さよならにむけて
妹の声はやけに冷たくて、洞窟の暗がりを覗き込んだときの冷たい風みたいで、または氷の張った湖に落としたピンボール1個の響きみたいで、とにかくそれが非現実的な響きをもって、リビングでソファーに深く腰掛けテレビ画面へぼうっと視線をむける僕の耳のなかへと確かな輪郭をもって落ちた。
「マサトが死んだ?」
ソファー越しに顔を左斜め後ろにむけると、そこには受話器の子機を右手にしたまま佇む妹の横顔がある。妹が目をむける先はちょうど玄関の方角で、そこには家族4人用の靴箱とその隣に父がタイかどっかに出張へいったときに買ってきた木製の猫の置物がある。実物の大人の猫くらいのサイズのあるそいつは、まるでいじめっ子に墨汁のなかに落とされたみたいに全身を黒で染めていて、だから一般的には黒猫と呼ばれているやつで、けれど妹はそいつを白猫とそう呼んでいた。
「こいつの黒はね、偽物の黒なの」まるで秘め事を打ち明けるかのように妹は云った。「なにかから身を隠すためなのか、あるいは単純にもとある自分が嫌いなのかは判らないけど、とにかく偽物。だって、本物の黒猫はあんな顔しないもの」
云われて黒猫の――いや、妹に云わせるとそれは白猫なのだけど――表情を覗き込むも、いままで生きてきた20年というちっぽけな歴史のなかで猫の表情について1度だって考えを巡らせたことのなかった僕は――そう考えると僕の人生が余計にちっぽけなものに思えてくるから不思議だ――果たしてその猫がなにを考えているのか見当もつかなかった。
かろうじて、僕のちっぽけな想像とユニークさをかけあわせて黒猫の表情を云い表すのなら、それは諦めにも似た悲しさを漂わせていた。それはたとえば、いままで信じていた恋人に突然裏切れたときのような。それはたとえば、いままで仲良く接してきた猫友達が実は掃除機だと判った瞬間みたいな。それはたとえば、自分がすでに死んでいることを教えられた哀れな亡霊のような。それはたとえば――。
「飛び降り自殺だってさ。飛び降り」
現実の妹の声にはっとする。
「飛び降り」反芻するように呟くと、妹はゆっくりと肯いた。
「18階のアパートから。即死」
「それっていつ?」
「昨日」
ため息交じりにそう云って、子機をもとある場所にそっと戻し、妹は僕の隣へ深く腰掛けた。確かな重心をもって沈んだソファーは、けれど妹の体積以上に深く沈んでみえた。それはまるで、みえないなにかが自己を主張しているようにも思えた。けれどそれってなんだろう?
ふと視線を移すとテレビ画面のなかではずいぶんと昔に製作された映画がながれている。それは確か、人類が謎の病原体に襲われて、ほとんどのいきものの死滅した地球じょうでの話だ。主人公の20代くらいの男性はおなじくらいの歳の恋人と森の奥の小さな小屋に住み、いつか来る終わりを密かに予感しながら静かに暮らしていた。結末は忘れた。なんにせよ、そこにハッピーエンドがあるとは思えなかった。
そんなことを考えながら、もう片方の脳では妹の言葉が渦巻いている。
マサト・死・飛び降り・18・昨日・そして黒猫……。
テレビ画面の中では、男が女の手を撫でながら、そっと呟くように云った。
「――ひとは必ずいつか死んでしまうけれど、僕らはいま、まだこの世界に生きている」
○
地雷を踏んだ像の映像を昔どこかでみた覚えがある。まるでそこにはもとからなにもなかったのだと云いたげな像の右前脚。あるべきものがないその写真は、なんだかだまし絵みたいにみえた。
