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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
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1章 迷い込んだケモノ 3/3

挿絵(By みてみん)

 ふわりと、長い髪がなびいた。

 ただ歩くだけで、その長く艶やかな漆黒の髪はふわりと流れるようになびくが、身にまとった黒染めのセーラー服はほとんど動かない。静かな静かな歩き姿。

 それがあの人――伊藤さんの歩法だ。

「珍しいわね、部道場の方に道場破りなんて」

 優しく微笑みながら、床板の道場を上履きでトン、トンと小さく鳴らしながら僕の方へと歩いてくる。

 情けない。彼女が入ってきた時、僕は助かったと思った。道場破りに勝てないと思っていた。‥‥そうだ、僕は無意識に伊藤さんに来て欲しいと願っていたんだ‥‥。

 仮にも一刀流拳術部の師範が‥‥一般道場生と同じように、伊藤さんが来たことで弛緩した空気を流している一般道場生達と同じように、完全に気迫で負けていたんだ。歯軋りする音が洩れそうだった。

「‥‥どんな時も顔に出しちゃ駄目よ、典膳」

 僕の横に来た伊藤さんが僕だけにささやく。‥‥恥ずかしさに赤面しそうだったが、今度はあわててソレを抑える。

 伊藤一刀斎景子。彼女こそ僕の学ぶ流派一刀流拳術の宗家にして無敗の拳術家だ。

「‥‥ヌシは、その男より強いのか?」

 あまりに堂々とした伊藤さんを睨みながら、小さな道場破りはそう言った。彼女の顔は最初に見た時のように、口をぎゅっとヘの字に結んだものに戻っていた。

「あら。それを言葉で聞きたいの?」

 伊藤さんはいつものように、余裕を持った微笑みを崩すことはない。

 強いか、だと?伊藤さんに対して。伊藤一刀斎に対して。‥‥まさか、本当に知らないのか?知らずにここへやって来たというのか?

 僕は二人を中央に残して下がる。悔しいが‥‥道場破りもこれまでだ。

「それにしても典膳を追い込むとはね‥‥。じゃあ、名乗ってあげましょう。

 私は伊藤一刀斎景子。この私の拳を見ずに一刀流と戦ったなんて思わないことね」

「ワシの名は‥‥」

 何故かそこで言い淀む道場破り。

「ワシは善鬼。‥‥善い鬼と書いて善鬼じゃ。ただの善鬼じゃ」

 道場破りはそんな簡単な名乗りを終えると、そのまま腰を落とす。

 ‥‥あの構えだ。僕に飛び掛った、構えとは呼びづらいただの獣の姿勢。

 ――なるほど。横からじっくり観察するとよくわかる。道場破りはただ身を低くしただけじゃない。前傾姿勢にしっかりと曲げた膝はきっちりと内側に向き、両膝がくっつかんばかりにねじれを蓄えている。そのねじれは一度解放されれば左にも右にも前方にも大きな瞬発力を持って飛び出す力になる。下がることも横にかわすことも全く考慮されていない、あくまで飛び込み攻めるためだけの姿勢だ。

 それを見た伊藤さんのほほが常よりも少し‥‥微笑んだように見えた。‥‥驚かないのか。

 僕に、そして部員達にも一様に緊張が走る。‥‥もちろん、伊藤さんの勝利を疑う者なんて誰一人いないだろう。でも、それでも‥‥この道場破りは何を仕出かすのか‥‥。

 道場破りの動きを受け、伊藤さんも構えた。

 ――構えた、けど、これも道場破り同様に構えと言うべきか‥‥。

 右足をほんの半歩ほど下げ、体を開いて立っている。

 それだけ。ただ、それだけだ。肩の力を抜き手はだらりと下げ‥‥ただ立っている。まさに自然体そのものだ。こんなの、僕が習った一刀流には存在しない。でもこれが‥‥伊藤さんの構えだ。一刀流拳術宗家伊藤一刀斎景子の、彼女の構えだ。

 道場破りが、にいいいっと笑った。いや、獣が歯を剥き出しにするアレだ。

「いくぞ」

 感情の見えない声。

「どうぞ」

 勝負中とは思えない緩やかな声。

 心臓を動かすのも忘れるような、緊張感。

 先に飛び出したのはやはり道場破りだった。大きな蹴り音を響かせ、飛び出したという言葉以外が見つからない程に、飛び出す。速い。さっきのように直接対峙していない、横から見ていてもなお速すぎる。

 ‥‥が。

 ドカンと、大きな音が響いた。

「?!?!ッ」

 それは床につっぷす道場破りだった。

 床を揺さ振る振動と、窓を震わせる大音響とで小さく跳ねながら床に叩きつけられ、そしてつっぷしている道場破りの出した音だった。

「くあッ!!」

 手を支点に、ぐるりと全身を跳ねまわし飛び起きる道場破り。今、まさに今まで居た場所に伊藤さんの踵が突き刺さる。伊藤さんの下段蹴りによる追い討ちが、まさしく皮一枚でかわされた。

