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 しわがれた声で笑い声を上げる老婆は、枯れ木のような人差し指を顔の前にかざしてからそっと片目を細めて見せた。

「祖国の過ちと言ったが、今更そんなことを声高に言ったところでどうなる? ソ連の過ちはロシアの過ちではない。そうしらばっくれられるだけだし、当時のハンガリー当局が、現在のハンガリー当局であるわけでもない。ただ、我々ハンガリー人がハンガリー人であるということだけは変わらないのかもしれんがね」

 長い言葉を一息で言い切って、ヴェチェイ・カタリンはソファの肘掛けに肘をついた。深い皺の刻まれた目元には、彼女の生きてきた時間の長さをも感じさせてコヴァーチ・エルネーはふと黙り込んだ。

 現代に生き残る魔女。彼女はいったいなにを思い、なにに心をとらわれるのか。第一次世界大戦と呼ばれる世界を巻き込んだ大戦争が終結した年に、彼女は生を受けた。それは、少なくともハンガリー人として、世界的に見ればそれほど幸せな人生とは言えなかっただろう。

 激動の時代という荒波に翻弄された。

「理不尽であるとは、思わなかったのですか?」

 フリーのジャーナリストにもっともらしい言葉で問いかけられて、魔女は低く笑う。まるで目の前にいる青年など足下にじゃれる子猫も同然だと言いたげな眼差しだ。もっとも仮に彼女に面と向かってそう告げられれば、コヴァーチは納得こそすれ心外だとは思わなかったかもしれない。

 それだけの年齢の差があり、そうして立場の違いがあり、さらに経験と知識の差が存在している。

「ユダヤ人であるということだけではない。考え方が異なるというだけで、投獄されるような時代だった。わたしが生きてきた時代は”お坊ちゃん”が生まれた幸せな時代とは違うというだけのことさ。もしも生まれでなにかを恨まなければならないのだとしても、わたしにはどうすることができるわけでもない」

 冷ややかなほど静かに、ヴェチェイ・カタリンは告げると薄く口もとに笑みをたたえる。

「ただ、わたしは、”わたしにできることをしただけだ”」

 達観したようなでぽつりと告げた老婆は、それからぎろりとコヴァーチを見やってからそれからとたんに興味をなくしたように睫をおろした。

 確かに、百歳にもなろうかという老婆には俗世の些事など取るに足りないことなのかもしれない。

「あなたにできること、というのは?」

 どういうことなのか、と問いかけるコヴァーチのそれ以上の追求を拒むような眼差しに、しかし青年は屈しなかった。

「教えてください」

「大したことじゃない」

 素っ気なく老婆は告げると、うんざりとしたように執拗な青年を眺めてから片手で軽く肘掛けを指先でたたいた。

 がさがさとした声と、顔に刻まれた深い皺。枯れ枝のような指は確かに年齢を重ねたものだが、コヴァーチ・エルネーは琴線に触れるような違和感を覚えてその正体を探ろうと目をこらした。

「わたしは、しつこい男が嫌いなんだ」

「それはハンガリー国家保衛庁(ÁVH)のことを言っておいでですか?」

 単刀直入に言った青年に、老婆はぎょろりと目玉だけを動かして若い男を見やる。

 ――ÁVH(アーヴェーハー)

 それは一般的な善良な市民にとって心楽しい思い出ではないはずだ。

 鉄のカーテンに覆われた時代の遺物。

 悪夢の記憶。

 そんなことは、ハンガリー人のジャーナリストのコヴァーチ・エルネーにも「わかって」いる。それでも、彼女の真意を探るためにはあえて尋ねる必要があった。どんな些細な変化も見逃すまいと青年は目をこらした。

「わたしが本当に魔女だったら、怒りと絶望に駆られてハンガリー当局の”連中”を皆殺しにしたとでも言うのかい?」

「あなたは、何者なのです? 百年近い時間、あなたは魔女と恐れられてきた。本当にあなたは魔女なのですか?」

 核心を突いた彼の問いに、魔女はくつくつと笑いを漏らすと口許に右手の指を押し当てた。

「伝説の魔女たちのように、わたしが怒りと復讐心に駆られて魔術を震い人々を死に追いやるなどという戯言を信じると言うのかね?」

「……――歴史的に魔女は存在しないとされています。今、その魔術のほとんどが科学の力によって否定され、そのほとんどがインチキだと証明されながら魔女の力を信じる者が多くいるという事実も否めません」

「フン……」

 信じる者がいる。

 それは言うまでもない現実だ。

 だからこそ愚かしい夢物語だとカタリンは思った。

「歴史の影に、魔女の存在は埋もれた」

 ぽつりと彼女は言う。

 がらがらの声がどこかさみしげに響いたような気がする。

 コヴァーチ・エルネーはそっと片目をすがめた。

「我が父は、あの苦難の時代にあって、自分の力を使うべき時を間違えたのだ。だからあの人は、家族も、友人も守れなかった。その素質の……」

 そこで老婆は不意に言いよどむと、長い間口を閉ざした。

「魔女の力の使い道を、彼は使い謝ったのだよ」

 りんと、鈴が響くような声が響いたような気がして、青年は言葉を失った。

 魔女の力の使い方を間違えた。

 だから「彼」は死んだのだ、と「彼女」は告げる。

「自業自得よ……」

 響いたその声にコヴァーチが反応を返すまもなく、唐突に目の前にあった老婆の姿が煙となってかき消えた。

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