その2
大部屋には、もう部員が全員集まっていた。練習を終えた後は、部員が全員そろって夕食を取るのだ。だから、ミーティングや部の重要な連絡をするのもこのときだ。
部員の人数は三十人くらい。大部屋、とはいってもパーティ会場みたいに大きいわけではない。部員が全員揃うと、満員電車と同じくらい狭いし、テーブルの上には全員分のお皿を置ききれない。だから、俺は食事を切り上げるとさっさと席を立った。
一人台所に入る。蛇口をひねって、皿についた汚れを洗い流す。今日の夕食はカレーだった。野菜を切り、サラダと汁物を作り、食事を盛りつける。たったそれだけの作業も、運動部員三十人分となると重労働だ。いつもけろっとした顔でこの仕事をやってのけてしまう人見が恐ろしい。俺には苦痛で仕方がなかった。
シンクの底に、蛇口から水が流れ落ちる、俺はぼんやりとその様子を眺めながら、これから話さなければならないことを頭の中で並べ替えたり、追加したり、消したりしていた。
「前島、代わってくれ」
台所の入り口に、加藤が立っているのに気が付いた。俺は一歩横に移動し、蛇口を加藤に明け渡した。
加藤はスポンジを手に取り握り、皿を荒い、頭上に干してあった布巾で皿をふいた。一連の動作の間、加藤の腕の筋肉は、それがひとつの意思を持った生き物のように滑らかに動いていた。
加藤のすらりと伸びた長い手足はまるで彫刻のようだ。一目見れば十分に鍛え上げられた筋肉がその周りを覆っているのがわかる。
一年は、人が変わるには十分な時間だと思う。入部したばかりのころは、何をやっても俺は加藤に負けたことがなかった。加藤が俺より恵まれているのはその長身だけだった。俺は、水上で加藤を追い抜くたび、心の奥深くで、誰にも気づかれないようにほくそ笑んでいたものだ。
短距離も、ウェイトも、艇の取り扱いを覚えていくスピードも、俺のほうが上だった。加藤は、そこらの間の抜けた大学生とは違う。そのことが、俺の自尊心をいっそう気持ちよくくすぐった。ライバルと言えば、聞こえはいいかもしれない。けれど、加藤と俺との関係は、そんな綺麗な言葉では説明することができなかった。
〈お前、他の部活で活躍できないからこの部活に入ったんだろ。それで、一番になって嬉しかったのか〉
「対抗の練習、どうだ」
俺は何気なくつぶやいた。漕手を諦めてマネージャーになって変わったことはたくさんある。そのひとつは、どうでもいい雑談を躊躇いなく誰かに仕掛けられるようになったことだ。加藤やほかの漕手がそうであるように、一年で俺も変わった。確実に、嬉しくない方向に。
「先輩たちに合わせるのがやっとだ。でも、楽しいよ」
加藤は皿を洗いながら小さく笑った。それから、
「腰、良くならないのか」
加藤は、顔をあけて俺のほうを見た。俺は言葉を失った。加藤の顔に浮かんでいたのは、俺が一番見たくない表情だった。憎しみではない、嫉妬でもない、無関心でもない、怒りでもない、せめて俺の不幸を鼻で笑ってくれれば、怒りの対価としてちょっとだけ憂鬱が薄らいだのに。
その顔に浮かんでいたのは、哀れみの表情だった。
俺は無言で頷くことしかできなかった。俺はもう漕げない。腰を壊してしまったら、もうボートに乗ることはできないのだ。誰にも負けたくないという努力の先で、俺は自分の居場所を失った。そして俺に代わってその場所に座ったのは加藤だった。
加藤は、皿を棚に戻すとさっさと台所を出て行こうとする、俺は、ぼんやりその後姿を見送っていた。
「前島」
「なんだよ」
「諦めるなよ、リハビリ、続ければ完治するかもしれないだろ」
加藤の言葉は、どれも強さと自信に満ちていた。それは、今の俺にはないものだ。
リハビリはギャンブルに似ていた。治療をしても、それだけで四年間を終えてしまうかもしれない。もしかしたら練習に戻ることができるかもしれない。しかし戻ることができたとして、ブランクを埋めて選手としての実力を取り戻すことができるだろうか。
熱意とか、努力とか、根性とか、高校時代にはそれが全部だと思っていた価値観を、俺はもう信じられなくなっていた。努力をすることにすら、そろばんをはじいてその価値を見定めないと安心できない。それは、この上なく悲しくて、そして不幸なことに思えた。
黙ったままでいると、俺にしびれを切らしたのか、加藤はもう何も言わずにさっさと台所から出て行ってしまった。
大部屋は、開催を来月に控えた大学対抗レガッタの話題で持ちきり。大会の運営担当の先輩たちは、ここのところずっとパンフレットの作成や関係者との打ち合わせで忙しそうにしている。
部内での出漕メンバーももう決まっていた。部屋の片隅に置かれたホワイトボードには、選手八名と舵手一名、合計九人のクルーの名前が上から順番に書かれていた。三年生と四年生が中心のクルーだが、その中で唯一の二年生である加藤の名前だけが、一回り大きな文字で書かれているようには見えた。
俺は入り口からゆっくりと部屋に入り、全員の顔が見える場所に立った。それから、傍らに置いてあったリモコンを操作してテレビを消すと、そこに向けられていた視線が一斉に俺のほうを向いた。
「すみません、少し、皆に話したいことがあります」
大部屋を満たしていた雑音が消えて、全員の視線が一気に俺に突き刺さる。この場に立つのは、俺にとっても初めての経験だった。
三十人の前に立つと、誰に話をしているつもりなのか、どうしてこんなことをする必要があるのかもわからなくなる。俺は少しだけ緊張していた。手が汗ばんできて、自分が無意識のうちにこぶしを強く握りしめていた。言うべきことはたった一言だ。大したことじゃない。俺は、小さく息を吸って、吐く。腹部に軽く力を入れる。
「今日で部活を辞めます」
大部屋に満ちた沈黙は、まるでそれ自体が質量を持っているみたいに思えた。本棚の前で、人見がぽかんと口を開けたままの表情でいるのが目に入った。そういえば、今までで人見には何の相談もしていなかったことを、俺は今になってようやく思い出した。




