19-2
「この街を、鱶ヶ渕を『ディスト』から守るのが、あたしたちの役目だから」
空を破って現れた黒い影は、自らが開けた穴の縁をめりめりと砕き、広げながら、「インガの裏側」から降りてくる。
あれは、「ディスト」なんだろうか。空を見上げたキミヨは思う。何だか異質に感じる。あの「異形型」よりも不気味な雰囲気だ。
「ブラス……。ああ、やはり……」
「どういうこと、インカローズ?」
仰向けに寝転んだままのインカローズの瞳に、涙が光る。
「これが守護すべき理由……。ブラスは、『臨月』だった……」
「『臨月』?」
キミヨは眉をひそめる。赤ん坊が産まれそう、ということだろうか。
「知らないか……」
インカローズは、「ディストキーパー」の子宮に「インガクズ」が溜まっていくことについて説明した。それが許容量を超えると「ディスト」を出産してしまう、と。「臨月」とは、「ディスト」が産まれる間際まで子宮に「インガクズ」が溜まった状態のことを指している。
「じゃあ、アレは……」
「ブラックスターの仔。わたしが――打倒する義務がある敵」
また立ち上がろうとして、インカローズは両腕をついた。荒く息を吐いている。ダメージは大きいようだ。
「義務、って……」
「依頼されたから、ブラスに」
(もしオレが「ディスト」を産んだら、お前が倒してくれ――)
今から三か月ほど前、そう頼まれたという。
(他の誰でもない、お前がいいんだよローズ。オレを追いかけてきたお前が)
「わたしがやらなくては。ブラスはわたしを選んでくれたんだ。ラピスラズリでもペリドットでもタイガーアイでもなく、わたしを……」
赤い瞳は決意に満ちていた。だが、身体が追いついていない。重さが抜けるには、まだまだかかりそうだ。
「分かった」
キミヨは一つうなずいた。
「あたしがあなたの代わりに行くわ」
インカローズはキミヨの顔を見上げる。
「代わり?」
「うん。だって立てないの、あたしのせいだし、それに……」
キミヨはまた、「ディスト」の方を振り仰いだ。恐らくは駅前に降り立ったのだろう。位置と距離から、キミヨはそう目算を立てる。遠く離れたこの運動公園からでも、「ディスト」はその威容を放っている。
「この街を、鱶ヶ渕を『ディスト』から守るのが、あたしたちの役目だから」
インカローズの口から笑い声が漏れる。
「何よ……」
「いや、あまりに、その……」
みなまで言わずに、インカローズは再び顔を背けた。そして、背けたまま尋ねる。
「名前を、教えてほしい……」
「浅木キミヨよ」
そうか、とインカローズはよたよたと半身を起こす。
「任せた、浅木キミヨ」
「うん、任された」
レバーを操作し、パワーローダーをぐるりと切り返すと、キミヨは鱶ヶ渕駅へ向けて履帯を走らせた。
残されたインカローズは、起こしていた上半身をバタリと倒した。
身体の重さだけではない。転落した時のダメージが、どうにも大きいようだ。炎にその身を変えることもできない。
任された、か。さっきまで自分を殺そうとしていた相手に、何を言っているんだ。まったく、むずがゆくなる甘さだ。
けれど、インカローズはそのむずがゆさに、どこか心地よさを感じていた。
キミヨは駅前へ履帯を走らせる。大きな通りに出たが、人や車の影が一切ない。何らかの「インガの改変」が行われて、人払いがされているのだろう。
前方には、あの黒い球体が浮かんでいる。
近付いて分かったが、球体の周囲を一つの輪が取り巻いている。輪は大小様々な大きさの立方体が連なって形をなしていて、ちょうど土星のそれのようだった。
ぼやぼやした輪郭を持つこの球を見ていると、底なしの黒色の中へ引っ張りこまれるような錯覚に陥る。吸い寄せる力を持った球、まさしく「黒い星」ね、とキミヨは内心独り言ちた。
バス通りを真っ直ぐ進んでいると、不意に何かがパワーローダーの上に乗っかってきた。上からのドン、という衝撃に見上げると、見知った顔があった。
「よう、生きてたか」
「アキナ!」
赤毛に白いメッシュの入ったアキナは、その出で立ちも普段の「ディストキーパー」のものとは異なっていた。「最終深点」か、とキミヨは見当をつける。
「生き残れたのか、よかった!」
「そっちもね。ま、あんたは大丈夫だと思ってたけど」
