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 村の九十代半ばの老人はヴェチェイ・カタリンとは幼なじみのようなものだと言った。高齢にさしかかり、二十年ほど前から昔なじみの顔見知りはひとり、ふたりと減っていく一方だと、年齢の割に矍鑠とした老人はパイプをテーブルに戻しながらそう言った。

「もう何人もヴェチェイ嬢のことを知る人はいないだろうね」

 聞き捨てならないことを老人は言った。

 確かに、役場の記録によればヴェチェイ・カタリンは独身ということになっている。

「ヴェチェイ嬢、というのは、つまりご結婚もされていないっていうことですか?」

「ま、昔はね。それなりに恋人らしい相手はいたんだが、その相手は戦争に連れ出されちまうし、親父さんはハンガリー当局に目をつけられるし、畑ではユダヤ人を使ってたしでさんざんでね。イギリスの工作員じゃないかってつい最近まで疑われて監視されるような人生だったから結婚する機会もなかったらしいんだ」

「……恋人、という方は戦後はどうされたんです?」

「さてね、噂では戦死したとか、ソ連の捕虜収容所に収監されて死んだとか、まぁ、そういう噂が流れてるけど、帰ってきていないのは事実だね」

 聞かれたことに淡々と応じる老人は、質素なソファに腰を下ろしたままで、遠く過去に思いを馳せるようにして窓の外を眺めてから長い息をつく。

 戦時中はよくある話だ。

 一九一八年生まれともなればそれほど珍しい話でもないだろう。

 そんなことを告げた老人とコヴァーチ・エルネーの間に微妙な沈黙が流れた。先にその沈黙を破ったのは老人の方だった。なにごとかを考えていた老人はややしてから何度目かのため息をつくと、視線を滑らせてコヴァーチ・エルネーを灰色の瞳で流し見た。

「恋人を失った妙齢の女性だったからね、そりゃ、噂はいろいろあったし、その後、ソ連軍が進駐してきたときもいろんなことがあった。けど、ヴェチェイ嬢は……」

 そこまで言ってから老人が口ごもった。

 東ヨーロッパに進出したソビエト連邦赤軍の蛮行は有名だ。

 それはドイツに対して行われただけのものではない。

「……――ともかく、不思議な人だった」

 なにかを言いかけてやめた老人は、あからさまに視線をさまよわせてから話題を変えると、いかに彼女が年齢を重ねてもかわいらしい女性だったかという話を語って聞かせてくれた。

 どうやらヴェチェイ・カタリンは、比較的若作りの女性だったようだ。

「写真とか、ありますか?」

「うーん、どうだろうね。なにせああいう時代だったからなぁ」

 戦前も、戦中も戦後も。ハンガリーという国はヨーロッパでも極めて貧しい国の筆頭だ。なにもかもが不足していた。

 よたよたとソファから立ち上がった老人は戸棚のたんすを引き出して、その中から古びたノートや手帳やらをごそごそと漁る。

「あぁ、あった。近所の友達同士で一緒に撮った写真だがね」

 ほれ、と写真を差し出した老人の手元に、数人の明るい笑顔で映り込んでいた。

「左から二番目の女の子がヴェチェイ嬢だ。今はすっかり白髪だが、この頃は見事な金髪の巻き毛で、そうだな、たぶん北の方の血統じゃないかってもっぱらの噂だった。瞳が青みたいな緑でね。すごくきれいだったんだ」

 白黒写真なので色はわからないが、色素の薄い髪と目鼻立ちのはっきりとした文字通りの美少女だ。写真の年齢は、十代半ばくらいだろうか。

「今でこそタブーというわけでもないが、ソ連の秘密警察が村に来たときに、なんでだか知らんがヴェチェイ家の親父さんに関する記録をほとんど根こそぎ持って行っちまったんで、昔の写真やら記録やらはほとんど残ってないんだよ。そんなことがあって、確か親父さんの弟さんの一族ともほとんど音沙汰がないとか」

