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深淵少女クリスタル  作者: 雨宮ヤスミ
[十五]さよならの準備
36/67

15-4

「選別型結界の設置を確認。猟場から獲物が逃走することは不可能」

 

 

 冗談じゃない。水島ランは今日何度目になるか分からないつぶやきをもらす。


 背中には大きなリュックサックを背負い、人目を避けるように帽子を目深にかぶって、足早に駅を目指していた。


 戦う? バカげてる、そんなの考えられない。スミレはともかく、キミちゃんもミリカもどうかしている。


 アキナなんて、案の定一人だけ生き延びそうだし。生き残って、あたしらの死体の前で芝居がかって泣き出すんだ。これがマンガか何かなら、きっとアキナが主人公なんだろう。


 世の中には、敵わないものがたくさんある。まともに勝負しちゃ、こっちがバカを見るものばっかりだ。ランは身に染みて知っていた。


 それをランに刻み付けたのは、実の姉であるアイのピアノだった。


 アイはピアノを六歳で始めた。周りに比べて遅いスタートだったが、アイはめきめき上達した。その教室どころか、県で一番上手いとすら言われた。


 小学校六年で全国コンクールに入賞し、その後も順調に音楽の道を邁進していく。


 そして大学一年のこの春、さる巨匠に招かれてドイツへ留学した。


 ランは三歳でピアノを始めた。アイが始めるのが遅くてあの腕なのなら、早く始めさせたら妹は、どれほど上手くなるだろう。そんな期待をされたのだと、今となっては思う。


 結果は、惨憺たるものだった。


 悪くもないが、良くもない。普通。


 それが初めの頃に姉を指導し、ランの担当にもなった先生からの評価だった。


 その時の大人たちの落胆は、ランの中に焼き付いている。


 母親はそれでもランに期待し、どんどん練習をするように尻を叩いた。それは追い立てるという意味でもあり、事実そうされたという意味でもある。


(アイの時は、この頃に個人レッスンに移っていたわ。ランも個人レッスンにしましょう)


(アイの時はそんな簡単な曲はやらなかったはずよ。もっと難しいのをやらせないと)


 ランよりも、母親の方が血眼になってアイを追いかけているようだった。


 だが、それでどうにかなるものではなかった。アイとランの間には、それほどに大きな才能の隔たりがあったのかもしれない。


 小学六年生の時、姉が入賞した全国コンクールに応募させられた。ピアノの先生は「やめておいた方がいい」と言っていたが、母親が強行した。


 結果は事前審査にすら通らず、舞台に上がることすら許されないという厳しいものだった。


 ダメな子ね。


 母親は泣いているランにそう追い打ちをかけた。


 泣いてる暇があったら練習なさいよ。


 突き飛ばされ、蹴り転がされ、尻を叩かれた。父親があの時帰ってこなければ、殺されていたかもしれないとランは思っている。


 審査落ちしてから最初のピアノ教室の日、ランは初めてレッスンをサボった。教室の前までは行ったが、その見慣れたドアを開くのが、無性に恐ろしくなったのだ。


 母親は烈火のごとく怒った。また父親が間に入って止めてくれた。


 そしてランはピアノを辞めた。父親が辞めさせてくれた。


 ランの母親は、その後完全に次女から興味をなくしたようで、アイだけに心血を注ぐようになる。


(やりたくないんなら、もういいんだ。お前には、お前だけにできることがあるのだから)


 父親はそう言った。


(ランちゃん自身の音を、大切にしてあげてください)


 ピアノの先生はそう言った。


 だが、できることなど、自分の音など、具体的にはまったく分からない。ずっと分からないままここまで来てしまった。


 アイが妹についてどう思っているのか、ランは知らない。歳の離れた姉妹だし、アイ自体が少し浮き世離れした雰囲気で、ランはピアノのことがなくても苦手だった。


 だからだろうか。アイにはできないもの、できないことを、いつしかランは探すようになっていた。それが自分の領分だと思い込もうとしていた。


 例えば、マイペースで芸術家肌の姉は、その性格ゆえに友達が少ない。


 ならば、とランは中学に入ってから、クラスの中心になることを目指し始める。


 立場や発言力の強そうなクラスメイトに取り入り、おもねり、自分もその場所を得る。


 そのためなら、誰を傷つけたって構わない。たとえ、姉と同じようにクラスに上手く馴染めない、そして姉のような寄る辺を持たない子だろうと。


 姉のしなかった生き方をして、姉の人生を一つ否定したかったのかもしれない。


 それで何を得たわけでもない。むしろ失ったものの方が多いような気さえする。


 周りに振り回され、なりたくもないようなヤツと友達になり、友達とも言えないような扱いを受けてきた。


 その末路が「ディストキーパー」だ。そのせいで、あんな連中につけ狙われる羽目になる。


 全部間違いだらけだ。


 ランは「最初の改変」で殺したクラスメイトを、姉を、母を恨んだ。


 こんなことなら、何もしない方がよかったんだ。


 ランは駅にたどり着いた。帰ってすぐ荷造りして、大通りでなく裏道を抜けて、ここまでやってきた。


 猶予を与える? 何様のつもりだ。ランは目深に帽子を被り直した。その間に電車に乗ってしまえばいい。そして逃げるのだ。あのピアノ教室最後の日、そうしたように。


 駅のコンコースに入ろうとして、ランは何かに頭をぶつけた。


「っつう……!?」


 顔を上げたが何もない。だが、前にも進めない。


「ちょっと、どうなってるのよ、これ……!」


 ランの目の前に、見えない壁が立ち塞がっている。ちょうど、駅のコンコースに立ち入るのを阻む形で。


 ランは壁を叩いた。びくともしない。虚空に拳を振るランをいぶかしげな視線を向けながら、一人の老人が彼女の隣を抜き去っていく。


「え……!?」


 あわてて老人の通った辺りから抜けようとしたが、やはり壁がある。伝っていくと、かなり長いようだ。壁ではなく塀と考えた方がいい。


 だが、駅から出てくる人々も、駅に向かう人たちも、みんな問題なく行き来している。壁の存在を感じているのは、ランだけだった。


(ちょっと、ヤバくない、アレ?)

