2章 小さな手 1/8
道場に備え付けた荒縄巻きの立巻藁を僕は叩いている。ひたすらに、がむしゃらに叩いている。飽きるほどに繰り返される、一日も欠かさずに繰り返す僕の日課。家の道場で、そして学舎の道場で。地道な繰り返し。普段なら無心に一時間でも二時間でも打っているが‥‥今日はずっと一つのことが頭の中でぐるぐると渦巻いている。
善鬼。‥‥ただの善鬼。
――何故だ。なんで伊藤さんはあんな女の子を弟子にして‥‥。
強いかもしれない。確かにバカみたいに強いかもしれない。でも僕だって‥‥、これまでどれ程伊藤さんの背中を追っていたことか。今の一刀流宗家である伊藤さんから直接師事を仰いでいないとはいえ、僕だってれっきとした一刀流の門下生だ。一刀流小田原道場の道場主だ。今まで誰にも、伊藤さんに挑むまで、誰にも負けたこともない。
無駄に力みすぎた蹴りが巻藁を根元から折ってしまう。立巻藁の転がる音が、僕しか居ない道場に響き渡る。
‥‥いや、負けたんだ。昨日、負けてしまったんだ‥‥。
「‥‥ふーー‥‥」
そうだ。僕は‥‥伊藤さん以外の人間に‥‥負けてしまったんだ。そんな僕に何を言う資格があるっていうんだ。
用意していた手ぬぐいで汗をぬぐい、学ランを羽織る。
‥‥後で巻藁を作り直すよう言っておかないと‥‥。
もう一度ため息をつきながら僕は振り返った。
「‥‥うわ!」
「あら、驚かせたかしら」
「‥‥伊藤さん」
いつの間にか僕の後ろに伊藤さんが居た。本当にいつ道場に入ってきたんだろう。
「がんばってるわね、典膳」
「はぁ‥‥」
伊藤さんは僕らとあまり一緒には道場稽古をしない。
「‥‥自分でもがんばってるつもりです」
「どうしたの?突然。あなたらしくないわね」
「‥‥がんばってるつもりですけど‥‥。僕じゃ伊藤さんの弟子になる資格は無いんですよね」
「‥‥バカね」
拗ねたように言った僕に、伊藤さんは困った顔をして笑いかける。
「わからないの?典膳。あなたは特別なのよ、私にとって」
「‥‥特別?」
「そ」
優しく笑いかける。
「だから」
ぎゅっと、突然両手を伸ばして僕を抱きしめた。その細くて長い両手で、僕の頭を抱え込むように自分の胸に包み込んだ。
ごくり、と僕ののどがなる。‥‥きっと彼女に聞こえた。
ふふっと笑い、彼女は言葉を続ける。
「だから、あなただけには指導が出来ないのよ」
「‥‥それは?」
「他の子はダメ。みんな私が教える腕じゃあないもの。あなたは‥‥典膳は、特別」
「特別‥‥」
「そうよ、典膳」
何度も、子供を諭すように何度も同じことを繰り返す伊藤さん。彼女の大きくて暖かい胸。ゆっくりと上下するそのふくらみ。暖かい吐息。優しく包み込む両手‥‥。
僕の、さっきまでささくれだった心が解きほぐされていく。目を閉じるとこのまま眠れそうなぐらいに、安らいでいく。
「‥‥伊藤さん‥‥」
「‥‥‥‥」
彼女の顔は見えないのに、見えていた。伊藤さんの口が動く。でも何も聞こえない‥‥。
「‥‥‥‥」
また、聞こえない伊藤さんの声。――そうか。
僕はゆっくりと目を覚ました。障子からは秋の朝の光が差し込んでいる。
――やはり、夢だった。
ひどく長く、嫌味な程に現実感のある、それなのに全く馬鹿げた夢だった。
まぁそうでなければ、僕が伊藤さんに甘えたこと言えるわけがないよな。情けない。どちらにせよ情けない。
‥‥昨日のあの道場破りこそ夢だといいのに。