想像力の欠如。
つまり僕はまだ子どもだった。ある物事がかたちづくられる過程というものを明確にイメージすることができなかった。それはたとえば山の中腹から溢れる湧水がやがて川になり広大な海へと注がれてゆくみたいな。あるいは僕たちという人類の始まりから現在までの壮絶と莫大を織り交ぜたそのストーリーとか。もちろんほんとうはそんなたいそうなものではなくて、僕は単純にひとの痛みを理解できていなかった。それはつまり、マサトの痛みを。
「俺さあ、錬金術師になりたいんやけど」
僕の部屋の僕のベッドに寝転ぶマサトは、読みかけの漫画本から顔をあげて唐突にそんなことを云った。どこかで頭でも打ったのかそれとも読んでいる漫画に影響されたのか。とにかく僕は笑って、それから面白半分に理由を尋ねた。
「俺さ、母ちゃんいないの。だからさ、母ちゃんつくればいいじゃんって。んで、錬金術師」
「母ちゃんいないの?」
訊いてから、すぐやめておけばよかったと後悔した。けれどマサトはとくに気にする素振りもせずにうんと肯いた。
「死んだとかどっかいったとじゃなくておらんのよ。普通いきものってだいたい母ちゃんから生まれてくるじゃん? けれど俺は違くて、無からぽんって飛び出してきたの。なにもないとこから、こんちにはって。だから俺に母ちゃんはいないし、まあそれもいいかなって思って生きてきたけど、でも、ああ、やっぱりほしいかもなあって思ってさ」
僕はなにも云うことができなかった。マサトがからかっているのか。それともこれは真実なのか。あるいは真実と嘘とを巧妙に織り交ぜ、僕はいま、マサトに試されているのか。試されている? でもそれってなんのために?
僕はなにも判らないまま、ただひとこと、応援するよと呟いた。マサトは肯いて、それからいままでのやり取りが嘘であったかのようにまた漫画本へと視線を落とした。開け放たれた硝子窓からは生ぬるい風が舞い込んでベージュのカーテンを静かに揺らした。薄暗い部屋はそのたびに点滅し、僕はそれをひどく煩わしく思ったのをやけに鮮明に覚えている。
5年前。僕らがちょうど15のとき。ある夏休みを切り取ったひとつのできごと。
○
マサトがほんとうに錬金術師になりたかったのかは判らない。少なくともマサトは僕とおなじように高校を卒業し、別々の大学へと入った。
別々の大学の、別々の環境の、別々の生活の、別々の夜を歩んでいた。
○
妹からマサトと交際している事実を告げられたとき、僕はとくに驚かなかった。そうか、と肯いて、大切にしてやれよ、と呟いた。
「これからマサト家に来るんだけど」
「これから?」
「そう。たぶんもうすぐ――」
云うがはやいか、チャイムが鳴った。妹と目をみあわせると、妹はゆっくりと肯いた。つまりはそういうことであるらしい。
妹が玄関へむかっているあいだ、僕はマサトについて考えた。高校を卒業して以来会っていないしなんの連絡も取っていない。それはたかだか2年ぽっちのことだけど、それでもなぜだか無性に懐かしくなった。
僕がキッチンで3人分のオレンジジュースを注いでいるあいだにマサトと妹は2人ならんでソファーに腰掛けていて、僕は2人の目の前にオレンジジュースとクッキーを置きながらまじまじとマサトの顔を覗き込んだ。なにも変わっていない。2年前のマサトだ。
