幽霊の彼女ができたかもしれない
さて、これはどうしたものか。
幽霊に惚れられた。
何を言っているのか意味が分からないと思うが、本当なのだ。
今、俺は数年前から一人暮らしのアパートに居るのだが、机を挟んだ反対側に、幽霊は居る。
見た目透けているとか、死人のように青白いとか、そんなものは何も無い。ただ、触ることが出来ず、偶に空を飛び、死に装束を着ている辺り、幽霊であることに間違いはないのだ。
髪は長いが、普通に居たらかなり可愛い部類に入るであろう顔は、全く隠れていない。
今は、こちらをずっと見つめて、現状をぐるぐると頭の中で整理し続ける俺を、心底幸せそうな顔で見つめている。
「な、なあ、どこで俺を見つけたんだよ」
取りあえず、俺に惚れた経緯を聞きだそう。相手の事を全く知らないんじゃあ、何も言いようがない。幽霊ではあるが、彼女は間違いなく人間であるだろうし。
聞かれた幽霊は、幸せに満ちあふれた表情を崩さず、表情にお似合いの声色で言った。
「このアパートの側にある酒屋の前です! 貴方様を見た瞬間心奪われてしまって......こんなの、人殺しで打ち首にあってこの方、初めてですっ!」
さりげなく壮絶な過去をカミングアウトしたが、最早そんなことで一々驚いていられない。
彼女の言う酒屋は、幽霊の言った通りこのアパートのすぐ近くにある。それこそ、徒歩で五分もかからないほどだ。そんな近くで偶然幽霊に惚れられる確率なんて、それこそ天文学的な確率だろう。そもそも、俺なんて場所を問わず、女に惚れられる確率なんて皆無に等しいのだ。
「......分からねえな、なんで俺なんだよ」
最大の疑問を率直に口にした。
「恋にはっきりとした理由など必要ありましょうか! 惹かれたから好きになった。それだけです」
立ち上がり、両こぶしを体の前で握って熱弁する幽霊。
これは答えになっていないと受け取ろう。
というか、多分この女、どこまでも着いてきそう――幽霊だから、憑いてきて、のほうが正しいかもしれない――な感じだな。実際、ちょっと飲み物を飲む為に立ち上がった時もずっと後ろに居た。これでどうやって普通の生活を送れというのだ。
ため息をついて立ち上がる。じっとしているよりも、何かしていたほうが考え事ははかどるものだ。
丁度、夕飯時が近づいてきているので台所へ向かった。普段は料理をするにしても簡単なもので済ませてしまうのだが、気を紛らわすためにも、ちゃんとしたものを作ろうと思う。
一歩踏み出した時、足にちくりと軽い痛みが走った。
慌てて足を上げてみると、そこには何か、陶器の破片のようなものが転がっている。小さかったので怪我はしていないようだ。
「片付け忘れですか? 危のうございますよ」
案の定俺の後ろに憑いてきていた幽霊が、肩越しに手の平に置いた破片を見て言う。
俺は特に何も言わず、台所へと向かった。
――
延々背後に幽霊を従えながら作ったのは、ミートソーススパゲティーだった。特に理由はない。食料の在庫を見て『これしかない』と思ったというだけだ。
「料理、お上手なんですね」
黙々と昼飯を食べる俺に、無言の気まずさなど全く気にしていない様子で幽霊が話しかけてくる。
普通の料理ではあるが大して難しいものではなく、褒められても嬉しいわけではない。正直言って、休日に家で食べる昼食なんて大概無言だったので、その言葉一つがとてもうざったく感じてしまう。
そんなワケで、彼女の発言にはだんまりを決め込んでいる。しかし彼女は俺が存在しているだけで嬉しいらしい、遠慮など全く見えない。
「お前、ずっと俺につきまとう気かよ」
ふと嫌な予感がして聞いてみると、幽霊はコクコクと頷いた。
予想はしていたが最悪だ。どんなホラー映画よりも恐ろしい状況。
「私が出来るのは、貴方様に憑くことだけ......だから、それで私の愛を感じていて欲しいのです」
「それ、ストーカーって言うんだぞ」
「そんなことないです!」
駄目だこりゃ......
