8章 告白 (1/2)
神槍白塔の砕ける振動が、耳をつんざく轟音が、見渡す世界全ての空気を震わせ、そして僕の肺を揺さ振る。ほとんど空っぽのそこから、無理やりに空気を搾り出す。
――いや、違う‥‥。これは鬼の拳の仕業だ。衝撃が。文字通り体を貫いた衝撃が――。
膝をついた僕は、全身を地面に吸われるような重さに四つんばいになる。が、自然に、無様に、僕はべしゃりと崩れる。当然だ。右腕の骨もガラス棒のように砕かれていたんだから。
右ほほを地面に押し付ける僕の目の前‥‥、細かい瓦礫の中に小さな靴が一足。
――塔から溢れ出す白い光に、輝くように善鬼ちゃんが僕の前に立っている。
「善‥‥」
必死に、どうにか頭だけを持ち上げ――
僕は善鬼ちゃんを見上げた。
「‥‥典膳‥‥。――苦しかろう。今、止めをやるからな」
僕は、あの日を思い出した。
あの夜の、屋根の上でふたり過ごした夜の善鬼ちゃんの声を。
マフラーに顔をうずめてつぶやいていた、善鬼ちゃんの心を。
胸に大穴の開いた僕を抱きかかえる、善鬼ちゃんの優しい両腕。僕の左手が動いた。もう動かないと思ったのに、驚きだ。僕はその左手で善鬼ちゃんのほほを触る。目じりに溜まったものをそっとぬぐう。
「‥‥い、いよ‥‥。――最後まで、見‥‥る」
「――そうか。
ワシは誇りに思うぞ、小野の名を」
苦笑いが出た。まぁきっと笑おうとしてても苦痛でこんな顔になったろう。
善鬼ちゃんに誉められた。――僕にしては――上出来だ。
塔の頂上外壁にもたれかけさせられる。この塔のこんな部分に触れたのはきっと僕が最初だろうな。座らされたことでいくらかは楽になった。
それだけすると善鬼ちゃんは僕に背を向け――
僕には二度と目もくれない。当然だ。彼女が向かう先は一つしかない。‥‥それでいいんだ、善鬼ちゃん‥‥。
「‥‥だから、無駄だと言うたんじゃ‥‥。お師さん」
「‥‥‥‥」
くすくすと、抑えた笑い声が聞こえた。
「無駄?
そうね、強くなったわね、善鬼。ふふ‥‥」
――伊藤さんの声だ。
うれしそうな笑い声。うれしそうな笑い顔‥‥。伊藤さんの、声だった。
炎に照らし出された伊藤さんの顔を見て僕は理解した。なぜ彼らが――鹿島の人々が伊藤さんを鬼夜叉と呼んだのか、僕は理解できた。
――そう。師よりも先に弟子を戦わせる理由とは――自分の模造品を挑戦者と戦わせることで挑戦者の手の内を引き出すこと。
――一刀流の奥義にして基本思想である、妙拳。それは後の先をとり、相手の心を動かし、機を運び‥‥自分に都合のいい状況を作り上げること。たった一つの状況を得るためにいくつもの策を、無数の手を巡らせる将棋のような搦め手。
さすがは‥‥一刀斎だ。僕の愛した伊藤さんだ‥‥。
砕け落ちる白塔の壁。誰も見たことのないその中からは光があふれ、彼女の真っ黒な形を浮かび上がらせていた。
「お師さん‥‥」
「善鬼。――あなたを喰うことで、私は最後の階段を登れるわ。自斎を倒してもなお手にできなかった、一番欲しかった強さを得られるの。
‥‥誰にも、あなたなんかに一刀流は渡さない。最強を名乗るのは私だけでいいのよ‥‥!」
「なんでじゃ?!ワシは一度もお師さんより強いなんて思うたことはない!お師さんの敵になぞなりとうない!」
「‥‥ダメよ善鬼、名乗りなさい。――私に名乗りなさい、善鬼。
――それが、あなたよ」
「‥‥‥‥ッ!