「久しぶり」と僕が云って「元気してたか?」とマサトが云った。「そこそこ」と僕が答え、若干の間を挟んでから2人して笑った。
マサトはなにも変わってなどいなかった。そりゃあそうだ。ひとはそんなに簡単には変われない。ましてやたったの2年だ。僕らはなにも変われないまま、またここに集まった。それはまるで、高校生時代のあるひと区切りの再生ボタンを押したみたいに、僕たちは語りあった。生暖かい懐かしさだけが、じわじわと僕の肌へしみこんでくるのが判った。
話を聞くと、どうやら僕らが高校生のあいだから、妹とマサトはちょくちょく2人きりで会っていたらしい。2人きりで僕の家で会ったことも2、3回どころの話ではないというのだから驚きだ。
僕らには親がいない。正確にはいるけれど、2人ともが海外で働いているため滅多に会うことはない。あわせて僕もよく意味もなく外へ出てそこらをふらふらと彷徨っているようなやつなので、空っぽの家を利用しない手立てはないということらしかった。
「そのときから付き合ってたの?」
僕の質問に、2人は揃って笑顔で肯いた。
ということは2人は少なくとも5年ほどは交際を続けていることになる。
なんだよ。幸せそうにしやがって。
僕はなんだかほっとした。それは兄として妹の交際相手に心を許せる友が選ばれたという安心感というよりも、単純に、もっと純粋なところで、幸せそうな2人が目の前にいるという状況に安堵したというほうが正しい。
僕の世界は平和だ。それはとてもちいさな半径何メートルかの平和でしかなかったけれど、それでもじゅうぶんだった。ちっぽけな僕たちにはちっぽけな平和がお似合いなのだ。
そのあとはいろいろな話をした。2人の惚気話なんかを聞いて、はじめて2人がホテルにいったのは良かったけれど妹が恥ずかしさのあまり泣いてしまったという話を若干の気まずさを抱えながら笑って、2人はどうやら結婚も視野に入れているというところへ話は飛び、そのときは僕にスピーチをしてほしいとお願いされ、まあ、断る理由もないので承諾した。
時刻はすでに20時をまわっていたが、マサトは今夜は泊っていくとのことだった。明日は土曜。とくになんの問題もない。
結局24時をまわったあたりまで話し込み、それで打ち止めだった。僕らは空白の2年ぶんをじゅうぶんに語りあい、そして来る空白の何年かにむけて深い眠りに入る準備をするのだ。
「おやすみ」と僕は云って自室へ入った。マサトは妹と一緒に寝るらしい。僕と妹の部屋は1階と階で離れているので、あとはもうお好きにどうぞといった感じだ。
部屋のドアを閉めベッドに寝転がり白い天井をみやげると、急激な静けさがやってきた。それはまるでボリュームを急激に絞り込んだときみたいに、世界におけるありとあらゆる感覚が僕の躰から遠ざかってゆくみたいだった。妹もマサトも変わっていない。僕がその事実を知らなかったというだけで。≪本質はなにも変わっていないのだ≫。
そんなことは判っていた。判っていたけれど、やはり僕は、世界が変わってしまったその喪失感を覚えないわけにはいかなかった。
ほんとうはさびしいのかもしれない。幸せな2人の姿をみて、どこか遠くに置いていかれた気になっているのかも判らない。どうだろう? 僕はそんな感傷的な人間だったっけ? そんなことはない。僕は感傷的とは程遠い位置にある人間であったはずだ。少なくとも僕の思う限りでは。いや、それとも――。
僕自身も変わってしまったのだろうか?
