危ないですよ」
俺の呼びかけに、西住さんは白い歯を見せただけだった。それから、手でメガフォンを作るみたいにして俺に呼びかけた。
「前島」
「なんですか」
「試合、見ていったらいい。後で追いかけてこい。先に行って待っとく」
西住さんは俺の返事も待たず、小さく手を振ると俺に背を向けた。俺は慌てて、
「待っててくださいよ!」
呼びかけたが、西住さんは何も聞こえないといわんばかりに、颯爽と走り去ってしまう。
大きな背中がどんどん遠ざかっていくのを眺めながら、たぶん今日は追いつくことができないだろうと、俺は考えていた。
西住さんが俺を待つつもりがないなら、少しくらい試合を見ていったって問題なかった。
橋は二車線の道路になっていて、その両脇は歩道になっている。俺は自転車を降りて、橋の真ん中まで歩いた。
欄干に手を置いて、川の上流を見渡す。俺が自転車で走ってきたのとは反対の岸に、〈漕艇センター〉と大きく書かれた建物が見えた。確か、あそこが大会の本部だったはずだ。
ガガガ、と建物に取り付けられたスピーカーが耳障りなノイズを発した。それから、聞き慣れた部員の声が、へたくそなアナウンスで呼びかけた。
〈発艇、五分前です〉
レースはもうすぐ始まるところだった。ずっと上流に視線を移すと、遠くのほうに、二艇のエイトが並んでいるのが見えた。細い船体の左右から、四本ずつオールが突き出している。あそこが、大会のスタート地点なのだ。
俺のいる橋まで、スタートからは五百メートルくらいの距離があるだろうか。ゴールはこの橋を越え、もっと下流に下った二千メートル先にある。そこでは、両大学の部員やOBが、自分たちの艇が一秒でも早く帰ってくるのを待っている。
俺は左右を見回した。幸いなことに知り合いは一人もなかった。俺は安心して、遠くに浮かぶ二艇のボートを眺めることができた。
〈一分前〉
自分が試合をするわけでもないのに、ぴりりと、空気が引き締まるような感覚を覚えた。それは、俺がまだ漕手だったときに試合で感じたのとまったく同じ緊張感だった。
〈アテンション〉
選手が構える。
〈ゴッ〉
わずかな間をおいて、アナウンスが発艇を告げた。水に沈んだ八本のオールが、力強く水をかいて宙に跳ね上がる。スタートで前に出たのは、俺たちだった。
思わず、欄干から乗り出して橋から落ちそうになる。それからふっと我に返る。俺たち、だなんて、部外者が何を言っているんだろう、と思う。
二艇のエイトは、ぐんぐん速度を増して近づいてくる。五百メートルの距離を詰めるのにかかる時間は、だいたい一分半。もう、オールの色も、漕手の後頭部の形も、俺の目にはっきりと見えていた。
八本のオールが、舵手のコールに合わせてリズムを刻む。それに合わせて、漕手の座る前後移動式のシートもがちゃがちゃと音を立てる。もう、橋から十メートル程度のところまで二艇が迫ってきていた。
艇のトップが水を切り、俺の足元で橋の下に潜り込んで見えなくなった。俺は踵を返し、歩道を降りて道路を横断しようとした。
そこで、思い切りクラクションを鳴らされた。俺は崩れそうになる体を立て直して、歩道に引っ込んだ。赤い軽自動車のガラス窓が開いて、運転手が顔を出した。運転手は俺を怒鳴りつけると、再びアクセルを踏んで俺の前を通り過ぎていった。俺は、足元を進む水音にずっと意識を集中していた。
橋の反対側から、艇のトップが現れた。順位は変わらない、けれどその差は、一メートルもないほどに縮んでいた。互いの力の拮抗したスタートの展開からは、どちらが勝つのか全然予想が付かなかった。
俺の足元を通り過ぎた二艇のエイトは、俺から遠ざかってぐんぐん小さくなっていった。二千メートルの距離は遠い。この場所からでは、どちらが勝ったのか見分けることはできない。
俺は、遠ざかっていく二つの影を眺めながら、ほっと息をついた。橋を横断する道路の上を、休日の車がぶんぶん走っていく。俺は、自分の鼓動が少しだけ速くなっていることに気が付いた。たぶん、自転車で走ってきたせいだけではないと思った。
ポケットに入れたスマートフォンが震えた。画面を開くと、西住さんからメッセージが届いていた。もう、かなり遠くまで行ってしまったに違いない。開くと、
〈今、ゴールしたぞ〉
とある。
〈見てたんですか〉
と返事をする。
〈せっかくだし見てくか、と思って〉
俺はなんと返信するか思いつかなくて、そのままポケットにスマートフォンをしまった。もうこの場所に用はなかった。俺は、傍らに止めたままの自転車のハンドルに両手をかけた。
「あれ?」
聞き慣れた声が目の前から聞こえた。メッセージのやり取りに気を取られて、周りを全然見ていなかったのだ。
「……人見、なんでここにいるんだ」
「新入りのマネージャーにはまだ教えられないな」
人見は、大きめのカメラと、トランシーバーと、ストップウオッチを首から下げていた。がちゃがちゃと複雑に絡まる紐に絞めつけられて苦しそうだ。
「来てくれたんじゃん」
「……たまたま通りかかったんだよ」
人見は俺の顔を見てにやにやしていた。本当に通りかかっただけなのに、俺の言葉は、真実を言っている自分にさえ嘘みたいに聞こえた。
「レース結果知りたい?」
人見はトランシーバーを手に持って見せる。二千メートル地点から、トランシーバーで勝敗を聞いたのだろう。
俺は返事ができなかった。黙っている俺を見かねたように、人見のトランシーバーが耳障りな音を立てた。人見は黒い機体を耳に当てて、受信した音に耳を傾けた。にやにやした表情を浮かべていた顔に、ふっと焦りの色が浮かぶ。
「ヤバっ、早く戻らないと、先輩に怒られる」
人見は踵を返して慌てて走って行った。と思うと、ふと立ち止まって俺のほうを振り返る。
「待ってるよ」
それから、失言をしてしまったみたいに、目を左右に泳がせて付け足す。
「えっと、もちろん、皆で」
人見はそれだけ言うと、もう一度俺に背を向けて、もと来た道を駆けて行った。