「とは言え、時間がかかっちまった……」
この姿になるのに、とアキナは拳を握りしめた。
「本当なら、みんなを助けに行ければよかったのに……」
キミヨはうつむくアキナを見上げた。
「まだ、やれることはあるでしょ」
前見て、前。促すと、アキナは「だよな……」と駅前の黒い球体をにらむ。
「あれ、何なのか知ってるのか?」
「ブラックスターが産んだ『ディスト』らしいわ」
キミヨはインカローズから得た情報をかいつまんで説明した。
「ミリカがブラックスターと……あいつ無事なのか?」
それはキミヨにも分からない。ミリカが勝つところは想像できないが、負けて殺されたとも考えにくかった。平行世界から来たというミリカは、何にせよ異質な存在に思えるから。
「まあ、今は無事を祈るしかないか……」
ところで、とアキナはキミヨに視線を向ける。
「この厳つい乗り物、どこから持ってきたんだ?」
「『最終深点』になったら、出てきたよ」
「マジかよ……」
そういうもんなのか、とアキナは不思議そうに首をかしげた。
「そういうもんじゃないの?」
「いや、あたしもよく知らんから、何とも言えんけど……」
ん? と、その時アキナは上空を見上げた。
「どうしたの?」
「いや、何か光るものが……」
アキナが言いかけた時、進行方向からけたたましい落雷の音が聞こえた。
「雷……スミレか!? じゃあ、シイナは……」
キミヨは顔を上げ、アキナと目を合わせる。
「ともかく急ぎましょう」
キミヨはパワーローダーの重量を少し「軽く」し、レバーを操作して速度を上げた。
最も早く、ブラックスターの産み落とした「ディスト」――「ブラックスター・アンノウン・カダス」と出くわしたのは、水島ランであった。
元々駅前で戦っていたランは、「インガの裏側」からこの「カダス」が出現する一部始終を、何もできずに見ていた。
何なのよこれは。ランは、割れた空を背景に、駅舎の真上に浮かぶ黒い球体を見上げる。
「ディスト」だとは思う。感知能力もそう言っている。
同時に、「これはヤバいから手出ししない方がいい」と本能が語っている。
ただ、逃げ出すという選択肢は浮かんでこなかった。
前のあたしなら一も二もなく逃げてただろうけど。「最終深点」となった自分の体を見回して、ランは思う。逃げても、誰かが何とかしてくれるわけじゃないし、ね。
それに、ランは感じていた。こちらへ向かってくる三つのよく知った気配を。ここで一人逃げ出したら、後で何言われるかわかんない。そんな打算もあった。
ランがラピスラズリと戦っていた頃から、駅前に人通りはほとんどなかったが、いつの間にか電車も来なくなっている。「ガス漏れの疑いがあり、運転を見合わせている」という旨の放送が、駅舎の方から微かに聞こえた。「インガの改変」が行われているのだろう。
「カダス」は出現後、特に何をするでもなく浮かんでいる。周囲を取り巻く円環が、ゆっくり反時計回りに回転していた。
下手に攻撃しない方がいいのかも。とにかく、みんな揃ってから……。
そう考えていたランの視界の端を、強烈な光がよぎった。
何!? と思った瞬間黒い球体の表面に雷が落ちた。
鳴り響く雷鳴から顔を背けながら、ランは舌打ちする。何が起きたかすぐにわかった。あいつ、こんないきなり攻撃して……!
「あれー? おっかしいなあ……」
よく知った声と気配、雷鳴が止み、ランが顔を上げると、思った通りの人物が立っていた。
「貫けないや、あいつかなり硬いね」
「スミレ……!」
いきなり何してんのよ、と出かかった言葉が引っ込んでしまった。
「ちょ、あんた、何て格好してるのよ!?」
ほとんど裸の彼女の格好の方が、気になってしまったのである。
「なんだっていいでしょ、別に」
スミレは口を尖らせる。
「そんなことより、あの黒いのは何? ワルモノだよね?」
わからないのに、とりあえず攻撃を仕掛けたのか。危ないやつだとはわかっていたが、とランは頬をひきつらせる。
「あ……あたしも、よくわかんないけど……」
ひやりとした気配がランの背筋を走った。感知能力への反応、嫌な予感に駅舎の上を振り仰ぐと、「カダス」の表面が瞬いている。今まで微動だにしなかったのに……。ああもう、きっとスミレが攻撃したせいだ!