なんだかよく判らなくなって目を閉じると途端に眠気がやってきた。もう寝てしまおう。寝てすべてを忘れよう。歯は磨いていないし風呂にもはいっていないし部屋の電気はつけっぱなしだったけれど、そんなことはもうどうでもよかった。とにかく早く寝てしまおう。僕の意識は、夜の12時すぎにとけてゆく。
○
「それで、あんたはいったい誰なんだい」
背後から声をかけられ振りむくと、果たしてそこには僕がいた。まっとうな暗闇のなかに佇む僕。何度も鏡のなかでみた僕の顔。昔なんかの好奇心で録音して吐き気を覚えた僕の声。生まれてから嫌でもずっとついてまわってきた僕のにおい。そいつは、正真正銘の僕だった。
「もう一度聞くけど」そいつは――それは明らかに僕なのだけど――右手の人差し指と親指の先を擦りあわせながら――それは小さいことから治らない僕の癖だった――云う。
「君は。いったい、誰なんだい?」
「僕は――」
僕は僕だ。それ以外のなにものでもない。それは当然のことであるはずなのに、目の前に僕がいる以上、その考えも揺らいだ。
「僕は僕だ」それでも云うしかなかった。云った後で、実感は遅れて伴った。僕は僕。それ以外のなにものでもない。その言葉を確かめるように、左手を強く握った。
「それはおかしいな」と自称僕は笑った。「そうなるとここには僕が2人もいることになっちまう。それは駄目だ。それは世界が許さない。世界は――そういうふうなシステムでできてはいないんだ」
ならばどうする――自称僕は尋ねる。
それじゃあどちらかが僕でなくなればいい。僕2号だとか、僕もどきだとか、僕とそっくりな双子だとか、そういうふうにして生きていけばいい。あるいは――。
続く不吉な考えをなぞるように、僕はふと自分の右手をみおろす。
いつからそこにあったのか、僕は、ひとつの拳銃を手にしていた。
ずしりと重たく、そしてまるで洞窟の奥のほうに閉じ込められていたかのように冷たいそれは、どう考えてもプラモデルの類いなどではなかった。ならばそれは――。
僕は無意識に拳銃を持ちあげる。手が震える。けれど不思議と迷いはない。銃口は自称僕へとむけられる。僕は笑っている。僕は笑っている? それは果たしてどちらの僕が笑っているのだ?
「そうだ」と自称僕は深く肯いた。「それが正しい選択さ」
「僕は……」僕は云う。「僕は君と友達になりたかった」
「なにを云う」僕は云う。「僕たちはこれからも友達さ」
「よかった」僕は云う。「これからもよろしく頼む」
そして銃弾が放たれた。
○
「マサトが死んだ理由、なんとなく判るよ」
2、3分の空白を置いて、妹はそう呟いた。
僕はそんな話は聞きたくなかった。けれど逃げ出すわけにもいかず、ただじっと、テレビの画面をみつめていた。
「あいつさ、ほんとは母親がいたの。そりゃあそうだよね。こうして生きてる以上、ああ、あいつはもう死んじゃったけど、でも私たちがいきものであるからには、お母さんがいるの。あいつだってそれはおなじ。あいつの母親は、きちんと生きてた」
テレビ画面では、主人公の男が恋人の女と森のなかを散歩していた。朽ちた大木を掻き分けながら彼らは歩いた。どこかで小鳥の声が聴こえた気がしたが、そんなものは幻聴にきまっていた。すべての小鳥は――すでに絶滅したのだ。
「1箇月前」と妹は云う。「あいつの母親が訪ねてきたの。母親は、経済的に貧しくて仕方なくマサトを施設に預けて去ったけど、ずっとマサトのことを見守ってきたし、いまは手に職をもったから、この先一緒に住まないかってそう云い寄ってきたの」
どれくらい歩いたのだろう。2人はやがてひらけた場所に出た。そこは不自然なほどに丸く切り取られた森の一部で、虚空からは嫌味なほどの陽が注いでいた。
けれどそんなことはどうでもよかった。2人がまず目をむけたのはその中央、小さいながらもたっぷりと水をたゆたわせるその湖だった。
湖だ――と男が云った。女もおなじように呟いて、しばらくその場で茫然と立ち尽くした。当然だ。なぜなら、このような水をみるのは実に数10年ぶりのことだったのだから。
