その4
「最近、よく会うな」
鏡の前でネクタイを結んでいると、後ろから声をかけられた。講師控室の入り口から、ラグビー部員を思わせる大きな体が姿を現した。西住さんだった。
西住さんは、短く切った頭髪を撫でながら、草食動物を思わせる穏やかな笑みを浮かべた。地を這うような低い声と、表情を作っていないときの不愛想な表情から打って変わって、笑みを浮かべるとまるで童話に出てくるキャラクターのようだ。そのギャップのせいか、西住さんは塾の生徒に妙に好かれている。教え方も上手で、学年最下位だった中学二年生の子を、一年間で学年一桁台まで引き上げたことがあるという。その話を、俺はバイトの面接当日に塾長から聞かされた。新人塾講師の手本になるくらい上手なのだ。
「暇になったんで」
俺はネクタイを首元できゅっと締めた。
「彼女に振られたのか?」
西住さんは冗談っぽく笑ってみせる。
「部活辞めたんですよ」
そうか、と、先輩はロッカーにかけてあったジャケットを取り出して羽織った。
「部活ってしんどい人もいるからな。でも、大学は辞めるなよ。俺みたいになるからな」
「西住さんみたいになれるなら大学なんて喜んで辞めますよ」
馬鹿だろ、と西住さんは笑う。西住さんは数年前に大学を中退して、この塾でずっとアルバイトをしているという。
俺が部活に顔を出さなくなって、もうすぐ一カ月が経とうとしていた。河野先輩とも、加藤とも、人見とも、時々大学の中で顔を合わせる程度だった。
もともと週一で入っていた塾講師のアルバイトを週四に、それだけでは物足りなかったから飲食バイトと掛け持ちした。やることがたくさんあるのはいいことだ。そのほうが、余計なことを考えなくても済む。彼女に振られたときもそうかもしれないが、仕事は心の隙間を埋める方法として実は一番優秀だ。辛い記憶を頭から消し去りながら給与を得られるなんて。これ以上の気の紛らわし方は俺には思いつかない。
壁にかかった時計を見上げると、もう授業が始まる五分前だった。西住さんは、ペン立てから一本ボールペンを取り出して胸ポケットに差し込んだ。
「前島、今、時間持て余してるんだろ」
俺は頷いた。それでも、部活を辞める前と比べれば退屈だった。
「今週の日曜、自転車乗って海まで行こうかと思ってるんだ。また付き合ってくれよ」
西住さんは、俺の知らない面白いルートをたくさん知っていて、サイクリングに付き合うのは楽しい。けれど、俺はすぐに返事をすることができなかった。西住さんは、俺が口ごもっているのを見て小さく笑った。
「嫌ならいい」
「全然、ぜひ行きましょう」
「無理しなくていいぞ」
ふと、鞄の中のスケジュール帳を確認してみようとして、やめた。確かめるまでもなく、その日に何があるかよくわかっていた。人見と話をしてから、いや、人見と話をするずっと前から、その日のことは俺の頭の中にあったのだ。
その日は、ちょうど対抗戦当日だった。
俺はずっと、対抗戦を見に行かない理由を探していた。それと同時に、見に行かなければならなくなるような特別な理由も探していた。試合を見たいわけじゃない、見たくないわけでもない。ただ俺は、そのどちらかを、自分の意思で選ぶことができなかったのだ。
「その日の予定をどうやって埋めようか死にそうなくらい悩んでたんで」
なんだよそれ、と西住さんは俺の態度を不思議がる。けれど、それ以上何かを聞いてくることはしなかった。時計の針は、もう授業開始の一分前を示していた。
「そろそろ出よう、早くしないと、塾長にまた怒られるぞ」
西住さんは、慌てた足取りで講師控室から出て行く。俺も、テーブルの上に置いてあった教材を手に持って立ち上がった。余計なことを考えるより、勉強が嫌いな中学生の相手をしているほうが、俺にとってはよほど楽だと思った。
〈五分後に〉
西住さんのメッセージは端的だ。俺はスマートフォンをポケットにしまって、部屋の窓から外を眺めた。狭い学生寮からの眺めはもう見飽きたけれど、三階の高さから見下ろす景色は、精巧なミニチュアを飾っているみたいでなんとなく楽しい。高い場所から何かを見下ろす楽しさは、人の征服欲のあれこれと何か関係があるのかもしれない。
窓を開けて顔を出すと、汚れのない朝の風が部屋に吹き込んでくる。暖かい日差しを頬に感じる。ずっとそうしているだけで汗をかいてしまいそうだ。七月の初旬、気持ちよく晴れた週末は、体の動かすのにうってつけの一日になりそうだった。