 肩をすくめた老人の言葉に、コヴァーチは思わず黙り込んで思考を巡らせた。

 彼女の父親に関する噂だ。

 いつでも戦中から戦後にまつわる長い期間について、彼女の家族の情報は固く国家という権力の圧力によってふたをされている。なぜ、ここまで強固に関係者の口をふさがなければならなかったのだろう。

「彼女の親父さんとの関わりのあった連中は、当時のハンガリー当局と、ソ連の秘密警察に軒並み逮捕されて帰ってきていないからね。残されたのは、一部の子供世代くらいだ」

 そうつぶやいた老人は、考え込むような表情になってから無言のままで左右にかぶりを振った。

 なにかを思いついて、自ら否定したとでも言えばいいのだろうか?

「しかし、そうなるとなぜヴェチェイさんは逮捕されなかったのです? 彼女は一九四五年当時でも二七歳だ。充分、大人としての判断能力を持っていたはずでしょう。それにあなただって当局に疑いをかけられたのではありませんか?」

「……それは、なぜ彼女と、彼女の友人の我々が当局の手を逃れられたのかはわからんな」

 もしかしたら、彼女が守ってくれたのかも知れない。

 ぼそりと付け加えた老人は、そうしてソファに座り直すとやはり長いため息をついた。

「もしかしたら、ヴェチェイ嬢にはなにがはじまっていたのかもわかっていたのかもしれない。なにせ、親父さんはハンガリーでもそれなりに有名な”魔女”だったからな」

「つまり、アレイスター・クロウリーの弟子であったということは有名だったと?」

「あの時代は厄介なことの連続だった。まるで魔女狩りの再来みたいな時代だ」

 ユダヤ人は迫害され、密告が横行していた。

 そんな時代がおおよそ七十年も続いていたのである。

「……――秘密警察の連中も、彼女には手出しをできなかった。もしかしたら、親父さん以上の魔女としての素質があったのかもしれないが、わたしら友人は彼女が魔女だなんてかけらも思ったことはないし、彼女も魔女らしい振る舞いなんてしたことはまるでなかった」

 思い出につかるように片目をそっと細めた老人は、ため息でもつくように息を吐き出すと唇の端を軽くつり上げて見せた。

「記者さん、よく魔女は黒い服を着て、黒猫を従わせてるなんて言うじゃないですか。でも、少なくともヴェチェイ嬢がそういう服を好んだってことはなかったね。明るい色の服が好きで、まるで魔女らしいところなんてなかった」

 黒いドレスを身につけて黒猫を従わせた魔女など、時代錯誤な魔女観であるのはコヴァーチ・エルネーにも明白だった。

「……ただ」

 考え込む様子で付け加えてから、老人はまた視線を中空にさまよわせるとそれから再び口を閉ざしてしまった。

 コヴァーチが問いかけると老人は唇を引き結んで目を伏せる。

「ただ……?」

「なんでもない」

「なんでもかまいません、教えてくれませんか?」

「大したことじゃない」

 食い下がる青年に老人は困惑した様子で突っぱねた。

「わたしは、ハンガリーの闇が彼女を取り巻いていると考えています。もしかしたら歴史の闇が解き明かすことができるかもしれないのですよ」

「そんな大げさなことじゃない」

 自分の顔の前で手のひらをかざしてから、なにかを言いたそうな複雑な顔をしたままでテーブルの上のパイプを凝視する。

「……ただ、昔、ひそかにささやかれたのがまるであのバートリ・エリジェーベトみたいだって」

「トランシルヴァニアの女吸血鬼の? なぜです?」

「三十歳くらいまで、ほとんど見かけが変わらなかったからさ。まぁ、どうせいつまでも老けない彼女に対する女どものやっかみに決まってるとわたしは今は思っているし、友人連中もそうだった。とはいえ、そんなことを言っても今やわたしもヴェチェイ嬢もすっかりしわくちゃの爺さん婆さんだからな」

 ま、あの頃のヴェチェイ嬢はそりゃかわいらしかった――。

 そう独り言のように言ってから老人は過去の光景を懐かしむように穏やかな眼差しを放った。

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