「1箇月待ってほしい」妹は云う。「あいつはそう云って、母親もそれに同意した。もとからすぐに受け入れてもらえるとは思っていなかったみたい。また1箇月後に来る。そう云い残して母親は去った。嬉しいかって聞いたら、判んないってあいつは云った。母親がいるなんて思ってもみなかったから、まだよく判らないって。まあ。そうだよね。ゆっくり考えなよ。私はそう云って、それから母親の話をすることは1度もなかったの」
2人は震える脚をもって湖へと駆けた。震える手をその水面に優しく触れ、それから少しだけ涙をながした。2人は延々と泣いた。生きているという実感がわいた。息をしたいとひたすらに思った。生きているというのがこんなにも素晴らしいことなのだと、生まれてはじめて噛みしめた。けれど――それは束の間の幸せにすぎなかった。
「私思うの。あいつはたぶん、そんな自分を受け入れることができなかったんだって」妹は云う。「あいつのなかには、いままで大切に大切に築きあげてきた自分という核があった。それはもう確固たる輪郭をまとい、1ミリのズレさえ許されなかった。母親のいない自分。無から生まれた自分。錬金術師になりたい自分――。けれど違った。現実にあいつにはきちんとした母親がいて、あいつも私たちとなにも変わらないひとの子だった。けれど、それはもはや認めることのできない現実だった。だってあいつは、あいつはいままで、母親のいない無から生まれた自分というものを、心の底から信じていたんだもん! だから――」
待って、と女が云った。女は気づいた。自分たちは、泣いていながら1粒の涙もながしてなどいない。それはどうしてだろう? 水分と云うものが貴重なこの世界でひとは涙という機能を捨てたから? 自分たちの思うよりもこれは涙をながすような感動的なできごとではなかったから? そうでないことを女は知っていた。いや、それはあくまで女の予想でしかなかったが、それはもう確信と云っても差し支えないほどの強固な輪郭をまとっていた。
女がなにかを呟いて、2人はゆっくりと水面を覗き込んだ。
そこには――。
そこには機械の骨格をまとった2つがあった。2人はロボットであった。それは、考えてみれば当然のことだった。ほとんどの人間の死んでしまう病原菌に満ちた世界で、どうして自分たちだけが生き残ることができたのか。たまたま運がよかったのだと思っていた。けれど、そんな都合の良い話はない。
2人は人間の残したロボットだった。なにかしらの希望を託され、ほんのささやかな奇跡を任され。2人は自身を、お互いを人間として認識するよう設計されていた。けれど水面を覗き込んだとき、そのプログラムはうまく働かなかった。バグだった。そのバグが、2人の幸せを、人類の希望を、そのすべてを壊したのだ。
「だからあいつは逃げたんだと思う」妹は云う。「新しい自分から、認められない自分から、あいつは逃げようと頑張ったんだと思う。けれどそんなの無理だよ。誰だって自分自身からは逃げられない。私はお兄ちゃんじゃないし、お兄ちゃんだって私じゃない。それってもう、なにがあっても変えられないものだよ。けれどあいつはみつめた。自分から逃れられる唯一の方法を。けっして手を染めてはいけない、禁断のそれを、あいつはなんの躊躇いもなく実行したんだ」
2人に言葉はいらなかった。2人は無言のまま手を繋ぎ、湖のなかへと身を沈めた。湖は深く、2人はゆっくりと、けれど着実に、湖の底へと沈んでいった。やがて嫌味な陽さえ届かない暗がりの底へ着地して、2人はそっと目を閉じた。
映画は終わった。黒い背景にながれる白い文字のエンドロールを、僕は無意識的にぼうっと眺めた。BGMがながれていた。それは、その映画には似つかないほど明るく愉快な歌だった。
「ずるいよね」と妹は呟いた。
僕はなにも云えなかった。なぜなら僕は、妹とまったく逆のことを考えていたからだ。
マサトは自分自身から逃げる術をしっていた。そしてそれを実行し、見事目的は果たされた。
それのどこが間違っているのだろう? 自分自身から逃げることが許されないのか? 死という末路を認められないのか? 生物の宿命を否定したいのか? 不老不死を信じているのか?
