その1
合宿所の台所には包丁の音が響いていた。とんとんとん。包丁とまな板がぶつかって音を立てるたび、傍らにいちょう切りされたにんじんが山と積みあがっていく。ふっと息を吐いて、俺は手を止めた。とんとんとん。音はやまない。人見優香も、俺の後方で熱心に野菜の山を切り刻み続けているからだ。
俺は、横によけておいた緑色の茎の山を片手で鷲掴みにして、足元にあったゴミ箱に投げ捨てた。狙い澄ました一投のつもりだったけれど、ひとつだけ、ゴミ箱の端を外れて落下する。そのまま汚れた床を転がって、人見の薄汚れたクロックスの踵にかつんと当たった。
「前島くん!」
語尾が跳ねるように強い口調に、俺は思わず包丁を取り落としそうになる。床から顔をあげると、オールのシンボルが印刷された青いバンダナが目に入った。後頭部でひとくくりにされた黒髪は、文字通り馬の尻尾みたいに、人見が動くたびにひょこひょこと揺れた。一見すれば、雑誌のモデルみたいな長身と大人っぽく見える整った容姿なのに、今にも歌いだしそうに包丁を握る姿から子どもが遊んでいるような印象を受ける。細い体躯に黒のエプロンを巻き付け、その下の服装は上下ジャージだ。この光景には、一カ月経っても全然慣れなかった。
「もう終わったの?」
とん、と最後に包丁でまな板を一打ちする。規則正しく続いていた音がやんだ。俺は、足元のダンボールの中に並んだにんじんを目で数えた。
「まだ、もう五本で終わり」
「包丁さばきが巧みになったね」
心なしか声が震えていた。彼女は、俺に背を向けたまま手の甲で頬を拭った。
「大先輩にはまだ勝てないよ」
人見は、台の脇に置いたティッシュペーパーに手伸ばした。ちらりと覗いた白い頬が柔らかく緩んでいる。
「大先輩はやめてよ。私たちは同期、大学二年生」
人見は包丁をまな板の上に置いて俺を振り返った。俺はぎょっとした。人見は両目を涙で潤ませ、お化けの真似でもするみたいに、両手を宙に浮かべていた。
「ごめん、泣くほど嫌だとは思わなかったんだ」
「違う違う」
人見はふるふると首を横に振る。
「前島くんコンタクトしてたよね?」
俺は頷きながら、人見の後方の作業台を覗き見た。銀色のボウルが置いてある。その中にはカットされた玉ねぎがいっぱいに入っていた。そしてまな板の上には、まだ刻まれていない玉ねぎが趣味の悪いお城みたいに積みあがっている。視界に入れているだけでも目が痛くなりそうだった。
「……最初に言ってくれればよかったのに」
今日は、どんな面倒な仕事でも喜んで請け負うつもりだった。言葉の後ろに、最後なんだから、と付け足そうとしてやめた。人見は、痛みをこらえるように小さく何度も頷いた。
役割を交換して、もう一度作業に移る。これだけの量だ。コンタクトをしていたって当然目が辛い。目をこすりつつ、できるだけ静かに玉ねぎを刻む。結局、全部カットし終えるのには十五分ほどかかった。目に痛みと涙がにじむ。目をしょぼしょぼさせながら、俺は三十人分の玉ねぎの入ったボウルを人見に手渡した。人見は、導火線に火が付いた爆弾を扱うような手つきでとで、恐る恐るボウルを受け取った。
こいつを炒めるのも大変な作業だ。彼女が玉ねぎを鍋に流し込む。玉ねぎを流し込む、というのは奇妙な言い方だが、大量
玉ねぎを鍋に移し替える様子は、まるで液体を流し込んでいるように見えるのだ。じゅうう、と熱せられた鍋の底で、水と油が交じりあって暴れ始めた。
「人見」
「うん?」
人見は、腕の長さくらいありそうなヘラを使って、玉ねぎをかき混ぜ始めた。その様子は、まるで暴れまわる猛獣を抑え込もうとしているみたいだ。
「なんでマネージャーやろうと思ったんだ」
