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 ソビエト連邦の中核を構成した現在のロシア連邦には、今を持って秘密警察まがいの組織が横行している。もちろん、それはなにもロシア連邦に限った話ではなく、中華人民共和国やアメリカ合衆国や、イギリスなどもそうした秘密諜報部という組織を公然の秘密として抱えている。

 誰もが監視されていると言っても過言ではない。

 だからこそ、「ありえない」とは言い切れない。

 科学技術の発達した現代で、それこそ非科学的な魔女伝説など、いったい誰がまともに受け取ろうというのだろう。だけれども、ハンガリー共和国のバラニャ県の小さな村にあって魔女の存在は確かに信じられている。

 老齢な女性――ヴェチェイ・カタリンと、その父親は「魔女」であった、と。

 よほど胡散臭い魔術の噂でもあるかと思えばそういったわけでもなさそうだ。ボールペンを右手に、ノートを左手にしてひなびたホテルの一室でベッドに腰を下ろして小首をかしげて考え込んだ。

 ベッドマットに放り出された白黒の写真に写り込んだ少年少女たち。

 そのうちのひとりが話を聞いたはずの老人で、シャッターを切ったのは彼のすでに死んだ父親だという。左から二番目に映っているのがヴェチェイ・カタリンで、被写体となった五人の内のふたりはすでに死んでいると言うことだった。

 高齢だから至極当然だ。

 ソビエト連邦の衛星国だったハンガリー第二共和国時代にあったハンガリーの闇の歴史。それは暗く重い秘密主義の時代だ。

 誰もがソ連当局の監視の目を恐れ、ハンガリー当局の警察の目を恐れていた。それでも、一九〇〇年代の末には自由への憧憬によって生じた強烈な民主化の波を止めることはできなかった。かつて世界の半分を支配した共産主義者の歴史はそうして資本主義と民主主義の前に膝を屈しつつあった。

 取材の道具をカバンに詰め込んでからその日は眠りに落ち、翌日、早めの食事を済ませてから、コヴァーチ・エルネーは古ぼけたセダンを走らせて、ヴェチェイ・カタリンの所有する畑の周りをのんびりと回ってみることにした。

 一九一八年生まれのヴェチェイ・カタリンがそれほど頻繁に外出をするというわけでもないだろうから、彼女と偶然遭遇することなど期待していない。

 遠目に木の陰にカタリンの住む木造の屋敷が見えた。

 その窓際に誰かがいるわけでもない。

 ただひっそりと木立の間に、屋敷だけがたたずんでいる。

 一回り木立と畑の間を回ってから、ヴェチェイ家に再び戻ってきたコヴァーチ・エルネーは二階建ての家を見上げてから、まるでその家が百年前からタイムスリップしてきたかのような印象を受けた。

 チチチと小鳥が鳴く声が聞こえて、青年はそちらに視線を投げかけると地面にえさになる植物の種子でも探していたらしい鳥はさっと顔を上げてから地面を飛び立つと、窓の中へと逃げ込んでいくようにも見える。

 魔女の家には動物でも出入りできるらしい。

「どうも、コヴァーチです」

 軽く扉のノッカーを鳴らしてから、少し待ってからドアノブを回す。以前訪れたときと同じように何の抵抗もなく開いたそこに体を滑り込ませたコヴァーチ・エルネーは、それほど表情を変えることもせずにそれほど長くもない廊下の先のリビングを見やる。

「お入り」

 これが都市部の住宅密集地域であれば、空き巣や強盗といったたぐいの犯罪者の標的にされかねないだろうが、片田舎の魔女屋敷など誰も薄気味の悪さに誰も標的になどしないに違いない。

「昨晩、アンタルから電話があったよ」

「それはどうも」

 コヴァーチ・エルネーは、一応それなりに顔には自信がある。ドイツ人のようにやたらめったら背が高いわけではないが、ハンガリー人としては均整がとれているし、顔立ちだってそれほど悪くはないはずだ。おかげさまで恋人に困ったことはない、というのが同性の友人たちへの自慢だ。