「何か来る!」
警告を発し、ランは後ろへ飛びすさった。スミレは槍を構え、迎撃するつもりのようだ。
「カダス」はぶるぶると体を小刻みに揺らした。いくつもの闇色の欠片がはらはらと落ちて、人の形になって立ち上がってくる。
欠片から現れた「影人形」は、全身は真っ黒で何のディテールもないが、シルエットからして頭から布を被ったような姿に見える。それぞれが鋭い大鎌を携えていた。
「あの鎌って……!」
鋭いその武器を見て、ランの脳裏に、痛め付けられた記憶が蘇ってくる。
「やっぱりあの黒いヤツか!」
単純と言うか話が早いと言うか、そう断言するや否やスミレは槍を振り抜き、その軌跡から無数の雷の矢を「影人形」へ飛ばす。
「倒す!」
ばらまかれた矢のいくつかは「影人形」へ命中したが、構わずに突っ込んでくる。
「倒れろよー!」
スミレは向かってくる「影人形」を槍で突き、薙ぎ払い、捌いていく。
調子よく倒してはいるが、とランは黒い球体を見上げた。「カダス」は、再び体を揺らして、闇の欠片を落としてきた。
「スミレ、また来るよ!」
「じゃあ、ランちゃんも手伝ってよ!」
棒立ちを指摘され、ランは「わかってるわよ」と口を尖らせる。
剣を掲げ大気中の水分を集め始めると、「インガの改変」の気配を感じ取ったのか、「影人形」たちがランに向かってくる。
黒い群れがこちらに達するより速く、ランは攻撃の準備を整えていた。
「くらえっ!」
「影人形」たちの頭上に、水から生成された剣が何十本も踊る。白刃がきらめき、雨のように降り注いだ。
「よっし!」
突き刺され、霧散していく「影人形」を見て、ランは拳を握る。
「すごいね、ランちゃん! あんまり変わり映えしないけど!」
「一言余計よ!」
言い返したその時、ランはこちらに向いた強い殺気を感じ取った。
「影人形」じゃない。これは、本体からの……!
見上げると、「カダス」の周囲の輪が、高速で回り始めていた。
「な――!」
回転の勢いをのせて、輪を構成している大小の立方体が射出され、ランとスミレめがけて飛んできた。
「わわ……!?」
「当たんないよ!」
ばたつきながら避けるランとは対照的に、スミレは自分を雷に変えて易々とかわした。
「お返しだ!」
スミレは槍を振り上げて雷雲を呼んだ。
「『スーパー・ジャッジメント・サンダー』!」
何条もの雷撃が、無差別に駅前広場へ降り注ぎ、「影人形」や立方体の弾丸、「カダス」だけでなく、ランにも襲いかかる。
「ちょっとーっ!」
最悪だ! 敵だけじゃなくて、味方のはずの相手にも気を付けなくちゃいけないなんて。ランは逃げ惑いながらも水を集め、固い傘のようなものを作り出し、その下で雷を防ぐ。
「見たか!」
スミレは得意気に両手の槍を振り回す。ランが「あたしまで殺す気か!」と抗議しようとしたその時、スミレの背後に影が溜まっていることに気付いた。
あれは落ちてきた闇の欠片と同じ……いや、もっと大きい。
後ろ! と警告するより早く、欠片は巨大な「影人形」となってスミレに鎌を降り下ろす。
「え……!?」
振り向くが、遅い。刺された、と思った瞬間、「影人形」の上に何かが降ってきた。
鉄球だ。唐突に現れたそれは「影人形」を押し潰し、広場の石畳ごと砕いた。
「間に合ったみたいね!」
鉄球には鎖がついていた。それを巻き上げたのは、人型をした建設重機としか言いようのない乗り物であった。乗っているのは二人、どちらも見知った顔だ。
「キミちゃん! それにアキちゃんも!」
「よう。まさか、全員生きてるとはな」
アキナは人型重機の肩から降りると、「カダス」を見上げる。
「こいつがブラックスターの産んだ『ディスト』か……。近付いて見てもデカいな」
「産んだ、ってどういうこと?」
スミレが尋ねた時、アキナが動いた。地面の上を滑るようにして、「影人形」がこちらへ向かってきていたのだ。
「ゆっくり話してる暇は、どうやらなさそうだな」
瞬時に三体の「影人形」を殴り倒し、アキナは振り向きもせずに言った。
「うん、説明は後。今は、あれを何とかしないとね」
キミヨもアキナに続き、「カダス」を見上げる。
「よーし、何だかわかんないけど、やっちゃうよ!」
「結局こうなんのね……」
まあ、しょうがないか。前に出るスミレと共に、ランも彼女らに並んだ。