作業の手が止まった。いきなり酸素がなくなってしまったみたいに、人見は目と口を丸くした。なんでマネージャー〝なんて〟やってるの? 口にした俺にはそう聞こえた。人見にも、間違いなくそういうニュアンスが伝わっただろう。
彼女の唇の端が小さく動く。手放したヘラが鍋の縁に当たって、かつんと音がする。
「マネージャーなら試合で迷惑をかけないかなって……」
人見は遠い目をしていた。それからはっと我に返ったかと思うと、困ったみたいな笑みを浮かべる。俺は少しだけ安心した。
「それに、皆いい人ばっかりだったしね」
俺は自分の発言を後悔していた。ほかの仕事や役割を無意識のうちに軽んじていたことに気が付いてしまったからだ。
「代わるよ」
「え、いいよ」
「俺がやるより、大先輩がやったほうが早く終わるだろ」
俺はダンボールの箱を埋めるじゃがいもの山を指で示した。こいつの皮をむいて切り刻むのが、俺が今からやろうとしていた仕事だった。
「大先輩はやめてって」
人見は面白くて仕方がないといった様子だった。彼女は笑いの沸点が少しだけ低いけれど、それは幸せなことだと俺は思う。数往復の押し問答を続けた後、人見はヘラの取っ手をひょいとこちらに向けた。俺はそれを受け取り、鍋の底で加熱され続ける大量の玉ねぎを力いっぱいかき混ぜた。
鍋の横に置いてあったにんじんを投下し、炒める。その後に水と、人見に荒く切ってもらったじゃがいもを投下して鍋にふたをする。これだけの量をこなしていると、料理をしているというよりきつい労働に従事しているみたいだ。
顔をあげると、壁にかかった時計が目に入った。人見も俺に倣って時計を見上げる。
「そろそろ皆帰ってくるね」
人見はちらりと俺のほうを眺めた。あっ、と小さく口を開け高と思うと、何かを振り払うみたいに頭からバンダナを外した。
「私、艇の着岸手伝ってくるから、後はよろしく」
人見はバンダナとエプロンを台の上に放り出すと、逃げるように台所を飛び出し行った。それをきっかけに、少しずつ階下が騒がしくなってくる。
合宿所の二階は食事用の大部屋と台所があるが、一階はボートを壁やラックにかけて格納しておくための艇庫になっている。練習から帰ってきた部員が、艇の洗浄と片づけをしているのだ。
とりとめのない雑音を耳にすると、自然と階下の情景が頭に思い浮かんでしまう。工具同士がふれあい、サンダルの底が砂地をこすり、ホースから放たれた水流が舟底にぶつかって流れ落ちる。
俺はただひたすら、綺麗な絵画を黒で塗りつぶすみたいに、まな板の上のきゅうりの束を切り刻むことに集中した。
と、階下から、どんどんと乱暴な足音が上ってくる。その震源が床や壁を震わせながら近づいてきたかと思うと、台所の入り口から、巨大な熱源がぬっとあらわれた。
俺はゆっくりと振り返って、ねぎらいの言葉を口にした。
「先輩、お疲れ様です」
入り口から顔を出していたのは河野先輩だった。にっと笑みを浮かべると、日に焼けた真っ黒な肌のせいで、歯の白さが異様なまでに際立って見える。俺もちょっと前まではそんな感じだった。水上でボートに乗っていると、水面からの照り返しのせいで恐ろしく日に焼ける。けれど、一カ月も艇に乗っていない俺の肌色は、先輩と比べれば真っ白と言って過言でないくらいだった。
「マネージャーっぽくなってきたな」
「こいつのせいですね」
俺は頭に巻いた無地のバンダナを指で示した。
「料理に髪の毛が入るから必ず着けろ、って人見にさんざん叱られたんで」
俺は、切り終わったきゅうりをボウルに投擲し、そこにレタス、もやし、ミニトマト、ホールコーンをどさどさ突っ込んだ。その上にありたっけのドレッシングを振りかけて適当に混ぜる。人見の前ではこんな雑な真似はできない。河野先輩は、何も気にしていない様子で俺の作業を眺めていた。
「エプロンもしたらいい」
「家に忘れちゃったんで」