 とはいえ、そんな顔立ちについても老婆にとってみれば取るに足りないことに過ぎないようだ。ちらとコヴァーチの顔に視線をやってから、手元の本に向き直った彼女はずりおちた老眼鏡を指先で押し上げる。

「……追いかけてくる女ほど、ろくなのがいないからお気をつけ」

「はぁ」

 アンタルというのは、ヴェチェイ・カタリンの友人のあの老人だ。

 しわがれた声が鋭くコヴァーチに注意を促すが、女の嫉妬深さからの粘着的なところは全くもってあきれかえるものがある。自分を捨てた男のことなどに執着するよりも新しい恋でも探したほうが健全で前向きなのではないかとも思うが、その辺りは個人差があるだろうからもはやコヴァーチも言及しないで放っておくだけだ。

「それで、わたしに何のようだね?」

 見下すような高圧的な問いかけにコヴァーチは足音もなく数歩彼女の腰を下ろすソファに歩み寄ると、老眼鏡のつるに指をかけたヴェチェイ・カタリンは不意に顔を上げてから、首を回して青年を見る。

 九十六歳の彼女にしてみれば、二十代の若者などひよっこも同然だ。

 ともすればひ孫にもあたる年齢だろう。

 百年もの長い動乱の時代を生き抜いた彼女にしてみれば、他者の顔の見目の良さなど関心の的にもならないらしい。

「……座っても?」

「どうぞ」

「失礼します」

 腰を下ろした青年を頭の先から爪の先までざっと見下ろしてから、手元の本にしおりをはさみこむとテーブルの上に戻して老眼鏡を外した。年齢の割に指先は震えてもいないし、動作の逐一がしっかりしている。

「それで、今日は?」

 勝手に室内に入ってきたことに対しては、あえて触れることもせず膝掛けを軽く直してからコヴァーチの訪問理由について問いかけた。

「ヴェチェイさんは昔のハンガリー当局の横暴なやり方をどのようにお考えだったのです?」

「……今更、過去の話をしたところで死人が戻ってくるわけでもないだろう。議論するだけ無駄な話だ」

「しかし、過去、ハンガリー政府が過ちを犯したのであればそれは追求されなければならないのではないですか? それに、あなたはお父さんの死の理由を知りたいとは思わないのですか?」

 過去の罪は暴かなければならない。

 それは未来へつながる光明だ。

 歴史の中で犯された罪を暴くことはマスメディアの大きな役割ではないか。

「あの時代、多くの人々が過ちを犯したし、全世界の人々が謝ったやり方に走った。一方的に被害者面するだけならば容易なことだ」

 大して興味もなさそうにそううそぶいた彼女は、テーブルの上に放り出された新聞の一面を眺めてから首をすくめて見せた。

「過去の犯罪を暴くことも大切なことだが、今は今現在の問題も山積みだ。歴史の検証などいくらでもできるし、それよりも大切なことがわたしはあると思いもするが」

 淡々と告げた彼女はソファに深く腰を下ろしてから細く痩せた指先を顔の前で立てて見せた。

 欧州連合に加盟したことによって、ハンガリー政府はまたいくつかの大きな問題を抱え込むことになったこと。

「そんなことよりも、若いのは”魔女”に興味があるのだろう?」

 わざとらしくヒヒヒとかすれた笑い声を上げた老婆は、皺の刻まれた両目を細めた。

 科学的な時代にあって高名な魔女として名を馳せる。

「わたしは(ばばあ)だからね」

 そう言ってから言葉を句切るとヴェチェイ・カタリンは数秒おいて話を続けた。

「回りくどい物言いは嫌いなんだ」

 彼女の物言いはなにかが引っかかる。

 コヴァーチ・エルネーは本能的にそう感じた。

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