 おそらくこの場にいる誰もが、理解できていなかっただろう。気合いを一閃させるように飛び込んだ道場破りがなぜ床に這いつくばっていたのか。とくに道場破り本人こそ何が起こったのか全く解らなかったのだろう。これまでと表情が違っている。絵に描いたような目を白黒とさせている顔であり、手本のような面食らった顔になっていた。

 ‥‥それでもあの踵蹴りをかわせたんだから‥‥本当に油断できないやつだ。信じられない。

 今の攻防を、僕だけはかろうじて理解できてはいた。正面から突きに行った道場破りを流したのは斬返しという技だ。技なんだが‥‥あんなもの誰にも出来るわけがない。

 見えていなかった部員達がどよめく。道場破りは始まりと同じ間合いを空けている。伊藤さんもやはり始まった時のように、脱力して立っている。その状況だけ見れば何事も無かったかのように、二人は対峙している。

 ‥‥いつまでも驚いていたって仕方が無い。そう考えたのかはわからないが、道場破りはもう一度飛び込む。――いや、飛び込んでいた。さっきよりも速くなっていないか?どれ程のバネをしているんだこいつは‥‥。

 でも、「だが」、だ。

「ぬ‥‥っ?!」

 今度は上だった。道場破りが空中に飛ばされている。

 僕にはかわすことすら出来なかったあの蹴りが、空中二メートル程のところをぐるんと後ろに回るように跳ね飛ばされていた。伊藤さんは半歩踏み出して左手を少し動かしただけだったのに。

 本当ならそのまま床に叩きつけられているはずだ。受身すら取れないだろう。それなのに、なんてやつだ。着地直前の、絶対にかわせない機を狙った伊藤さんの廻し蹴りを防いでいやがる。

 伊藤さんの細いが長い足は体重を乗せると恐ろしい速度と破壊力を兼ねた黒い鞭に、あるいは斧になる。それを空中で、両腕で防ぐ。防いだとはいえ道場破りは吹き飛ばされた。囲んで正座していた道場生を超えて壁に叩きつけられていた。が、あの状況でその蹴りを防いだということが本当にありえない。これまでに僕の道場に現れ、運よく伊藤さんと手合わせできた全ての挑戦者の中で‥‥今の二度の攻撃を防げた者はいなかっただろう。

「何よ、典膳。この子すごいじゃない」

「はい、すごいです」

 伊藤さんも驚いている。離れて立って見ている僕に声をかける。

「‥‥誰にも師事を受けずにこれなんだから‥‥天性のものでしょうね」

「やっぱり我流ですか?」

「ええ、間違いないわ」

 壁際の道場生を掻き分けるように、道場破りが前に出る。

 きっと、さっきの僕と同じ気分を味わっていることだろう。その攻撃をなんとか防いだというだけで相手に誉めてもらえる屈辱を。いや、しかし本当にすごい。こんなヤツが居たとは。

 歯を剥き出しにしている。さっきの牙を剥くのとは違う、が、獣の表情という意味では同じだ。そう、善鬼と名乗った道場破りは獣そのものに歯を剥き、ゆっくりと伊藤さんの周りを回り始める。ゆっくり、ゆっくりと、隙を伺う。伊藤さんの持つ火を恐れる獣さながらだ。

 とはいえ道場破りは我流。攻めなければ勝ち目は無い。――一刀流には受け太刀も多い。自分から攻めることは少ない。ヤツのことだ、それももう理解しているだろう。だからこそ攻めなければ始まらないということだ。

 しかしなおじりじりとしか近づけない道場破り。そりゃあそうだ、飛び掛るような隙など、あの人に――伊藤さんにあるはずもない。仮にあるように見えたならば、それは確実に罠だ。

 電光石火の足を奪われた道場破りはそれでも伊藤さんの前へとにじりよる。伊藤さんは変わらず穏やかに微笑んで前を向いたままだった。うとうとと居眠りでもしそうな程に穏やかに見えた。

「‥‥‥‥」

 ふいっと、伊藤さんは目を閉じた。‥‥本当に、目を閉じた。

 いくらなんでも‥‥!

