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とりあえずそれから数日でありとあらゆる公的な記録を当たった。たとえば公共料金の支払い記録や、彼女を取り上げたここ何年かの取材であったりする。
鉄のカーテンに覆われたソビエト連邦の衛星国時代、あるいは戦時中の記録があるのかと言えば全くない。
不可解に思えるほど真っ白だ。
たとえば戦時中にどんな役割を演じていたのかとか、そうした記録がないのだ。もちろん女性であるということを考えてみれば、彼女の記録がないというのもうなずけるが、それがイギリス連邦とつながりを持った父親がいるとなればまた話が違う。
彼女は国家に監視されて然るべき存在だ。
すっぽりと抜け落ちてしまった彼女の記録。
生まれは第一次世界大戦が終わったばかりの一九一八年のバラニャ県に生まれた。
バラニャ県というのはハンガリーの最東部に位置し、豊かな農地と森林が広がる自然の豊かな美しい町だ。
古くからその土地の地主の一族であるヴェチェイ家だったが、カタリンの父親が異常に魔術に傾倒したことにより、国家当局から目をつけられた。ただし国家反逆罪に類する犯罪行為は認められず、時の権力者たちもあからさまに手を出せなかった。
ヴェチェイ家の管理は主にカタリンの叔父の一族によって続けられているが、一部の土地はカタリンが管理して今に至っている。
死に損ないの魔女。
心ない者はそう噂する。
一説にはカタリンの父親が、彼女のために決死の思いで残した土地であるとかで、なにかと売却の話が持ち上がっては、そのたびに大変な不幸が発生してやがて近隣の不動産業界からは商売にならない悪魔の土地であると忌み嫌われるようになった。とはいえ、そんな不動産業界から忌避されると言っても、その土地がカタリンの名義である以上、なにかしらの不幸が発生するわけでもなかったから、数人の雇われの農夫たちにとってみれば、よほどのことがない限り収穫に口を出さない好ましい領主という立場におさまっていた。
「あら、偉そうな領主様なんかよりもずっと素晴らしい方だってこの辺の人たちはみんな思ってますよ。どうせなら、ヴェチェイさんの領地が全部カタリン様の持ち物なら良かったのにって言う人もいるくらい」
コヴァーチの「取材」に快く応じた女は、トラクターのエンジンをかけながら気軽な物言いでそういった。
「でも、その婆さん、ものすごく気難しいって話じゃないんですか?」
「それは訳のわからないことを言う連中が流したデマだよ。だいたいあの方はもうすぐ百歳になろうっていうんだし、そりゃ少しは頭が固くなったって普通じゃないか」
確かに。
一世紀も前に生まれて、激動の時代に人生のほぼ半分を捧げたわけだから、気難しくもなるかもしれない。
第一次世界大戦の後の世界的な大恐慌と、第二次世界大戦、そして、その後に続く秘密主義もきわまったひどい時代は、ヴェチェイ・カタリンが生まれてから、なんと七十年も続いたのだ。
おそらく、彼女は父親がアレイスター・クロウリーとつながりを持つという理由で、言われなき仕打ちを受けたのかも知れない。
「カタリン様は、たまに屋敷に来る奇妙な連中のことがお好きじゃないからね」
「でも占いは良く当たるって噂でしょう?」
その噂に切り込まれて、農婦は小首をかしげてから小太りの体を揺らしてから視線を頭上にあげた。
「別に、畑でもやっていけるんだからそんな得体の知れないものに生活を頼らなくたって問題ないだろう? それにカタリン様はそういう噂のたぐいがお嫌いだ。なにかっていうと人はすぐに楽をして結果を出そうとする。占いもそういうもんだっていつだったかカタリン様が言っていたのを聞いたことがあるけど」
それから続けて「ほらほらどいてくれ」と言ってからトラクターを動かした。作業の邪魔になりそうで、コヴァーチ・エルネーは短く農婦に礼を言ってから歩き出した。
ヴェチェイ・カタリンの噂については、主にバラニャ県の彼女の所有する山と畑を中心に流れている。彼女が百歳にもなる高齢という点を考えれば当たり前のことだ。特に、鉄のカーテンが取り払われて情報が安直に広く流れるようになったのはここ三十年ばかりのことだ。
それほどソビエト連邦時代はひどい時代だった。
少し年齢のいった者であれば一九五六年に起きたハンガリー動乱のことは良く記憶に残っているだろう。
――ナチス・ドイツの同盟に与した頃となんら変わりのない、ソビエト連邦時代の負の遺産。
それはたとえば旧東ドイツに残っていたり、またはポーランドや旧ソビエト連邦の構成国などにもそうした負の遺産が色濃く影を落としている。
レーニンとスターリンが作り上げたソビエト連邦という巨大な共産国家は、確かにありとあらゆる意味で偉大だった。
この世の楽園とは言いがたいが。
取材で得た情報はまとまりのつかないものが多く、それらを手早く書き留めてからブリーフケースにファイルごと放り込む。データベース化はとりあえずホテルにつくまで保留にしておけばよい。
ヴェチェイ・カタリンについては、良い噂も悪い噂も、そして当たり障りのない噂もあった。
たとえば数日前にスーパーマーケットでなにを買っていたかとか、そんなものまである。とにかく百歳に手が届こうというのに驚くほど足腰のしっかりした「婆さん」だ。
それがコヴァーチの印象だった。
人柄については、別に個人的な関係があるわけでもないから青年にとってみればどうでもいいことだ。
「ここいらは田舎町ですからね、よそ者がくるとすぐわかるんですが、たまにかわいい女の子が買い物に来るんですがあれはヴェチェイさんところの親戚筋かねってたまーに噂になるんですよ。なにせかわいい子なもんだから、ほら、若い連中が息巻いてね」
タバコを吹かした男がしなびたカフェの店頭でコーヒーで一服つきながらそう教えてくれたことをコヴァーチは思い出した。
少なくとも、ヴェチェイ・カタリンとその叔父の一族の接触はほとんどないはずだというのに、なにやら腑に落ちないものが心の片隅に引っかかった。