2章 小さな手 2/8
「遅いわよ、典膳」
「すいません、寝坊しました」
「見ればわかるわ、立派な寝癖をこしらえおってからに」
「‥‥うるさい」
軽い朝食を済ませ道場に入ると、すでに伊藤さんが入っていた。‥‥昨日の道場破りも一緒だ。ほら見ろ、やっぱり夢じゃなかった。
ていうかこいつなんで腕組んで仁王立ちに僕を睨んでるんだ。しかも上座じゃないか。何よりも伊藤さんの横に、ぴったりとくっつくように寄り添い立って‥‥。そこは僕の場所だぞ。
「何をぶつぶつ言ってるの典膳。朝っぱらから。‥‥まだ寝ぼけてるの?」
「そうじゃ典膳。しゃきっとせい」
「‥‥‥。伊藤さん、こいつ馴染みすぎじゃないですか?」
「あら、いい事じゃない」
「お師さんの言うとおりじゃ」
「‥‥コイツもうすっかり弟子気取りだ」
「これから同じ道場で切磋琢磨し合うんだから。遠慮しても仕様が無いでしょう。
特に典膳、あなたは同じ家で暮らすんだからなるべくなら仲良くなさい」
「‥‥はあ」
ゆうべ、あの後。‥‥この生意気な元道場破りが伊藤さんへ弟子入りすると決まった後のこと。
元道場破り‥‥善鬼は住むところも決まっていなかったという。ふらりとやってきて、ふらりと住み着く。やっぱりこいつ野生動物じゃないか。
でも。伊藤さんの鶴の一言でこの善鬼は僕のうちに住むことに決まった。
そりゃあ僕のうちも一刀流の道場だ。学舎の部道場とうちの道場、どちらでも修業が出来ればお互いにいいに決まってる。‥‥でもだからって何もうちにまで住まわせることは無いのに。
「善鬼を住ませるのがそんなに嫌だったの?典膳」
「‥‥別に」
「ワシはヌシのことなぞどうでもいいぞ、典膳」
「‥‥‥‥」
「いいじゃない、私の時は気持ちよく部屋を用意してくれたじゃないの」
「そりゃ、だって伊藤さんは別ですよ!‥‥いや、ほら、一刀流の宗家だし。別に変な意味じゃなくて‥‥」
「変なのはヌシじゃ、典膳」
「いちいちうるさいな、お前は」
「そもそもワシはヌシと住むつもりはないぞ。お師さんと一緒に住むんじゃ」
「いや、ここ僕んちだぞ」
「ふふ‥‥。二人が仲良くなって何よりだわ」
「ゼンゼン良くないです。仲も状況も」
「いや、ワシは典膳は嫌いではないぞ」
「え?」
「嫌いではない。だが好きでもない。眼中にない」
「‥‥こいつ」
僕のうちは一刀流の小田原道場だ。それなりに大きい家を建てることが出来たから人を住まわせる余裕は十分にある。
でも、一刀流宗家の伊藤さんに住んでもらうのとは天と地ほどに話が違う。月とすっぽん、美女と野獣‥‥。そうだよこいつ野獣だよ。上手いこと言うじゃないか、僕も。
‥‥とにかく。こんな野獣にいつまでもかかずらってられないんだよ、僕は。
「じゃあ伊藤さん。そろそろ道場生も集まってきたんで今日の稽古始めますけど」
「そうね。‥‥それじゃあ善鬼には基本を。一ツ勝、二ツ勝の構えを中心ににした基礎稽古を教えてあげなさい」
「‥‥え?僕がですか?」
「当たり前じゃない。ここはあなたの道場でしょ?」
「そりゃそうですけど‥‥」
「なんでコイツなんじゃお師さん!」
野獣が僕の言葉を継いで言ってくれた。びっしい!!と僕に指を突きつけて。
「善鬼。あなたに足りないものは典膳が持っているからよ。それを身につければあなたは今の倍は強くなるわ」
「ぬうー‥‥」
たしかに‥‥一刀流の基礎を教えるだけならわざわざ伊藤さんがやるまでもない。僕で十分だ。それなら人に教え慣れている僕にやらせようという考えなんだろう。‥‥あと多分めんどくさいのかもしれない。多分そうなんだと思う。そっちが主な理由かもしれない。きっとそうだ。
「じゃ、後は任せるわよ。
‥‥今日は私、藩邸に呼ばれてるのよ。面倒ったらありゃしないわ」
「そうなんですか。わかりました」
「お師、行ってしまうのか?」
「いい子にしてなさいね、善鬼」
「ぬうう‥‥」
軽く言って、いつものように静かに歩き去って行く伊藤さん。その背を追う善鬼の目線。‥‥飼い主が出かけるのを黙って見守る犬にしか見えない。今にもキューンとか鳴き出しそうだ。
‥‥なんだ、かわいい所もあるんじゃないか、意外と。
「ぬ!何をニヤニヤ見とるか!噛むぞ!」
「噛むな」