 僕の焦りをよそに、伊藤さんはその目を開こうとしない。構え無き構え。閉じられた両目。穏やかな微笑み。‥‥もう、仕合中の拳士には全く見えやしない‥‥。

「‥‥‥‥」

 それでも道場破りは無闇に飛び掛らない。が、また猫のように音を立てずにじりじりと位置を変えていく。‥‥伊藤さん‥‥。

 目を閉じ、ただ立っているだけの伊藤さんの周りを、時間をかけてゆっくり、ゆっくりと道場破りが動き。――半周ほどした時に‥‥

 ト・トン!と、聞こえない跳躍音を立て、道場破りは移動した先とは反対方向から伊藤さんへと飛び掛った。

 それと全くの同時に、伊藤さんの影が動く。善鬼と名乗った道場破りの方へと、踊るようにすいっと動く。

 道場が、二度揺れた。

 ‥‥四股を踏むように、伊藤さんは腰をかがめ踏み込んでいた。一度目の振動はその踏み込み。道場破りが再び、壁に叩き付けられた。二度目の振動は、その衝撃。

 ――道場中がどよめいた。それはそうだ、僕だってこんなものを見るのは初めてだ。‥‥全身が総毛立つ。

 伊藤さんが妙な踏み込みから背中で体当たりをすると、道場破りは吹っ飛んでいたんだ。‥‥こんな技は見たことも聞いたこともない。

「伊藤さん‥‥!」

「以前一度、清国の拳士と勝負したことがあったのよ。なるべくその技を引き出させて見てみたんだけどね。今のはその一つ。実戦で使うのは初めてだけど‥‥いいわねコレ」

 そう言って伊藤さんはけらけらと笑う。

 つくづく恐ろしい人だが‥‥。

 違う。そうじゃない。驚くべきところはそこじゃない。伊藤さんは確かに目を閉じていた。にもかかわらず、道場破りの動きを、ヤツの飛び掛る機を、その全てを読み取ってその清国拳術を合わせていた。

「‥‥伊藤さん‥‥。

 今のが‥‥夢想拳ですね?」

「‥‥‥。典膳。よく覚えていたわね」

 ‥‥伊藤さんは、にっこりと笑った。試験でよい点を取った弟を誉める姉の顔だ‥‥。

 一度、伊藤さんに聞いたことがある。一刀流の奥義にして使うのはただ一人。その技を生み出した伊藤一刀斎景子だけだという技、夢想拳。自分がどんな状態だろうが、相手が何をしてこようが‥‥身に危険が迫れば体が勝手に反応する。眠ければあくびが出る。眩しければ目は閉じる。襲われれば無念無想に拳が出る。ただそれだけだという‥‥。

 てっきり僕は冗談だとばかり思っていた。‥‥たしかに、これは奥義とはいえ出し惜しみせず使っても問題ないんだろう。だってこんなもの、誰が真似出来るというんだ。盗めるわけがない。この人は、どこまで達しているんだ‥‥。思わず全身を襲う寒気に、身を震わせる。

 ――動けない道場破りへと、伊藤さんがツカツカと歩み寄っていく。

 うつぶせに倒れたままの道場破りの背中を容赦なく踏みつけた。

「ぐぅ‥‥!」

 哀れな声が道場破りの口から洩れた。

「さて、と。一刀流道場に道場破りに来たんだし。覚悟はできてるわよね?

 典膳、この子どうしようかしら」

「‥‥殺せ」

 僕が答える前に、本人はそう言った。

「あら、いい覚悟。命乞いはいいのね?」

「‥‥負けては‥‥もう‥‥」

「ふーーん‥‥。そんなに強くなりたいの?あなたは」

「ワシは善鬼じゃ。善い鬼と書いて善鬼じゃ‥‥。強くなければ、意味などあるまい‥‥」

 背骨を踏みつけられたまま、道場破りはうめくように答えた。

「あっはは!言い切っちゃうんだ、あなたは。それを。

 あははは‥‥」

「何がおかしい」

「じゃあ余程の意味があるというのかしら、あなたを倒した私の強さには」

「‥‥‥‥」

「気に入ったわ、あなた」

 伊藤さんが道場破りからその長い足をどける。腰をかがめて道場破りのマフラーを掴み、ぐいっと引き起こす。

 ――と思うと、伊藤さんはとんでもないことを言った。

「その私があなたに意味を与えます。――あなた、私の弟子になりなさい」

「‥‥弟子?」

 突然の提案に道場破りは面食らっている。が、道場に居た全員‥‥僕の部員たちはもっと驚いていた。――でも一番驚いているのは、きっと僕だ。

「――伊藤さん!」

 反対しようと口を開いたが、反対意見以上のことを言ってしまいそうで、僕はなんとか口をつぐんだ。

「弟子‥‥じゃと?」

「そう、お弟子さん」

 ざわざわと道場がどよめく。それはそうだ。一刀流の分家であるこの部道場でも伊藤さんは誰ひとり指導していなかった。一刀流宗家の伊藤さんは誰ひとり弟子を取ったことがなかった。――支部道場主であるこの僕でさえ、だ。それがこんな――いくら強いからって‥‥。

「強いだけですよ、そいつは!駄目ですよ、そんなのは!伊藤さんが教えるような――」

「なる!!」

「うん」

 ‥‥僕の言葉は二人には全く聞こえていないように、あっさりと話が決まった。

 仕合中とはうってかわって目をきらきらと輝かせて伊藤さんを見上げる道場破り。

 ‥‥その顔は僕にとって今日一番の痛打だった。


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