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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
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8章 告白 (2/2)

 善鬼ちゃんも飛び出していた。

 飛び込みの勢いと全体重を乗せた右の大きな廻し蹴り、龍尾返が放たれる。二人の立っていた中央で、丸太をへし折る二人の龍尾返がぶつかり合った。

 腰を屈め飛び出す鬼夜叉。身を乗り出しぶつかり行く鬼の子。二人の頭がゴツンとぶつかり、視線で殺し合い、歯軋りがここまで響き渡る。

 ――突く。蹴る。突く。受ける。突く。流す‥‥。

 ドン、ドン、ドンと、二人の拳がひたすらに交差する。

 まるで、鏡写しに。まるで、約束組手のように。

 鬼の子と、鬼夜叉。二匹の鬼は目線を一瞬たりとも外さずにひたすらに打ち合っていた。目線を逸らせば相手に喰われる。‥‥いや、それは僕の考え方だ。――相手が目線を逸らせば喰らってやる。――うれしそうに、二匹の鬼はその牙を、爪を、角をぶつけあっていた。でもそんな鬼同士の拳舞は、白塔の発し続ける光よりも美しく輝いて見えて‥‥。

 それは激しい激しい輪舞のように。

 永遠に終わらない、二人の輪舞のように。

 だが、その拮抗も崩れ始めた。――鬼の子の方へと崩れ始める。あの小柄な体からの攻撃なのに、なぜか重くなぜか激しい拳足。伊藤さんと比べるべくもなく短い手足のおかげか、回転も速く手数も多い。気が付けば、二発三発と‥‥伊藤さんの鉄壁の防御を崩し始めている。致命傷は無いものの、防御を崩され姿勢を崩され、無敵の盾にほころびを作られていた。そしてその常人には隙とも呼べないほどの盾の穴を貫いて、善鬼ちゃんの突きが入る。水月の急所に蹴りが入り、伊藤さんがたまらずに下がる。今度はその本当の隙を逃さず、鬼の子がもう一度前蹴りをねじ込む。深く深く突き刺さる善鬼ちゃんのつま先。

 ――伊藤さんの顔が苦痛にゆがむのを、僕は生まれて初めて見た。

 連撃が、善鬼ちゃんの得意とする左右の鈎突きが伊藤さんに襲い掛かる‥‥が、伊藤さんは左右の腕でその全てをはじき、間合いを取った。

 そこで伊藤さんは大きく息を吸い、そして大きく息を吐く。二人とも一切無言のままだった。

 仕切り直しのように、二人が構え直す。伊藤さんは一ツ勝の構えで前へと進む。善鬼ちゃんが二ツ勝の構えで迎え撃つ。

 すいっと、滑るような伊藤さんの歩法。善鬼ちゃんにとってはあと半歩の間合い。そこが伊藤さんの間合いだった。

 間合いに入ると同時に伊藤さんの流れる左の所作が、始まる。

 ――打つと見せて掛ける、掛けるように動いて払い、そして打ち、掴み、払う――

 型稽古のような美しい技。左だけで、善鬼ちゃんを追い込む。次第にパン、パンという音を立てて善鬼ちゃんの顔に打ち込まれる左の掌打。上からの打ち降ろしに善鬼ちゃんがはじめてよろめき、後退する。

 ――実戦において技は技の形にはならない。機に臨んで変じる物が技だからだ。まして相手は野性の勘で卜伝をも打ち破る善鬼ちゃんだ。それなのに、技の形で翻弄している。彼女にとって、伊藤さんにとっての拳術とは呼吸と同じ程にその身に染み込んでいるという証拠だ。

 わずかなよろめきと三歩の後退を見せた善鬼ちゃんだが、効いてはいない。両手を開き構えながら、つんのめるように前へと鬼夜叉へと踏み出す。ガッと鬼の子の咆哮が轟く。――必殺の獣の踏み込みだ。