そうでないことを僕は知っている。知っているけれど、それを思考してはいけないと思った。思ってもないことを考えることで、僕はなんとか僕の感情を抑えようと努力した。そうでもしないと、僕はもう、いますぐにでも泣いてしまうような気がしたのだ。涙はもうとっくのとうに瞼の奥に溜まっていた。けれど、ここで僕が泣くわけにはいかないのだ。
「ずるいよ」と呟く妹の声がやけに大きくリビングへこだました。妹は涙をみせない。ならばどうして、僕がここで泣くことができようか。
○
後で調べたのだけど、あの映画のエンディングを歌っていた歌手は、あの曲1つをつくったっきり活動をやめ、5年前に交通事故で亡くなっていた。46歳だった。彼は――そう、その歌手は男性だった――浴びるように酒を飲み、健康診断では当然のように最低値を叩きだしていた。だからいつ死んでもおかしくなかった。それが彼の親友の言葉であり、家族の言葉でもあった。彼の妻は新しい男をつくるでもなく、彼が残した1本のギターを片手にプロの歌手を目指し、それはすぐに叶ってしまう。こどもはいなかった。だから、彼女は本当の意味での孤独のシンガーだった。
彼の唯一この世に残した歌詞の一部をここに記しておく。この歌がもしもマサトに届いたらなんて僕は考えない。歌が歌でしかない以上、それは天国までは届かない。もしもそれを本当に誰かのもとに届けたいと願うのならば、それはその誰かが生きているうちに届けなければいけないのだ。
だからこれは、いまを生きる僕たちにむけた、すでに死んだ者からの歌だ。
なにもかもが変わっちまった
あの町も あの猫も あの海も あの大切なガールフレンドでさえも
僕だけが変わらずここにいる
僕だけが変わらず歌っている
みんながみんな そういうふうに生きている
○
僕はいまでもなお考える。マサトの死について。そこに後悔や悲しみといった感情はありえない。それはもう過ぎてしまったことだ。それはもう、仕方のない現実だ。どんな理由を抱えていたとしても、ひとはいつか死ぬ。なあそうだろう? 僕は僕にそう云い聞かせる。
僕が考えているのは、マサトの死を引き起こした現象についてだった。マサトを死の底へ引きずり込んだかたちも判らぬその現象。それは確かにマサトを奪った。そしておなじように、それが次に僕らの手を引かないとは限らないのだ。
僕たちは生きていかなければいけない。そこに限度こそあれど、僕たちが生物学上に住まういきものである以上、僕たちは可能な限り生きていくように仕組まれている。僕たちは、自分たちを死へと誘うありとあらゆる要因から、逃避し続けなければいけない。そう、逃避――。
マサトは逃げた。逃げたうえで、死んだ。18階のアパートから飛び降りて。冷たい夜の地面のうえで。
マサトが逃げたのは自分自身からだ。果たして僕も僕から逃れたいと思うときが来るのだろうか? そうでなくても、もっと巨大な、目もくらむような絶対が僕を襲ったとき、けっして逆らうことの叶わないなにかが僕を捉えたとき、僕は果たしてどうするのだろう?
それでも僕は逃げるだろう。逃げて逃げて、けれどそいつからはけっして逃げられない。どこへいこうと、いかまいと、そいつはいつだってそこにいる。目をふさいでも耳をふさいでも口を閉じて世界のありとあらゆる刺激を拒絶しても、そいつから離れることはできっこない。そのとき僕ならどうする? それでも僕は逃げるのだろうか? 諦めきれず駆けるのだろうか? わずかな希望を信じて。微かな奇跡を信じて。希望? 奇跡? そんなものどこへいったってありはしないのに!
錬金術師になるのがマサトの夢だった。ほんものの人間として死んでゆくのが彼らの夢だった。彼らは希望にむけ手を伸ばし、奇跡をひたすらに信じていた。けれどそんなものは、そんなものは端から存在しないのだ! そのとき僕らはどうすればいい? それでも僕は逃げるのか? それでも僕は走るのか? 地球を何週も何週も何週もまわって、それでも逃げ切ることは叶わなくて、それでも僕はそんな連鎖を続けるのか?