エプロンまでしたら、同期や先輩にイジられそうでなんだか嫌だ。
河野先輩は面白そうに笑いながら冷蔵庫の扉を開けた。オレンジジュースのパックを取り出してカップに注ぐと、傍らに置いてあったプロテインを溶かして一気に飲み干した。オレンジジュースとプロテインは、練習の直後に摂取することで筋肉の増強に効果的らしい。
俺は、使い終わった調理器具をまとめてシンクに放り込んだ。
「人見を手伝ってやったらどうだ」
「俺に手伝えることなんてないですよ」
河野先輩は、壁の向こうに目をやった。そっちの方向には川がある。俺たちが練習で使っている場所だ。川べりに艇を上げ下ろしする船台があり、水上練習を終えた部員はそこに戻ってくる。
「さっき、船台で転んで川に落ちてた」
「……助けてきます」
俺は頭からバンダナを外した。入り口から出る直前、河野先輩は、声で俺を引き留めた。
「漕手経験のあるマネージャーは、部にとって大切な存在だと俺は思ってる」
俺は足を止めた。たぶん先輩は、それを言いに来たんだと思った。はい、と返事をした俺の声は、自分でも驚くほど元気がなかった。
艇庫を出て、建物のすぐ前にある堤防を上る。堤防の上から見下ろすと、川べりに人見がひとりぽつんと立っているのが見えた。俺はコンクリート舗装された坂を駆け降りた。俺の足音に気が付いた人見は、仲間を見失った草食動物みたいな目をして俺を振り向いた。水で濡れたジャージがぺたりと体に張り付き、髪も川の水でべたべたになっている。
「……大丈夫か」
人見は小さく頷いた。
「戻って着替えろよ、それに、先輩の着岸は手伝わなくていいからな」
もうひとつ小さく頷く。人見は、艇の着岸を手伝おうとしたのだ。
艇を船台に着けるのには、それなりの技術が必要になる。一年生のころの俺も一人乗りの艇をつけようとしてよく船台にぶつけそうになった。先輩に手伝ってもらわなかったら、今頃その艇は傷だらけで使い物にならなくなっていたかもしれない。
けれど、一年も乗艇経験を積めば、よほど下手ではない限りうまく着岸できるようになる。
「最初から前島くんに頼んだらよかったよ」
人見は、肩にかけたタオルで頬の泥を拭いながら、あきれたような笑みを浮かべていた。
「いや、いいんだ。もう戻ってくれ。気を遣わせて悪かった」
人見はふっと真顔になった。
「やっぱりわかる?」
ちょっと首を傾げてから、また困ったような笑みを浮かべる。人見は、困ったときも嬉しいときも、いつも笑みを浮かべる。だから、表情を見ているだけだと何を考えているのかわからないことがある。
「わかるよ」
「前島くん、ボートの話をしてるとき、無念で仕方ないって感じものすごい出してるから。本能寺の信長とかこんな感じだったんじゃないかなっていつも思うよ」
「……そうか」
彼女は、時々どう突っ込んでいいのかわからないことを言う。
「前島くんは誰より頑張ってた。漕げなくて悔しいのがわかるなんて、私には言えないけどさ」
俺は無意識のうちに頭の後ろに手をやっていた。大学の部活動は、人と人との距離が近すぎる。そのせいで時々、お互いに知りたくないことをお互いにわかってしまうことがある。
「……マネージャーも楽しいよ」
人見の背後では、西日を浴びた川面がきらめいていた。なんとなく、そのまぶしさから目をそらしてしまう。
「人見」
「うん」
「台所の火つけっぱなしだったかも」
人見はえっ、と声を上げた。彼女は慌てて駆け出して、すれ違いざまに俺の肩を思い切り叩き、ぱたぱたと堤防を上って行った。
その姿を見送って、俺はもう一度、輝く川面に目を向けた。遠くに、二本のオールがゆっくりと艇を近づけてくるのが見えていた。もうすぐ、皆が陸に上がってくるだろう。
俺は自分の決意が揺らがないことを祈りながら、船台に艇が戻ってくるのをぼんやり待っていた。