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包丁を握って  作者: ミズノ
3/6

その3

 大学の講義が終わるまで、まだ一時間近くあった。二百人まで収容できる広い講堂で、科学技術の利用と平和について、つまらなさそうな顔で講義していたのは、自分の書いた専門書を講義の必須資料として学生に買わせることで悪名高い先生だった。講義室の収容人数に対して、四分の一もいないくらいの出席率だ。教科書さえ買えば講義に出る必要すらない、という話をどこかで聞いたことがあるから、たぶんそのせいだと俺は思っている。

 講義が始まって三十分の間の内容は、ハーバー・ボッシュ法等の発明がもたらす恩恵と実害についての事例を紹介し、そこから研究者はかくあるべき、的な話に持ち込むというありがちなものだった。

 大学に入学してから学んだ一番衝撃的なことは、学生にせよ、先生にせよ、真面目には講義を成立させる気のない人が結構多いということだ。ただ椅子に座りながら、壇上を歩き回りながら、時間を空費して休憩時間になるのを待っている。片や学位のため、片や給与のため。そう思うと、不真面目な教授と不真面目な学生は、相性のいいビジネスパートナーと言えないこともない気がする。……そんなことを考えてしまうくらい、俺は退屈していた。これなら、居酒屋でビールでも運搬でもしていたほうがよほど有意義だ、

 前の席から、記名式の出欠表が回ってくる。俺の前の列に座っていた茶髪三人組は、出欠表に名前だけ記載するとそそくさと立ち上がって、足早に講義室を出て行った。壇上の教授は、何も見なかった風にずっと講義を続けている。

 俺も出席簿に名前と学生番号を適当に書き、なんとなく、教授がこちらに背を向けたタイミングを見計らって席を立った。所詮俺も、軽薄な大学二年生の一員なのだ。

 講義棟を出て適当に歩く。キャンパスに植えられた桜並木は、もう濃い緑色に変わっていた。しばらく歩くと広い芝生の真ん中で、アカペラサークルの連中が気持ちよくコーラスを奏でているのが聞こえていた。ただ俺は聞いているだけで気分が悪くなりそうだった。

 目的地もなく、ふらふらとキャンパス内を歩き回る。図書館前に設置された時計を見上げると、昼休みまではまだ三十分ほどで時間があった。

混雑する前に昼食を済ませようと思って食堂に入ると、やっぱりまだ空いていた。人数は片手で数えられるくらいだ。適当に選んだセットメニューを箸でつつきながら、今日の予定を考える。午後の時間にはぽっかりと大きな穴が開いていた。夕方の練習がなくなったからだ。

 バイトを増やしてもいい、学生らしく学問に打ち込むのもいい、部活を辞めてみると、時間だけはたくさんできた。けれど、その使い道を俺はほとんど思いつけなかった。

 部活を引退した先輩が、用もないのに頻繁に合宿所出入りにしていたことを思い出した。部活に入れ込みすぎたせいで、突然自由になった時間をどうしていいかわからなくなったという。定年後の会社員とかこんな感じなのかな、とはにかみながら呟いその先輩は、笑顔の端に少しだけ寂しそうな影を残していた。

 ふと、視界の端に見慣れた姿を見つけた。人見だった。レジで会計を済ませると、学食のセットメニューをお盆に載せてこちらに歩いてくる。心なしか、足取りが弾んでいるように見える。特別機嫌がいい、というわけではない。食事を前にしたときの人見は、作るときも食べるときもそんな感じだった。

 人見は空いている座席に近寄ろうとして、急に立ち止まった。俺は顔をあげた。視線の先に矢でもついていたみたいに、人見は小さく飛び上がった。お盆の上の味噌汁が波打ってお椀の縁からこぼれ落ちる。彼女は人よりも少しだけわかりやすいのだ。

 俺は小さく手をあげてみせた。人見は、救いを求めるように左右に視線をそらした後、諦めたみたいに笑みを浮かべて、手をあげる変わりにお盆をちょっとだけ上にあげてみせた。

「……早いな」

 壁にかかった時計を見ると、講義が終わるまであと十分だった。

「込む前にお昼食べようかなと思って」

 人見は手を合わせてから端を手に取った。お盆の縁に、こぼれた味噌汁が広がっている。この時間帯に食堂にいる学生は……俺も含めて、どこか困ったところがあるのかもしれない。