‥‥なんで、お師さんは‥‥――なんで‥‥なんで、ワシを愛してくれん?!」
「なぜかって聞くの?善鬼。私に。
‥‥私は、あなたみたいに生きたかった‥‥。
カワツグミの話。あなたはわからないと笑った。私にもわからない話。‥‥でも、私は笑えない。それが私‥‥」
伊藤さんは、いつもと違う笑顔を見せる。まるで泣き出す直前のような顔で笑ってみせる。
「‥‥こんな世界、全て叩き潰したい。
何故みんな強くなりたいの?何故誰もそのことに疑問を持たないのかしら。拳術が強くてどうだと言うのかしら。
‥‥何故みんな強くなりたいの?なんでみんな強さが欲しいの?何故私は強くならずにおれないの?何故私を尊敬するの?なんで、なんでみんな私のワガママを聞くの?私、ただ強いだけなのに‥‥!
‥‥力だけの世界なんて、全部ぜんぶ壊してしまいたい‥‥ッ!そのための力!強く、なりたい‥‥!強くならなきゃ‥‥!
‥‥あは、あはははは‥‥!
あははははははは!!
なんて幼稚な矛盾なのかしら。強くならなければ叫ぶことすら許されない。強くなければ強さを否定することも許されない。
本当に‥‥反吐が出るわ。
私は、この世界が、理が憎くてたまらない。でも強くなりたいの。そんな自分が滑稽で仕方が無いの。私より強いやつらが大嫌いなの。殺したくなるのよ。でも、誰かに、愛されたいのよ‥‥。私より強い人に、愛されたい。止めてもらいたい。もうそのままでいいと抱きしめて欲しい。父さんに会いたい‥‥。
――なぜあなたは私より強いの?私を止めるため?それとも私の最後の殻なの?父さんの‥‥次の、殻なの?
――教えてよ、善鬼。私はあなたをどうしたらいいの?殺せば愛せる?愛したら赦される?愛してくれる?
‥‥お願いだから、私を止めて‥‥善鬼」
ぼろぼろと、本当にぼろぼろと涙をあふれさせて伊藤さんが叫んだ。両手の掌を目にあて、少女はダダっ子さながらに頭を振っていた。
「‥‥愛してるのよ、善鬼。
大っきらい‥‥見たくもない、善鬼‥‥。
‥‥‥‥‥‥。
だから」
一度、大きく顔を振る伊藤さん。顔にとりついた大きなモヤを振り払う。少女という迷いを振り払う。
そして次に真っ直ぐに見据えた目は、拳士のものだった。
見据える先には、倒すべき敵がいた。
「だから。
――私は、伊藤一刀斎景子!
私の拳、私の生き方を‥‥。あなたにだけは伝えたいの、善鬼」
「‥‥ワシには‥‥お師が何を言うとるのか、やっぱりわからん‥‥」
「名乗りなさい善鬼ッ!名乗るのよ!」
「‥‥‥‥」
ぐしゅり、と、善鬼ちゃんが顔をしゃくりあげる。
前髪の下に隠れた眉間のしわ。強く引き結んだへの字口。真っ赤に泣きはらし、強く、敵を見据える野生の瞳‥‥。
「‥‥一刀流!小野善鬼ッッ!!
お師にもろうたこの拳!!誰にも負けンッ!!」
「‥‥‥‥」
伊藤さんは一度頷いた。満足そうに笑顔で頷いた。
そしてその顔が、僕が見る伊藤さんの最後の笑顔になった。
「来なさい善鬼!」
満面の笑みを浮かべた鬼夜叉の咆哮に、また一枚剥がれ落ちた巨大な外壁が地面へと吸い寄せられる。
ゴウン、という振動と煙を吹き上げたそれに負けない強さで伊藤さんが地面を蹴った。
(つづく)




