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ギィと軋んだ音を立てながら、暖炉の前で揺り椅子を揺らす。
ほつれた白い髪と、皺だらけの顔。落ちくぼんだ瞳と、覇気のない口許。厚く着込んだウールのカーディガンとケープ、長いドレスのようなスカートを小さく揺らして、肘掛けに片腕をついたままで薄目を開ける。
なんと長い時間が流れたことだろう。
どれだけこの時間を生き続けなければならないのだろう。
かつて、この国がトランシルヴァニア公国と呼ばれていた頃、世界は恐ろしい魔女狩りの旋風に包まれたのは有名だ。
トランシルヴァニアと言えば、悪名高い吸血鬼を「ふたりも」排出したことで知られている。
ひとりは通称「ドラキュラ」とも呼ばれる串刺し公「ワラキア公ヴラド三世」だ。そして今一人は、その後の時代に現れた女吸血鬼「バートリ・エルジェーベト」である。
どちらも、現代からの常識から考えれば、余りにも残酷なやり方で多くの人間を殺害した過去を持つ。
「くだらぬ」
ぼそりと、老女はつぶやいてから再び目を閉じた。
自らの権勢を誇示するために、より残虐な手法で刑罰を実行したワラキア公ヴラド三世も。そして、永遠の若さと美貌を求め続けたバートリ・エリジェーベトも所詮は人間だろう。
今ではどちらも映画や小説などで扱われる世紀の犯罪者だ。
けれども、老女にしてみればそれは所詮、人間の所行でしかなくて意識するまでもない。
コンコンとノックの音が聞こえてきて、老女は視線だけを滑らせてかすれた声を上げた。
「お入り」
「はじめてお目にかかります、ヴェチェイさん」
「こんなばばぁに取材なんかしてなにが面白いんだか、わたしにはさっぱりわからないよ」
彼女の名前はヴェチェイ・カタリン。
現在のハンガリー第三共和国に暮らすそれなりに有名な「魔女」だ。ちなみにいくら、バートリ・エリジェーベトやワラキア公ヴラド三世を輩出したからといって、ヴェチェイ・カタリンは決して吸血鬼のたぐいなどではない。
もっとも、彼女自身が自分のことを「魔女」であると喧伝もしなかったから、多くの場合、ヴェチェイ・カタリンと関わりを持った人間による風聞だ。
ハンガリー第三共和国屈指にして、現在を生きる唯一の魔女。
彼女はそう呼ばれている。
大概、オカルト専門誌や、オカルト系番組が彼女にバートリ・エリジェーベトやワラキア公ヴラド三世についての意見を求めに来るだけだが、いい加減、同じ質問ばかりで飽きてきたというのがヴェチェイ・カタリンの感想だった。
「また吸血鬼の話かい、わたしは大概飽きたんだがね」
「それもあるんですが、先日、興味深いことを耳にいたしまして……」
「……――興味深い?」
来訪した若い青年は、ドイツ系の人間たちとは違って馬鹿みたいに身長は高くない。くすんだ金色の髪と、水色の色素の薄い瞳が印象的だ。おそらくまだ三十歳にもなっていないだろう。
「ヴェチェイさんのお父様は、あのイギリスの偉大な魔術師――アレイスター・クロウリーに師事していたとお聞きしました」
そう言われて、ヴェチェイ・カタリンは不機嫌にフンと鼻を鳴らした。
ぱちぱちと暖炉の薪が燃える音を立てる。
ハンガリーは、近隣のルーマニアやブルガリアと同じく貧しい国だ。誰もが我慢に我慢を重ねて生きている。もっと簡単に言えば、ラテン・ヨーロッパ諸国やドイツ周辺国や、北欧諸国のように観光資源があるわけでもない。
見るところがないと言ったほうが正しいかも知れない。
「それが今更なんの意味を持つって言うのか、わたしにはさっぱり理解ができないがね」
ヴェチェイ・カタリンにも生活がある。
だから、彼女を「魔女」としてわらにもすがる思いで頼ってくる人々を相手に占いめいたことはしてやるがそれだけだ。
特別な視線を向けられてはならない。
そうしなければ生きていけない。
魔女というものは、時にひっそりと世間から身を潜めて生きていくべきなのだ。
「偉大な魔術師の教えをお父様が受けていたということは、ヴェチェイさんにも同じように素晴らしい魔術の力が秘められているのではないかと、うちの編集長が言っていまして。取材をしてこいと言われまして……」
へらへらと笑っている青年は、本人としては愛想笑いを浮かべているつもりなのだろうか。
いずれにしろ、科学の発達した現代社会で、魔術だの、占いだのという胡散臭いものに心をとらわれることなど全く愚かなことだと、ヴェチェイ・カタリンは思わざるを得ない。
「わたしの父親にそんなたいそうな力があったら、ハンガリーはドイツや忌々しいスターリンどもに蹂躙されることもなかっただろうし、もっと豊かな国になっていたと思うがね」
「そうは言っても、世界の情勢の前には個人の力など無力なものです」
年老いた女に、真っ向から意見をぶつけてくる若い青年に、やれやれと自分の肩をたたいてから、ヴェチェイ・カタリンは大きなため息をついた。
確かに、彼女の父親はかの有名なイギリスの魔術師――アレイスター・クロウリーに師事していた。
おかげで、現在の彼女は「このざま」なのだが、それに対して文句を言いつのろうにも「問題を引き起こした本人」はすでにヴェチェイ・カタリンを残して他界してしまった。
「わたしに世界を動かす力なんてないよ」
せいぜい占い程度が彼女の仕事だ。
けれども彼女の占いで、何人かの行方不明者が発見されたというのもまた事実だ。
適当な収入を得るためには、適当な期待と適当な失望が大切だ、というのが老婆の信条だった。
時として、真実とは多すぎる偽りの中に隠れているものだ。
「吸血鬼どもの話なら、いくらでも映画にもなっているし、今更わたしが語るべきこともないだろうよ」
それはそうと、と彼女は我に返ったように付け加えた。
「人の名前を知っているのに名乗らないとはいい度胸じゃないか。仮にもハンガリー屈指の魔術師のところにくるんだから、それくらいの礼儀をわきまえるべきではないのかね?」
訥々と説教でもするように言葉を綴った彼女に、青年は苦笑した。
手帳の間から一枚の名刺を取り出して、にこりと笑った。
「失礼しました、フリーのライターをしています。コヴァーチ・エルネーと申します」
「ふん」
コヴァーチ・エルネーと名乗った青年の名刺をひったくるようにして、薄めをあけたままでじろじろと眺めてから、そのまま床に放り捨てた。
それが、魔女と記者の出会いだった。
「どうでもいいが、あんた、女難の相が出ているからお気をつけ」
そう言って、ヴェチェイ・カタリンは今度こそ揺り椅子に揺られながら両のまつげを伏せて口を閉ざした。
「……――また来ます、ヴェチェイさん」