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ヴェチェイ家については謎が多すぎる。
カタリンの叔父の一族は、すでにカタリンと親交がある者がいない上に、そうかと思えば彼女の所有する土地を取り上げようとして何人もの親族たちが怪死を遂げているというのだ。
呪いやまじないなど、残酷なおとぎばなしでもあるまいし、とも思わないでもないが、なにせコヴァーチの生まれた国は魔女伝説を数多く残す土地でもある。なによりも問題のヴェチェイ家の――少なくともそのうちのふたりもの人間が「魔女」として認定されているというのだから、そうした噂は信憑性が皆無というわけでもないところが末恐ろしい。
一説には、カタリンの父親の呪いが土地に染みついているのだとか、もしくは、当のカタリンが自分が生き残るために、邪魔者を始末しているとまで言われている。そんな噂が飛び交うのは、カタリンにハンガリー当局を含めてソビエト連邦の秘密警察は愚か、戦時中のゲシュタポですらも手を出せなかったという伝聞からだ。
父親とその知人は逮捕され、処刑されたという噂すらまかり通っているというのに、れっきとした大人としての判断能力を持つ娘が見逃されたことは怪しいと思われてもおかしくはないだろう。
彼女はなぜ生き残ることができたのか。
そして、彼女の知人や友人たちは、なぜ生き残ることができたのか。
カタリンの知己であるという老人は、その真相を全く知らないと言った。自分たちも秘密警察の手に落ちて拷問を加えられ、処刑を待つばかりの人生なのだと半ば絶望していたが、結局、カタリンの父親と周囲の人間が逮捕されただけで、カタリンを含めたその友人たちには被害が及ばなかった。
もっとも、そんなカタリンは当局の追求によって何人もいた兄弟姉妹を全て亡くしてしまっていた。
今や彼女は小作人たちを数人雇う地主でしかない。
「当局と取引したのでは?」
コヴァーチ・エルネーの問いかけに、老人はかすれた笑い声を上げて顔の前で片手を振った。
「そんな大金があったら、今みたいにヴェチェイ嬢は闇に隠れるみたいにして暮らしちゃいないさ。魔女の子孫とか、魔女の娘だとか、あげくのはてにはバートリ・エリジェーベトの生まれ変わりだのって噂されてもヴェチェイ嬢は反論もしなかったし、わたしらが知る限りは暴挙に及んだこともなかった。だいたい、当局に親父さんを助けてくれって言ったところで、スパイ容疑をドイツとハンガリー当局と、ソ連の秘密警察にかけられまくってたんだ。無罪放免なんて話があると思うかい? 若いの」
確かに、戦時中はドイツのゲシュタポと、ハンガリー当局からスパイ容疑をかけられ、ようよう釈放されて戦後を迎えたとたん、今度もハンガリー当局とソビエト連邦の秘密警察からイギリスのスパイとして徹底的に監視されたあげく、収監されてその後の行方が知れない。
カタリンの父親を含めた多くの関係者たちの行方は未だに闇に包まれている。
「……死因は、わかったのですか?」
「心不全」
短く老人は語った。
そう、カタリンが教えてくれた、と。
心不全。
それはなんとも都合の良い言葉だ。
どんな理由であれ、心臓が止まれば心不全だ。そんな死因の報告など頭が少しでも回転する人間であれば、頭から信じるわけもない。
「ヴェチェイ嬢は一応、高等教育も受けているからね。その辺の学者の先生たちとは比べものにならないかもしれないが、それなりに聡明だし、半端者のわたしらなんかとは比べものにならないくらいいろんなことを知っていた」
父親の立場がどれほど危険なものであるのかも知っていたのではないか。
老人は静かにそう続けてから、長い息を吐き出した。
彼の目元や口元に深く刻まれた皺が、これまで経験してきただろう多くの苦労や時間を物語っているようにも感じられた。
おそらく、ヴェチェイ・カタリンの友人であるという老紳士も、ヴェチェイ・カタリンと同じようにきな臭い身の危険を感じていたに違いない。だからこそ、自由な時代になった今ですら、彼は口を固く閉ざすのだろう。
そうしなければならない時代が長すぎたのだ。
「この写真、コピーさせていただいてよろしいですか?」
ヴェチェイ・カタリンとその友人たちが、肩を寄せ合うようにして撮影した白黒の写真。
そこには同年代の少年少女たちが無邪気に笑っている。
「過去の思い出を墓に持って入るのもナンセンスだと思わんかね?」
唐突に老人が告げる。
「……は?」
「年寄りが思い出の写真なぞ墓に持って行くものではないと言っているんだ。気になるなら持って帰ってかまわんよ。そんな写真、わたしが持っていてはなにかと面倒を引き落としかねんからな。もしかしたら、政府はまだヴェチェイ家を監視しているのかもしれん」
今時そんなことがあるわけが……。
そう言いかけて、コヴァーチ・エルネーは思わず口をつぐんだ。
世界は謎に包まれている。そして、世界は秘密に包まれている。
そうした秘密を、死ぬまで胸に抱えて生きていくのは、百歳にもなろうという男には荷が重いのかもしれない。
「わたしは、もう秘密を守らなければならないことに、疲れてしまった。ソ連が崩壊するまで、わたしはずっとその写真を持っていることで、ソ連の秘密警察にとっつかまるんじゃないかとおびえて暮らしておった」
そこで一度言葉を切った。
「そのときに、捕まったとして、逮捕されるのはわたしだけではない。老いぼれだけが捕まるのならそれはかまわん。だが、おそらくは一族郎党、もしくは村が丸ごと滅ぼされるのだ」
「……まさか、戦時中のナチのやり方じゃあるまいし!」
かすれた声を上げたコヴァーチに老人は緩くかぶりを振ると、真剣な瞳で言葉をつないだ。
「ソ連の秘密警察はそういう手合いだったんだ」
闇から闇へと葬り去られる。
存在を抹消される。
まるで、どこかの街に伝わる都市伝説のように。