 鬼の子が空中に舞う。

 ‥‥が、それは舞ったんじゃない。舞わされたんだ。誰にも止められない神速の足捌きを読み切った伊藤さんが、大きく振り上げる仕草で善鬼ちゃんを蹴り上げる。まさしく蹴り上げる。ガチンと善鬼ちゃんは歯を打楽器のようにして顎を跳ね上げられる。下手をすれば舌を噛み切り落としてただろう。

 一瞬の間空中にある小さな体を、振り上げられた伊藤さんの脚が気合いもろとも刈り落とす。両手で握った棍棒を叩き降ろすように、伊藤さんの踵が善鬼ちゃんの胴を地面へと刈り落とす。

 床に叩きつけられ、まれにしか聞かない善鬼ちゃんの悲鳴が上がる。叩きつけられてわずかに跳ね上がった善鬼ちゃんの体を、伊藤さんの右足は容赦なく蹴り上げてさらにもう一度地面へと縫いつけた――。

 金翅鳥は、二度大きく羽ばたいた。

 その翼を広げれば国をも覆い尽くすという伝説の金翅鳥になぞらえたその技こそ金翅鳥王拳。伊藤さんのその脚の長さと柔軟性から、彼女のためにあるような美しい技。小柄な善鬼ちゃんには使えない、一刀流の奥義。

「くはッ!」

 鬼夜叉が笑う。

 胸を蹴り上げられ、顔面から地面へと二度叩きつけられ。善鬼ちゃんの顔の下からどろりと血が広がる‥‥。

 勝負、あったか‥‥。技術の勝負になれば伊藤さんに勝る者なんて‥‥。

 ――今日の伊藤さんに、手加減なんてあるはずが無い。

 それでも善鬼ちゃんは‥‥ゆっくりと重い体を起こす。立ち上がる。

「‥さすが‥‥師さんじゃ‥‥のう‥‥膳‥‥」

 何かを口の中でもごもごと呟く。きっとそれは、いつもの善鬼ちゃんだと思う‥‥。‥‥今彼女は‥‥小春日和の暮らしを思い出しているのかもしれない。強打した意識の中、僕と伊藤さんと、そして善鬼ちゃんの穏やかな暮らしを見ているのかもしれない。

 でも、顔を上げた善鬼ちゃんの目は‥‥

 卜伝を躊躇なく殺したあの日の目だった。

 ――善鬼ちゃんが、飛び出した。立っていた場所にはただ白塔の瓦礫だけが蹴り散らされ、彼女自身は一瞬で伊藤さんの目前にまで迫っている。

 電光だった。伊藤さんはどんな不意打ちにも即座に反撃する電光で不意打ちした相手に先手を打つ。――善鬼ちゃんは目をつぶっていた。ここで、夢想拳だった――

 不意打ちで先手を打った善鬼ちゃんを、その先手に先んじて打撃を加える伊藤さん。さらにその先手の先を行く、善鬼ちゃんの夢想拳――。破綻した攻防が二人に飛び交い、そして伊藤さんの顔に命中した。鬼の子の野性の神速には、伊藤さんの技術ですら追いつき得ない。鬼の子の破壊力には、鬼夜叉を以ってしても耐えられない。

 はじかれた伊藤さんが歯をくいしばり、反撃を放つ。抜き手で善鬼ちゃんの首を貫き――

 ――駄目だ!それじゃ僕と同じ――!

 伊藤さんの抜き手に合わせ、善鬼ちゃんの夢想拳が放たれる。渾身の突き――野獣の反応速度が成しえる、伊藤さんの拳をもかわしての正拳突きが、伊藤さんの胸に――

「見えたッ!!」

 伊藤さんの怒声。

 善鬼ちゃんの絶対反撃夢想拳。――でもそれは伊藤さんの知る、伊藤さんの一度見た未来。

 その突きを左で流し、伊藤さんの長い腕の猿臂が善鬼ちゃんに降り下ろされた。右の猿臂が善鬼ちゃんの顎を狙い定めて振り下ろされ――胴から頭を抜き取るほどの勢いで打ち砕いた‥‥。

