8-3
あの唇から注がれた琥珀でわたしは怪物にされてしまったのですから。
水島の不意な乱入は、わたしに重い腰を上げさせることになりました。
わたしは水島を避けるように廊下へ出ました。
避けたとはいえ、水島はわたしを責める様子はありませんでした。むしろ、何だか気まずそうな感じで、こちらから責められるのを恐れているようでさえありました。
まさか、水島にもわたしに殺された記憶があるのかしら、と推測しましたが、それはあまりしっくりくる考えとは思えませんでした。
他の原因といえば……ああ、とそこでようやく思い出しました。
今日は、あの鳥型とやりあった翌日なのです。
あの時、水島はわたしに対して、なかったことにしたはずの昔と同じような態度を「インガ」の乱れによってとり、それが何故だか本人も分からなくて、結局気まずい感じで別れたのでした。
それが昨日ということで、あんな腫れ物にさわるような心の決まらない様子だったのでしょう。
こちらは納得のいく想像でした。記憶の片隅に、あんな様子の水島はたくさんこびりついているので、当然といえば当然なのですが。
そしてもう一つ、水島は大切なことを思い出させてくれました。
わたしが頼ろうとした人たちは、わたしが塵に変えて滅ぼした人たちなのです。
あの人たちに頼るということは、「わたしがあなた達を滅ぼしてしまうようだから、どうかそうしないように協力してください」と説明せねばならないのと同じです。
何ということでしょうか。普段から足の重いわたしですが、トラックにひもをつけて引きずるくらいの足取りになってきました。
目的地は隣の二年四組なので、間にトイレと階段が挟まっているとはいえ目と鼻の先くらいの距離です。けれど、それが無限に離れているかのような錯覚、いえ無限に離れていてほしい願望を抱きます。
引きずるようにして歩いていると、階段の前で見知った人が二人おしゃべりしているのに気が付きました。
その人たちを見て、悲鳴を上げてしまわなかったことを自分で自分を珍しくも褒めてあげたい気分になります。
「あら、葉山さん、おはよう」
「おはよう、ミリちゃん!」
あちらもわたしに気付いたようでした。挨拶もうまく返せず、ガクガクとうなずくことしかできません。膝が震えるのが、抑えられないのです。
立花オリエ先輩と、篠原スミレ。同じ「ディストキーパー」で、そして世界のあり方を変えようとした敵でもありました。
「どうかした? 何だか顔色が悪くてよ?」
怪訝な顔でオリエ先輩は首をかしげます。それが心配してくれているのか、何かの企みの一環なのか、わたしには判断がつきませんでした。
慌てて目線を下げて、いつものうつむき気味なわたしになります。
「カゼでも引いたのー?」
そんなわたしの顔を、スミレが屈んですくい上げるようにうかがってきます。
何度会おうとも、少しうっとうしいスミレでしたが、放った言葉は取っ手つきですがりやすそうな形をしています。わたしは急いでそれにつかまりました。
「そ、そう、なん、です……かか、カゼで……」
あら、とますますオリエ先輩は怪訝の度合いを強くします。
「今の体ならば、カゼをひかないものなのだけれど」
今の体、つまり「ディストキーパー」ということでしょう。これがカマかけというものでしょうか。わたしは頭が真っ白になりました。
言葉に詰まって立ち尽くすわたしに、オリエ先輩はやれやれとため息をつきます。
「何でもいいけれど、調子が悪いなら言いなさい」
そしてちょっと顔を寄せて、こう囁きます。
「『ディストキーパー』の体は人間よりも遥かに丈夫だけれど、その反面別な脆さを抱えているのよ」
内容よりも顔の近さにびっくりして、後ずさってしまいました。何せ、あの唇から注がれた琥珀でわたしは怪物にされてしまったのですから。
後ずさったことで、ますます疑念を深めたのでしょうか。オリエ先輩は一瞬射抜くような視線をこちらに送ってきました。
「あなた……」
言いかけて、オリエ先輩はスミレをちらりと横目で見、首を横に振りました。
「……まあいいわ」
「ねえオリエ、どうしたの?」
少し不安そうに見上げてくるスミレに、オリエ先輩は優しく微笑み返しました。
「何でもないわ。少し葉山さんの調子が悪そうだから、心配になっただけ」
スミレに怪物を産ませたオリエ先輩でしたが、スミレへの微笑みにはそういう企みの影は見つけられませんでした。
しかし、「ね?」と念を押すようにわたしへ向けられたそれには、鋭い棘が隠されているようで、わたしは必要以上にたくさんうなずかされました。
「ふーん、ミリちゃんお大事にね」
「それと、昔のことは知らないけれど、水島さんとあまりもめないようにね」
見透かしたような口ぶりと同時に、オリエ先輩は目では「もう行け」と言っているようでした。
わたしは逃げるようにその場から離れました。
慌てるあまりに、目的地の隣の教室を行き過ぎてしまいました。
それにしても、オリエ先輩は何を言いかけたのでしょうか。そっと、わたしは自分のお腹に触れてみました。ここに入れられた琥珀は、すべてオリエ先輩の口からわたしの口を通して送り込まれたものです。
あんなことがあったから、わたしは最早あの人がどんな優しい言葉を口にしようと、どんな親切を働こうと、すべて恐ろしい企みの一端ではないかと思うようになっていました。
そして、どう推測し対策を講じようとも、オリエ先輩は必ずその上を行くような気がしてなりません。
ならば、考えても仕方ない。考えても仕方ないことは、開けたくないクリスマスプレゼントのように枕元に置きっぱなしにして、うっちゃっておくしかないのです。
そんなことより、今は。あまり会いたくない人たちに先に出会ってしまったからでしょうか、わたしはどんな結末が待っていようと、あの子の顔が無性に見たくなっていました。