違う。きっと僕はもう逃げない。もしもそのときが来たのなら、僕は諦め足を止め、そいつに手を差し伸べることだろう。諦めた。僕の負けだ。だからまあ、これからは仲良く2人でやっていこうじゃないか。
そいつがなんと答えるのか僕はもう知らない。おなじように手を差し伸べてくれるのかもしれないし、諦めてしまった僕をみて笑うのかもしれない。それともそんな僕の手を引きちぎり、ぺろりと呑み込んでしまうのかも判らない。
それならそれでも構わない。僕はそいつを受け入れた。僕は死に、そいつは生きる。そしてたぶん、そいつがこれからの新しい僕なのだ。そういう世界を、僕は甘んじて受け入れよう。
○
社会人2年目となった僕は、実家からすぐ近くのIT系の会社で働いている。仕事は単調で、まるでくたびれたパン工場のように面白みの欠片もない。それでも僕は生きている、そしてもちろん、僕の妹も。
遠くの大学へと通う妹は独り暮らしをしている。学業は順調とは云えないがそれなりに頑張ってはいるらしい。それならいいと僕は思う。少なくともそうして生きているなら、それはなんの問題はない。
先日、妹が実家へ帰ってきた。どうやら夏休みらしく、僕は久しぶりに耳にしたその単語に若干の懐かしさと眩暈を覚えた。
時刻は19時。テレビ画面のなかでは昔の映画がながれていた。1人の男と1人の女が恋をして死んでゆく、そんな物語だ。リビングで僕のつくったハンバーグをつつきながら、妹は思い出したかのように玄関のほうを指差し、云う。
「ほら、あの白猫さ、みてみなよ」
妹の指すほうに目をむけると、そこにはいつも通りの黒猫がいた。いや、それは――。
「あいつは凄いよ。ちゃんと自分自身を受け入れている。変化する自分ってのを、ちゃんと理解して受け止めてる。あんなふうなひとに、いや、あいつは猫だけど、なりたいなあって私は思うよ」
――そこにいたのは紛れもない白猫だった。塗装された黒が剥がれ落ち、そのしたの白地が前面に顔を出している。いつからだ? 僕はどうして、こんなおおきな変化に気づけなかったんだ? いつからこいつは、黒猫から白猫へと変貌していたんだ? 昨日か? 一昨日か? あるいはそれよりもずっと前に……?
「ねえ、私たちはいつだって自分の、いや、下手をしたら誰かの変化に気づけないの。なのになにかの拍子に、なにかの間違いでその変化に気づいちゃったとき、そこにはもう、自分の知らない自分がいるんだと思う。そういうのって怖いよね。嫌だよね。逃げ出したいよね。けれどそれはどうしても自分自身だし、否定することはできないの」
僕はその白猫から目をそむけることができなかった。妹の言葉を明確に耳の底へと落とし込みながら、それでも僕の目の前で僕に気づかれることなく白猫へと姿を変えたそいつから、目を離すことができなかった。
「ねえお兄ちゃん」と妹は云う。「私は――私はほんとうにあのときからとおなじ私かな? まったく姿の変わらない、私自身でいられているのかな?」
僕は妹へ目をむけることができなかった。もしもこのまま目の前の妹に目をむけたとき、そこに妹ではない誰かがこちらに目をむけていたとき、僕はいったいどうすればいい? そいつはほんとうに妹か? そいつはほんとうは、妹に成りすましたまったく別のなにかなんじゃないか? そいつは妹に偽装したばけものなんじゃないか? そいつは妹の皮を被り、妹にそうしたように、いままさに僕のことも食べてしまおうとその大きな口を開けているんじゃないのか? いや、ともすればこの僕自身さえも――。
僕はただ白猫をみつめている。白猫はなにも語らない。そいつはすでに世界の変化を受け入れた。順応したんだ。この世界というひとつの巨大なシステムに。
ならば僕は――僕はどうするべきなのだろう?
そんなものはきまっていた。僕にはもう逃げ道はない。逃げることをやめたとき果たして僕らはなにをすればいいのか、 僕はすでに知っているじゃないか!
僕は、自分のいまにも破裂しそうな確信を胸に抱きながら、震える躰を押さえつけながら、そんな僕の姿を笑う白猫を睨みつけながら、そしていままでの僕と世界にさよならを云うように、そっと、妹へと目をむけた。