「人見」

 人見は無言でご飯を口に運んでいる。俺とは目を合わせたくないらしい。それも仕方がない。逆の立場だったら、俺も同じようになるだろう。

「人見にも一言相談しておいたらよかったよ」

「そうだよ」

 人見はぱっと顔をあげた、いつもの穏やかな印象は消え、責めるみたいな厳しい目つきを俺に向けていた。

「前島くんの苦しさは私にはわからないけど」

 人見は、耐え切れなくなったみたいに視線を下に落とすと、コップに入ったお茶に口をつけた。ふっと小さく息を吐く。

「前島くんが私のことを同期だと思ってなかったのはよくわかったよ」

「悪かったって」

「実をいうと私はちょっと嬉しかったんだよ」

 人見は、目の前のお盆にじっと目を落としたままだった。

「前島くんがマネージャーに転向するって聞いたとき」

 人見は、俺と同期入部したたった一人のマネージャーだった。先輩たちからよく可愛がられていて、いつも楽しそうにしていた。

 けれど、大学のキャンパスで見かける人見はほとんどいつも一人で、同じ学年の学生話しているところを俺は見たことがなかった。

「人見はそういうやつだったんだな」

 俺は、ふと覗いてしまった同期の心の闇から目をそらした。

「全然違うよ。なんでそうなるの」

 人見は、真剣な表情から一転、不満げな目つきで俺のほうを振り向いた。口元が少しだけ緩んでいたから、別に本当に怒らせてしまったわけではないと思う。

「教えてほしいことがある」

「何?」

「マネージャーの仕事の魅力は何か」

 人見は、考えながら斜め上に視線をそらした。俺は、何を言われたところできっとその魅力を理解できないと思っていたけれど、その正体を人見に聞いてみたい気持ちになっていた。

「そうすれば、泣いて謝りながら前言撤回する気になるかも」

「そこまでしなくても……」

 人見は、箸を置いて考える。数分の沈黙の後、

「わかんないな、説明するのは難しい」

 俺は、箸先でつまんだおかずをテーブルの上に落としそうになった。危うくバランスを立て直して、口の中に放り込む。

「ボート部にいるのにボート乗らないなんて、いても意味がないと思ったんだよ」

 俺は思ったことを口に出していた。目の前に座っているのが人見のことを俺は一ミリだって考えていなかった。

「私は意味のないことをずっとやってるんだね……」

 失言だった。息がつまって、言葉が出てこなくなる。

「いや、それは、人の好みというか、趣味というか、適性というか」

 どんな言葉を後から付け足したところでどうにもならない。人見は感情を失ってしまったみたいに、冷めた視線で俺のことを観察していた。

「前島くん」

「なんだよ」

 俺は、ちょっとだけ腰を浮かしそうになった。人見の声に、何か大切なことを伝えようという意思を感じたからだ。

「ボートの試合見たことある?」

「ある、何度も」

 人見はあっと気づいた風に付け加えた。

「漕手を辞めようと決めた後に」

 俺は箸を止めた。一カ月の間に、公式戦や大学同士の対抗戦はあっただろうか。

「ないよ」

「だよね」

 人見は当然という風に頷いた。お前の心なんてお見通しだ、とでもいいたげなしたり顔に、俺は安心と一緒に、ほんのわずかないらだちを感じた。

「対抗戦見に来てよ」

 人見は、俺をまっすぐ見据えた。堪えられなくなって、俺は食事に戻るふりをして視線を外した。

「行かない」

「いいじゃん、どうせ暇してるんでしょ」

「俺は忙しいんだ」

 大嘘だった。

「そうだよね、大学の中を意味もなく十分も二十分もふらふらしたりするのって結構忙しいよね」

 俺は、努めて目の前の食事に意識を集中した。人見は、口元ににやにやと嫌な笑みを浮かべながら、ずっと俺の返事を待っていた。無言のままやり過ごそうと思ったけれど、結局折れたのは俺だった。

「気が向いたら、行くかも」

 人見の様子をうかがう。俺と目が合うと、人見は嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。

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