丁度食べ終えたので、皿を片しにまた台所へと向かう。
立ち上がったところで、今度はガラスが割れるような音が小さく響いた。その音は、部屋の隅に置いてある棚の上から聞こえたものだった。
見ると、棚の上に置いていた写真立てにひびが入っている。
「......怪奇現象でしょうか? 怖いですね」
「お前が言うんじゃないよ」
そんなやりとりをしながら、写真立てを手に取った。
不自然な事に、そこには何の写真も入れられてない。
これを置いた覚えがないわけでもないが、正直インテリアなど全く興味が無かったので、すっかり忘れてしまっていた。
直ぐに興味が失せ、写真立てを棚に戻す。
――
幽霊が来てから一日目の夜。つまりそのやりとりの数時間後、俺はパソコンの前に座っていた。
『幽霊 取り憑かれたら』と検索してみたのだが、胡散臭い新興宗教のサイトや、同じく胡散臭い霊能力者のサイトなんかが溢れかえっていて、全く役に立ちそうにない。
先ほど『幽霊 好かれたら』と、違う単語でも調べたのだが、そのときはラノベやSSばかりが出てきてしまったのだ。
正直、不毛な調べ物である。というか、パソコンやインターネットという科学の産物に、幽霊などというオカルトの極みを尋ねたのが間違いだったのか。
そんな事を思っていると、ふと一つのリンクに目がいった。
「幽霊の概要、何故取り憑かれるのか、取り憑かれてしまったら」
題はこれだけだ。他のサイトが必ずといっていいほど末尾につけている、なんとか会とか、霊能者なんとかといったものがない。
一抹の期待を込めてそれをクリックすると、飛んだサイトはまるで論文のように文字が並んだサイトだった。
生まれてこのかたあまり読書の習慣のないせいで、それを見た瞬間読む気が失せてしまう。活字や長文は本当に苦手だ。
どのみち大したことは書いていないんだろうと、グリグリとマウスをいじって画面をスクロールさせる。
ほとんど文字は読み取れなかったのだが、唐突に何かが引っかかって手を止めた。
『すなわち、霊は物体その物ではなく、内に備わった性質に憑くものであるといえる』
この一文に繋がるまでが非常に長く、読めそうにない。しかし、それ故に理解ができない文章ではあるのだが、何故か引っかかるのだ。
「何をされておられるので?」
突然背後から声をかけられ、思わず声を上げかける。まだこの状況に慣れきっていないようだ。いや、慣れたら慣れたで困るのか。
声の主は言うまでもなく幽霊だ。お陰で引っかかりも何も有耶無耶になってしまった。
「何でもない」
溜息をついて立ち上がる。この女を見てると、真面目に対処しようとしている自分が馬鹿らしく思えてくる。
寝よう。そう思って布団に潜り込んだ。どのみち実体のない幽霊は放置する。
精神的疲労があったおかげか、すぐに意識は深みへと落ちていった。
――
気が付くと、泥水の中のような、気味の悪い流動体の中に立っていた。
あたりを見回しても、とりとめのない流動体が流れていくだけで、何一つ情報を得ることができない。
何かできるわけでもなくただ佇んていると、流動体はまるで栓が抜けたように一か所へと流れていく。見ようによっては、形の無いものが形をとろうと纏まっていっているようにも見える。
霧が晴れるように、或いは泥水の泥が水底に堆積するように、流動体が一つの空間としてまとまった。
時代劇に出てきそうな、古い建物の中。そこには血を流し死体になりつつある女と、彼を殴った返り血に衣服を染めた女が居る。
「当時は、己の心中奥深くに居る感情に、心を奪われておりました。愛する人を奪われたくない、ただそれだけでした」
無感情でありながら心が煮立っているような不思議な声色で、俺の隣にいつの間にか立っていた幽霊が言った。
その声に驚いた俺は、声がした瞬間幽霊のほうへと顔を向ける。
俺が自分に気が付いたのを見た幽霊は、顔を幸一色に染めて笑った。
「大好きです」
――
唐突に夢が終わり、体を起こす。呼吸は荒く、季節外れなことに寝汗が酷い。
部屋を見回すが、幽霊の姿はどこにもなく、普段通りの俺の部屋だ。
夢は終わった。しかし頭の中では、そこで見聞きしたものがぐるぐるとめぐっている。
想いが歪み、いとも簡単に踏み外す道。夢や幽霊などという、雲泥の如く掴みどころのないものとは真逆で、はっきりと、実体を伴ってそこにある現実。
大好きです。
夢の最後はこの言葉だった。
彼女はなぜ俺にこうも惚れているのか。
ずっと疑問だったことだ。しばらく考え込む。
――ああ、そういうことだったのか。
見えそうで見えなかった箱の中身をようやく拝めた気分だ。
立ち上がって風呂場を目指す。
霊の正体は「念」であり、故に実体がない。念の正体は「物が内包する性質」であり、故に籠るものが限定されない。
霊は人の念であり、物や生物の念は精霊、妖怪、神などと形容することができる。そして籠る念と籠られる物、そこには互いに因果がある。
すなわち、霊は物体そのものではなく、内に備わった性質に憑くものであるといえる。
論文じみた文章の、読んでいないと思われた部分までもがはっきりと脳内に浮かんだ。実例を目の当たりにしたからだろう。
恋敵の元友人、現死体は浴槽のなかに居た。
リビングでもみ合ううちに、花瓶が床に転がって割れた。あの破片はそれだ。
写真立てには友人と二人で撮った写真が入っていた。写真は切り刻んで浴槽の中にある。
数日前、恋人の取り合いで口論となり、俺がこれを撲殺した。
「これは......」
いつの間にか幽霊が隣にいる。夢と同じだ。
「内に備わった性質」ずいぶんと曖昧なものだが、故に霊は曖昧なものなのだろう。
それとは真逆に、この幽霊が俺に憑いた理由は、恋心なんて実体のないものではなかった。
人殺し、俺の内に備わったその性質が、彼女を憑かせた、そういうことなのだろう。
さて、これはどうしたものか