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深淵少女クリスタル  作者: 雨宮ヤスミ
[十五]さよならの準備
33/67

15-1

ああ、何てことかしら。世界は未だ不公平で、石ばかりの袋の内だなんて。

 

 

 篠原スミレの家に、彼女を迎えてくれるものはいない。


 今から二か月ほど前、スミレが「ディストキーパー」になってしばらくして、消えてしまっていた。


 ただ、そうしなくても、スミレに「おかえり」を言ってくれる人などいなかったのだが。


 スミレがこの家にやってきたのは、小学二年生の時のことだ。


 両親から何故引き離されなければならないのか、その理由を幼いスミレはよく分かっていなかった。


 お父さんはスミレを時々たたくし、お母さんのこともたたく。でも、それはスミレが正しくないからで、スミレ自身はしょうがないことだったと思っていた。お父さんは、優しいときは優しいし、遊園地にだって連れて行ってくれるんだから。


 なのにあの時、担任の先生はスミレの身体にあった無数の青紫のアザを見て、「ギャクタイだ」と騒いだのだった。


 怖い人たちがたくさん家に来た。お父さんとお母さんはスミレを残してどこかに行ってしまった。怖い人たちはお父さんたちの行方を探したけど、分からないようだった。


(怖かったね、大変だったね)


 代わりに現れた知らないおばさんが猫なで声で話しかけてきたのを、今も覚えている。


(でも、もう大丈夫だからね……)


 おばさんはそう言ったけど、スミレはちっとも大丈夫なんかではなかった。お父さんもお母さんもいないのに。


 そう訴えると、おばさんはあらあらまあまあと困り顔を作った。


(お父さんはお仕事でね、遠くに行ってしまったの。お母さんもね、スミレちゃんを置いてね、行かなくちゃならなくなってね……)


 ひどいお母さんだね。おばさんは勝手にそう決めつけた。


(だけど大丈夫よ、これからは別の誰かが、スミレちゃんの新しい家族になってくれるから……)


 おばさんは、家族になるのは自分ではないんだよ、と一つ線を引いたようだった。その証拠に、スミレをどうするべきなのかという暗い話し合いに、そのおばさんの姿はなかった。


 陰気な顔で話し合う大人たちを、スミレは一歩引いたところで見ていた。自分のことのはずなのに、どこかテレビの画面の中のことのように思えた。


(かわいそうな子だとは思うが……)


(無愛想なのよね、なんだか。無表情だし)


(病院に連れて行った方がいいのかしら?)


(バカな、これ以上恥を上塗りするのか)


(だけど、放り出すのも外聞が悪い……)


 最初はお父さんのお父さんの所に住んだ。二週間ぐらいで、その生活は終わったから、スミレはお父さんのお父さんのことをよく知らないままだった。ただ、お父さんのお父さんの体調がよくなくなったことと、「邪魔者」「厄介者」「疫病神」と囁くような声が聞こえてきたことしか記憶にない。


 次はお父さんの妹の所に住んだ。今度は一か月は一緒だった。妹の人は優しくしてくれているようだけど、目が笑っていなかったからスミレは怖かった。そういう時、お父さんはよくスミレのことを叩いたから。妹の人は妹だけあって、実際叩きはしないにしても、お父さんとよく似ているのだ。


 最後に来たのが、お父さんのお兄さんの所だった。お父さんのお兄さん、つまり伯父さんという立場の人だけれど、この人には奥さんと二人の息子がいた。


 この人たちはスミレを迎える時、そろって無表情で無関心だった。病気でもなければ、優しさを上滑りもさせていないが、スミレは自分が悪いのだろうと考えていた。


 伯父さん達とは、しゃべることはほとんどなかった。メモで連絡は取り交わされた。スミレも気を引くために自分のことを「ボク」と言ってっみたり、色々なことをしたけれど、結局何も変えられなかった。


 伯父さんたちはスミレをいないものとして扱って、階段下の小部屋に押しこめていた。


 立花オリエと出会ったのは、中学一年になった春のことだ。


 オリエは「ディストキーパー」の姿で、突然現れた。「正義の味方のようなもの」と名乗り、「スミレを助けてあげたい」と言った。


(いつかあなたの下に、「パサラ」という白い毛玉が現れるわ。その時までいい子にしていれば、スミレも「ディストキーパー」になれるわ)


 その言葉が叶うまでの一年半、オリエは少なくとも毎週二回は訪ねて来てくれた。


(わたしはね、スミレ。この世の在り方を変えたいと思っているの。だってそうでしょう、あなたのような正しい子が不幸な目に遭って、そんなこと許されるはずがない)


 世界が間違っているのよ。そんなこと、スミレは考えたこともなかったが、オリエの言うことだからと信じた。


 伯父さん達が消えたのは、スミレが「ディストキーパー」になった後、オリエの行った「世界の在り方を変えるため」の実験によるものだった。


(一番スミレがどうでもいい人を教えてくれる?)