「‥‥っ!」

 思わず僕は善鬼ちゃんの名を叫んだ、が‥‥やはり声は出なかった。

 いや、出せなかった。叫べなかった。なぜか。

 ゆっくりと、時間が止まったようにゆっくりと、攻防が続いていたからだ。叫ぼうとした僕のあごがまだ動ききっていなかったからだ。

 鬼夜叉の肘が打ち下ろされ、善鬼ちゃんの顎が砕かれた、はずが。

 最速の肘打ちと同じ速度で鬼の子は身を逆に廻して流し、低く宙に舞い、後ろ廻し蹴りが‥‥伊藤さんの華奢な胴を刈った。

 時間の流れが、戻る。瓦礫の山に、伊藤さんが叩き付けられる。側頭部からだった。絶望的な音が響いた。叫べない僕の叫び声は、もう一人の名前に変わっていた。喉を裂こうとして、僕は叫んでいた。胸を張り裂こうとして、僕は叫んでいた。

 ――瓦礫に‥‥埋もれた伊藤さん‥‥。

 動かない体で、呆然と見守る僕‥‥。

 呼吸することすら忘れ、立ち尽くす善鬼ちゃん‥‥。


 伊藤さんの技を全て叩き込まれた僕。その僕が見せた一刀流の奥義。その奥義を超えて僕を倒した善鬼ちゃん。――その攻防を見ていた伊藤さんは、さらにその上を行った――。

 でも、その攻防を見ていたのは伊藤さんだけではない。――善鬼ちゃんは、次のさらに次の手にまでたどり着いていた――。まさしく、一刀流拳士の戦い方だった。伊藤さんを見て、僕に習っただけの善鬼ちゃんが、その我が身を持って身に付けた彼女なりの一刀流――。

 それが‥‥きっとそれが、善鬼ちゃんなりの告白だったんだろう。師を超えることこそが弟子ができる、師に報いる唯一の道だから。善鬼ちゃんから伊藤さんへの、せいいっぱいの想い。

 伊藤さんが彼女に直接教えたたったひとつのこと。――拳は斬り覚えなさい――

 ひとり修行の果て、何百と倒した拳士の骸のさらにその上で塚原卜伝を喰らい、そうして手に入れた、善鬼ちゃんの強さだから‥‥。


 ――ゆらりと。

 嘘だ‥‥。

 ゆらりと、伊藤さんは立ち上がった‥‥。

 そんなのは嘘だ。立てるはずがない。生きているはずがない。

 瓦礫に叩き付けられた頭から、内臓を潰された口から血を流し、伊藤さんは立ち上がった。

「ぜん、き‥‥」

 ‥‥善鬼ちゃんの目の前に、ゆれ立つ。

 両手を上げようとした。――左手は折れていた。右手だけが、善鬼ちゃんの肩に置かれた。

「お師さん‥‥」

 それまで気丈に立っていた小さな体が、わなわなと震える。瞬間にぽろぽろと涙があふれる。カチカチという歯の音が、ここにも聞こえてきそうだった。

「ぜん、き‥‥」

 彼女は一度、ごふりと咳き込むと同時に大量の血を吐き出す。

 そうしてようやく、言葉を吐き出す。

「‥‥ぜん、き‥‥

 まだ、終わってないわ‥‥」

 伊藤さんの血で真っ赤に染まった善鬼ちゃんに、話し掛ける。

「だって、あなたの心臓は‥‥

 父さんのより‥‥おいしそうなんですもの‥‥」

 弱々しく、哀しそうに、笑うように泣いていた。

 今度は、口いっぱいの血を飲み込み、無理やり笑顔を作って見せた。

 それは、伊藤さんのお願いの言葉。

 眉をひそめ、笑顔のような泣き顔で、泣き顔のような笑顔で‥‥

 彼女は、折れた左手で貫き手を作り‥‥――善鬼ちゃんの胸に向けた。

「‥‥‥‥ッッ!!

 お師さああああああああああ‥‥ッッ!!」


(つづく)

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