と、寮の前の道路に、ヘルメットとサングラス姿の大きな体が、自転車に乗って現れた。三階の高さからでも見間違いようがない。西住さんは、寮の玄関付近に自転車を止めると、顔をあげた。サングラス外して、俺に見えるように大きく手を振る。俺は、傍らに置いたリュックをひっつかんで、慌てて部屋の外に飛び出した。
市街地を抜けて大通りに出る。休日の国道には車が長い列を作り、いらいらとしたエンジン音を響かせながら、遠くの信号が青になるのを待っている。そのわずかな隙間を、オートバイが軽快な足取りで駆けていった。
俺と西住さんはぐんぐん自転車のスピードを上げていった。色も形もさまざまな車を次々に追い越していく。だんだんと強度を増していく空気の流れを感じながら、俺はいっそうペダルを踏む足に力を込めた。
ふっと視線を上げると、青い空の向こうに、飛行機の白い機体が細い雲を後方に描いて飛んでいくのが見えた。
走ることは喜びだ。だから、人はこんなにもたくさんの乗り物を地球上に生み出してきたに違いない。足があるから、人は走ることができる。自転車があればから速く、車や電車に乗ればもっと速く走ることができる。飛行機に乗れば、重力を断ち切って空に飛び立つことができる。水の上を滑るように走るあの感覚も、最高の喜びのひとつだった。
西住さんが、交差点に差し掛かる直前でスピードを落とした、それに倣ってブレーキに手をかける。西住さんは一瞬だけ俺を振り返ると、大きく手を振って左折を示した。俺はハンドルを切って交差点を折れた西住さんの後を追った。
狭い横道をゆっくり走る。しばらく進んだところで、目の前がぱっと開けた。朝日を受けてきらきらと輝く水面に、俺は思わず目を細めた。サングラスをしているからまぶしくはなかったのだが。
「運河に沿ってずっと下るぞ」
今朝、俺の家の前で西住さんはそう言った。
運河は、目を凝らしても見えないくらい遠くの河口に向かって続いている。西住さんは、俺よりもずっと速い。時々こうやって、俺を置いてけぼりにして走り去ってしまうのだ。堤防沿いの道を気持ちよさそうに走っていく背中を、俺は気合を入れ直して追いかける。
十分くらい走っただろうか。西住さんは突然自転車を止めた。後ろについて走っていた俺も、ブレーキをかけて隣に並ぶ。西住さんは、自転車にまたがったまま運河の水面に目を凝らしていた。
「なにかいるな」
俺も、西住さんの視線を追って運河を見やる。水面を滑るように進んでいく細い艇とそこから突き出た八本のオールに、西住さんも気づいてしまった。
見慣れた競技艇だった。何も知らないまま自転車で通り過ぎてしまえばいいと思っていたが、そうはならなかった
「ボートですね……」
ああ、と西住さんは声を漏らした。
ユニフォームも、艇とオールの塗装も、俺の大学のものだった。八本のオールは、舵手のコールに合わせてリズムよく水を掴み、滑らかに艇を進めていく。ふっと、クルーのうちの誰かが、こちらに顔を向けた。この距離では、お互いの顔はわからない。けれど俺は、反射的に艇から顔を背けていた。
西住さんは、堤防のコンクリートに手をついて遠くを眺めている。
「下流のほうにも結構いるな」
下流にも、数艇のボートの影が浮かんでいる。岸辺には人が集まり、テントや大きな応援旗や幟などが風にはためいているのが小さく見えた。
「大会か?」
「そんな感じですよ」
西住さんは、俺を振り返った。説明を求めているらしい。俺は思わずため息をつきそうになるのをこらえながら、簡単に話しをすることにした。
「今日、ボートの大会なんです。俺のいる大学と、別の大学とで二千メートルのレースをやるんですよ」
岸辺にいるのは、両大学のボート部員とそのOBだ。俺と西住さんがいる場所は、レース水域とは外れた練習水域にあたるから、見物客も部員も少ない。
俺は遠く水面に浮かぶボートの影をぼんやりと眺めていた。
「見てくか?」
俺ははっとして西住さんを見た。声の調子は冗談めかしていたが、その表情は真剣だった。
「行きましょう。早く行かないと、帰りがしんどいですよ」
おい、と静止する西住さんを待たずに、俺はペダルに力を込めた。ゆっくりと回るタイヤはアスファルトの微細なでこぼこをしっかりキャッチして、ゆっくりと自転車を加速させていく。
後ろから、西住さんが追いかけてくる。西住さんの前に出たのは、今日はこれが初めてだった。