(目、合わせちゃダメよ)

(指差すなよ、こっち来たらどうすんだよ)


 ささやきかわす声が耳に入ってくる。


 自分のしていることが、滑稽なパントマイムにしか見えないことにランは気付き、赤くなってすぐに壁から離れた。


「無駄」


 はっきりと、こちらに向けられた声にビクリとして、ランは振り向く。


「駅から逃亡を企図するものがいるという経験則、今回も的中の模様」


 妙に固い言葉を並べる、メガネをかけた小柄な少女。どこかで見覚えがあった。


「97%の確率で、鱶ヶ渕の『ディストキーパー』と推定。質問がある、回答を……」


 「ディストキーパー」という単語を聞くや否や、ランは弾かれたように走り出していた。


「選別型結界の設置を確認。猟場から獲物が逃走することは不可能」


 メガネの少女――「カオスブリンガー」のインカローズの言う「選別型結界」とは、見えないこの塀のことだろう。


 ランは結界に行く手を何度か阻まれながら走る。それを追うインカローズの足取りは、あくまでゆっくりだった。


 とにかく結界を避けて、と走る内に、ランは駅舎の奥、行き止まりに入り込んでしまった。


 何で駅の方に逃げちゃったんだ。歯噛みして引き返そうと踵を返す。


「自発的に袋小路へ進入するとは」

「くっ……!」


 右手と背後は駅舎の壁、左手側はフェンスと背の高い植え込み、そして正面にはインカローズが立ち塞がる。


「飛行能力は不所持と判断。結論、逃走は不可能」


 機械的に聞こえる口調の向こうに、恐ろしい気配が感じられるようだった。気圧されるように、ランは後ずさる。下がった分だけ、インカローズは距離を詰めてくる。かかとが背後の壁についた。これ以上、下がることができない。


 爪先の触れる程の距離で立ち止まったインカローズは、無表情な暗い目でランを見上げる。


「質問への回答を要求」


 ランは首を縦に振った。涙が出そうだった。


「緑の女の住所は?」


 緑の、女? 何のことか分からなかった。答えないランの額に、インカローズは無造作に人差し指を押し付けた。


「熱ッッ!?」


 飛び上がって、ランは壁に後頭部を打ち付けた。


 何よ今の!? 正面と後ろから来る二種類の痛みに、ランは目を白黒させる。火の点いたタバコを押し付けられたかのようだ。


「五秒以内に返答がない場合、及び返答内容が文脈的に無意味と判断される場合、当該の刑罰を執行する」


 赤く熱を放つ人差し指をランの眼前に突きつけて、インカローズは言い放つ。


「返答は?」

「は、はいィィ!」


 震え声で応えたランに鼻を鳴らし、インカローズは同じ質問をする。


「緑の女の住所は?」


 だから誰だよ! と心の中で叫んだ時、ようやく閃いた。


「み、み、ミリカですか?」


 持ち上げかけていた右手をインカローズは下げた。内心、ホッとしながらも、ランはそのことに苛立つ。


 何であたしが、こんな陰キャラ丸出しのクソ地味メガネ女に、ビビらなきゃいけないんだ。しかも、敬語まで使って。


 クラスにいたらこんな見てくれのヤツ、絶対カースト最下位なのに!


「名前はミリカ……。名字は?」

「葉山……」

「住所は?」


 そう言えば知らない。何丁目何番地何号どころか、どの辺りに住んでいるのかすら知らない。一緒に帰ったりもするが、途中で別れるから分からない。


 躊躇している間に五秒が過ぎた。


「ぎゃぁあぁ!?」


 今度は首筋に二本、灼熱した指が押し当てられた。


庇保(ひほう)する算段か」

「知ら、知らな……」

「返答内容を無効と判断」


 押し付けられる指は三本に増えた。喉が涸れるぐらいの絶叫をランは上げた。


 何であたしがこんな目に。冗談じゃないぞ、本当に。


 熱さと痛みで意識が朦朧としてきた。脈絡のない考えが頭の中を浮遊しては消える。


 そう言えば、ここって。ちょっと前に焼身自殺した男がいたんだっけか。あたしが今焼かれてるのは、その呪いなんだろうか。


 誰が目の前にいて、何に傷つけられているのか。ぼんやりした思考の中で、どんどん曖昧になっていく。


「気絶は不許可」


 インカローズはランの服をめくり上げた。露出した腹に広げた手を近づける。


「これで覚醒し、素直になるか?」


 一際強い熱をもったその手が、ランの腹の皮を焼くその寸前、空から声が降ってきた。


「止めなよ、インカローズ」


 駅舎の上から飛び降りてきたのは、目立つブーツを履いた少女――「カオスブリンガー」のペリドットであった。

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