 そう尋ねられた時、スミレはオリエが自分のことをよく分かってくれているのだな、と安心した。


 一番嫌いでもなければ、邪魔でもない。いてもいなくても同じ人たち。スミレは迷いなく、伯父さん達の名前を挙げた。そして彼らは琥珀を用いた『インガの改変』の実験により、なかったことになった。


(パサラも、あの人たちが消えたことを観測できてない。このやり方でも、ちゃんと「改変」できるようね……)


 オリエは満足げで、スミレも何だかすっきりした気分で嬉しくなった。オリエの喜ぶことは、スミレにも喜ばしいことなのだとますます思うようになった。




 伯父さん達がいなくなっても、スミレの居場所は階段下の小部屋だった。


 もっと家を広く使えばいいのに、とオリエは言うが、スミレはこの部屋から何故だか出られなかった。ガタガタの卓袱台と、最低限の収納と布団しかない、オリエ曰く「座敷牢か刑務所のような」この部屋から。


 閉じ込められてなんていたくない、全部壊してしまいたい。


 そう思っていたのに、ここを出るのが不安でたまらない時がある。外ではみんな、顔のあるのっぺらぼうのお面をかぶって、スミレを脅かしているのだから。


 それにここが、オリエと出会った場所だから。


 帰ってきて、この部屋に閉じこもっていたら、またオリエが会いに来てくれるように思えた。すうっとそこの入り口から、灰色の世界を抜けてやってきて、「また泣いているの?」と優しく抱きしめてくれるような気がした。


 でも、気がするだけなんだ。


 部屋の真ん中で着替えもせずに座り込んで、スミレは天井を見上げる。


 オリエは死んだ、もういない。


 心の中で呟く。厳然たる事実だ。「インガ」がそう囁いてくる。もうなかったことになっている。


 オリエは死んだ、もういない。


 だけど、まだ口に出すことはできなかった。口に出さずにいれば、本当に迎えに来てくれるんじゃないかと思っていられるから。


(それじゃあ、ダメよ)


 声が聞こえた気がした。辺りを見回しても、オリエの姿はない。けれど、声は続いた。


(スミレ、わたしはあなたに言っておいたはずよ)


 わたしが死んでしまったら何をするのか。覚えているでしょう?


 その通りだった。覚えているというのはちょっと正しくなくて、アキナが琥珀を握りしめたのを見て、不意に思い出したのだ。


 だから帰ってきたんだった。本当なら今からでも、あの黒いヤツを探して、殺してやらなきゃならないのに。


 それは、この部屋に一つだけある小さなタンス、少しの衣類がしまわれたその引き出しを外した下に、オリエがスミレの目の前で隠したのだ。


(もしもの時は、これを使いなさい。わたしが死んで、あなたが生き残った時に)


 スミレはタンスの下に手を入れてそれを、小さな巾着を拾い上げる。開けてみると、中には三つの琥珀と一枚の折りたたまれた紙片が入っていた。


 手紙だ。


 オリエから手紙をもらうのは初めてだった。紙に書かれたことをやらされるのは、スミレは飽き飽きしていたから、オリエは何かを紙に書き残すことをしていなかった。


 広げると、優しい字でこう書かれていた。




  親愛なるスミレへ


  これを開いているということは、「計画」は失敗してしまったようね。


  そして、あなただけが生き残って、わたしはいなくなってしまっている。


  きっとあなたのことだから、泣いて動けなくなっているのではないかしら。


  違ったらごめんなさい。もしそうなら、スミレの強さを見誤っていたということね。


  あなたのことも正確に分からないのなら、「計画」が失敗したのもやむなしだわ。


  わたしの弱さのせいで、あなたに重荷を背負わせてしまうのは悲しいことだけれど、


  もしあなたがわたしの仇をとろうなんて、考えてくれているのなら。


  この3つの琥珀を仲間たちと分け合いなさい。


  そして、その心に思うままに行動しなさい。


  もう何を壊したっていいわ。


  だけど、一つ注意してほしいのは、この琥珀は特別なものだということ。


  よく中身を見て、使いどころを考えなさい。


  ああ、何てことかしら。世界は未だ不公平で、石ばかりの袋の内だなんて。


  ねえスミレ、あなたもそう嘆いている? だったら、この先をお願いするわ。


  わたしのできなかったことを、どうか――



  立花オリエ




 読み終わって、スミレはそれを丁寧に畳む。胸の辺りに手紙を抱くと、何だかオリエの手のぬくもりが蘇ってくるようだった。


 心に思うまま、か。


 浮かんだことは一つしかなかった。あの黒いヤツを倒すんだ。


 雷は通じない。「最終深点」というのにもなれない。それでも、ボクがやらなきゃなんだ。


 スミレは琥珀を一つ一つを手に取って透かす。一つは、山のように堆積した土塊が入っていた。もう一つは、無数の雪の結晶が中で踊っていた。


 最後の一つは、中で雷雨が吹き荒れていた。悲しく、甘酸っぱく、そして怒りに満ちた雷雨だった。


 これは、ボクのだ。雷だし、きっとそのはずだ。


 後の二つは、仲間と分け合うんだっけ。スミレは考える。


 そう言えば、オリエはアキちゃんにも琥珀を渡していたんだっけ。なら仲間っていうのは、多分鱶ヶ渕のみんなってことだ。


 なら、土のヤツはキミちゃんかな。キミちゃんは信用できるって、オリエも言っていたし。


 雪のヤツは迷うけど、ミリちゃんはちょっと違うかな。ミリちゃん、最近何だか変だもんな。一層正しさなんてなくなったみたいに見える時があるし。


 じゃあ、ショーキョホーでランちゃんか。あの子流に言えば「しゃーなし」ってヤツだね。


 スミレは二つの琥珀を巾着に戻す。そして雷雨の琥珀と手紙を卓袱台の上に置いた。


 着替えて、外に出よう。みんなに届けに行こう。ここでずっと待ってるのは、オリエが喜ぶことじゃない。


 牢獄のような行き止まりの小部屋の中で、スミレはやるべき道を見定めた気分だった。

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