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ヴェチェイ・カタリンと初めて顔を合わせてからしばらくして、彼女と交わした他愛もない会話をすっかり忘れていた頃、コヴァーチ・エルネーは自分の恋人が、エルネーの頻繁な不在を良いことに浮気をしていたことが発覚した。
イタリア人やフランス人でもあるまいし、情熱的な恋などというものとはほど遠い恋愛関係だったから憎悪のような怒りなどは感じなかったが、要するにその程度の女だったのかと思ったら、心の底から「元恋人」の女を軽蔑した。
職業は花屋の店員だったから出会いなどはいくらでもあるだろうが。「さみしかったのよ」などと場当たり的な言葉で言い訳をされても、潮が引くように相手に対して冷めてしまった心はどうしようもなかった。
彼女が「女として」さみしかったから浮気をしたというのなら、人間として相手を心の底から見下したコヴァーチ・エルネーの心情もやむを得ないことだろう。
だから、彼は彼女を見下す代わりに、彼女の不貞を咎めたりはしない。
何度も言い訳めいた言葉を繰り返す彼女に背中を向けて、別れを決めた。
「絶対あきらめないんだから!」
そもそも、不貞を働いたのは自分ではなく、彼女のほうなのに、どうして自分が相手に咎めるようなヒステリックさで差し迫られなければならないのかさっぱりわからなかった。
絶対あきらめないと言われて、コヴァーチは「なにをあきらめないんだろう?」と小首をかしげながら、彼女に背中を向けたままでひらひらと片手を振った。
彼女が浮気をしたと知った瞬間に、彼女との関係は他人のものとして崩れ去った。自分はこんなに冷たい男だったのかと、内心であきれかえったが、瞬間に冷めてしまった心はどうしようもない。
「女難の相、ねぇ……」
そこでふと、コヴァーチ・エルネーはヴェチェイ・カタリンに言われた「女難の相」という言葉を思い出した。
確かに、これからこのどうしようもない不貞な女につきまとわれるのであれば、それはまったく女難としか言い様がないのだが、そもそも相手の浮気も女難に入るのだろうか?
白い中古のセダンに乗り込んだコヴァーチはそれから三十分ほど車を走らせて、町を一望できる丘の公園の上に停車させる。運転席の扉を開いて、両足を下ろしたまま彼はタバコに火をつけると、手元にノートを引き寄せた。
改めてアルファベットを書き付けられたページをめくった。
なにか特ダネはないだろうか。
そんなことをぼんやりと考えた。
――ハンガリーの魔女と呼ばれるヴェチェイ・カタリンの屋敷を出入りするひとりの女がいる。
短く書き留められた言葉に、コヴァーチは首を傾けてかすかに片目を細めてタバコのフィルターをかみしめた。
ヴェチェイ・カタリンの屋敷に出入りしているのは、顔立ちがわからないような服装をした女なのだという。体の線を隠すような服装に目深の帽子。やや時代遅れとも言える格好がほとんどだという情報のでどころはいったいどこだったのだろう。
そうした情報の多くは、主に女性たちを中心に出回るのは、女性たちが多くの場合占いや心霊などのオカルト的なものを好むためだ。特に、女性たちは恋愛の行方や夫との関係などについて、大してものの役にも立たない解決手段を求めるものと相場は決まっていた。
収集した情報によれば、ヴェチェイ・カタリンはひとり暮らしで使用人などは雇っていない。新聞配達員や郵便局員などの出入りは少なからずあるものの、その「女」は決まって夕暮れから夜にかけて出入りしているらしい。
高齢ではあるが、買い物などは自分でやるというヴェチェイ・カタリンだから、出入りしている女の存在に謎が残った。
彼女はいったい何者なのだろう。
もしかしたら、人目がつかないように出入りさせている使用人という可能性も捨てられないが、いずれにしろ、謎が多かった。もっともヴェチェイ・カタリンの家に誰かしらの使用人が出入りしているからといって、それが違法であるわけではない。
「不思議な人だ」
そう言ってコヴァーチはノートを助手席に放り出して、青い空を見上げてため息をついた。
彼女は不思議な人だ。
死にそうな婆など、取材したところで大して面白くもないが、それにしたところで彼女の歩んできた歴史と時間の長さを考えると面白く思わなくてなんだというのだろう。
彼女はまさしく激動の時代を駆け抜けた。
もしくは現在もこの程度の噂が流れており、彼女の父親がかの有名なアレイスター・クロウリーに師事していたという事実もある。だから秘密主義の時代にあって胡散臭い組織からも目をつけられていただろうことは容易に想像できた。
時代の闇が彼女につきまとっていることに、コヴァーチ・エルネーは強い関心を持った。
ハンガリー屈指の魔女と呼ばれたヴェチェイ・カタリン――。彼女は秘密を抱いている。彼女の秘密――、もしかしたらそれはハンガリーという国が抱いている国家の闇でもあるのかもしれない。
魔女とささやかれた彼女はいったいなにを目にしたのだろう。