6章 前夜祭 (4/4)
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「‥‥メス犬が。やっぱり乱心しとったんか?」
その声に振り返ると、そこには‥‥吉岡がいた。燃え盛る炎の中を突き抜けてきたんだろう。白い羽織り袴はススに汚れきって過日の面影もない。
「乱心、ね。――そうね、狂いたかったわ。いっそのこと」
「帝はもう安全な場所へ避難あそばした。――後は狂犬を二匹始末するだけや」
問答無用とばかりに吉岡が両手を着物の中に入れる。ゆっくりと、もろ肌を脱いだ。隆々とした筋骨が現れる。棍棒で叩いても棒の方が折れそうなまでの肉体だった。
僕らの後ろで神槍白塔の崩壊が強まる。だが、振り返る余裕はない。
「二匹いっぺんにかかって来いッ!」
怒声が飛ぶ。砕ける白塔のきしみに負けないほどの轟音が僕を揺さぶる。
――ただの大声ではない。一流拳士が腹の底から放つ気迫。それに耐えられるのは――彼を上回る拳士だけだ。‥‥今の僕なら、平気だ。
「伊藤さんが出るまでもない。言っただろう、僕が相手になる!」
「‥‥何?この期に及んで雑魚の相手をさせるちゅうんか?伊藤!」
伊藤さんに怒鳴る吉岡の頭が弾ける――。飛び上がりながらの左右二本突き。
「余所見するな」
「く‥‥ッ、
貴様‥‥」
不意打ちによろめき、吉岡が地に膝を突く。
僕を見上げるその憤怒の顔を見下ろし、僕は名乗りをあげる。
「一刀流!小田原無双神子上典膳ッ!――僕の頭をまたいでこの地で大言壮語は吐かせないッ!」
「‥‥ええやろう‥‥」
口の中をしたたかに切ったらしい吉岡が口中の血を吐き出し、立ち上がる。
「神子上。まだ名乗ってへんかったな」
吉岡が大きく右足を上げる。‥‥ゆっくりと‥‥ゆっくり、回すように上げた足を動かし、ズン!!と半歩、右半身を下げて構えた。踏みおろした足が、地面を揺さ振った。
「――我こそは吉岡直元!京流吉岡八代!吉岡直元ッ!朝敵一刀流、いざ!」
吼える吉岡の、構え‥‥。なんだこれは。
巨大な吉岡が、その顔が僕の顔の高さまで降りている。だがその頭はしっかりと握り締められた両の拳で守られている。こんな構えでは素早く動けまい。防御もできまい。
「‥‥‥‥」
そんな僕の思いを無視し、吉岡が動く。‥‥じわりじわりと寄りはじめる。
こんなに体格差があるにも関わらずまだむこうの間合いにはなっていない。‥‥その構えのせいだ。明らかに間合いが遠い。その上胴体ががら空きだ。隙だらけだ。これならいくらでも攻められる。‥‥攻められるはずなのに‥‥。
どこにも隙が見えなかった。――僕は向かい合えばどんな相手でも手が読める。防御の穴が見える。それこそが僕の特性だと自負している。
だが‥‥彼には、隙がない。何故だ。胴だろうが足だろうが、下手に攻撃すれば確実に大きな反撃が来るのが見えてしまう。
「‥‥‥‥」
じりじりと迫る吉岡に思わず息を呑む。背筋にぞくりと悪寒が走る‥‥。いや、これは武者震いだ。伊藤さんが見ているんだ‥‥!
「セッ!!」
廻し蹴りを上段に放ってみる。腰を乗せた重い蹴りのつもりだったが、折込済みだと言いたげにはじかれる。
――間合いを取らせず、そのまま遠くから、前蹴りを放つ。‥‥受けも払いもせず、吉岡が腹筋で受けきった。意に介さずじりじりとにじりよる吉岡。
‥‥僕の蹴りは、そんなにぬるくは無い‥‥!
踏み込み、左裏拳から右突き、下段蹴り、左上段‥‥と、
「がっ!」
と、思わず声が出る‥‥。連打の最中に吉岡の攻撃が割り込んだ。‥‥たった、一発。
ただの正拳突きが僕の水月へとめり込んだ。たたらを踏み、僕は後退して間合いを取り直す。
「拳術‥‥。簡単な話や。一撃必殺の拳、絶対無敵の耐久力。――単純にして明快!最強にして無比!これこそが京流吉岡二百年の回答や!」
「よし‥‥おかァ!」
なんて怪物だ。善鬼ちゃんが虎ならこいつは熊だ。僕は呼吸の回復も待たず、攻撃を再開する。飛び蹴りから始まって下段、顔面と弾を散らすように連撃を放つ。頭部だけは両手でしっかりと守られ、下段は足で捌かれる。金的も膝で守られる。胴体は分厚い腹筋・胸筋に守られ、当てても丸太を殴っているような感触だった‥‥。
「ゼやあ!!」
野太い気合い一閃。‥‥またしても一撃だった。僕の攻撃の隙を縫うようにして重い突きが胸に当たり、また僕は大きくよろめかされる。
この拳の圧力‥‥、吉岡、言うだけのことはある。‥‥だけど。
「この程度‥‥!善鬼の蹴りに比べればッ!!」
「なんやと‥‥?」
そうだ。僕は今から善鬼ちゃんと戦わなければいけない。あの虎の俊敏さと鬼の拳を持つ少女を相手に勝たなければいけないのに、こんな‥‥こんな、力だけの男に押されてどうする。
「その通りよ、典膳。
過去の英雄たちは全て自分を押し上げるための引き立て役に、踏み台に過ぎないことを知りなさい」
「はいっ!」
僕の心を読んだ伊藤さんが、声をかけてくれた。‥‥そうだ、僕の後ろには伊藤さんがいる。伊藤さんの前で‥‥僕は、もう負けない!
「このワシを相手にお勉強か‥‥!」
吉岡の剛拳がうなる。目の前に迫り、顔を、胴を、上半身を隈なく雨あられと降り注がせる。‥‥が、それらは一つも命中しなかった。自分でも信じられないことだが、ほとんど全てを避けられた。いくつかは避けきれないが、喰らってもびくともしなかった。‥‥この僕の倍も体重のある吉岡の剛拳で、だ。
――そうか、これか。
吉岡の顔に焦りと驚きが浮かぶ。それでも止むことのない拳の雨をかいくぐり、体で受け止め、僕は反撃に出る。ようやく開いた頭部へと掌打を打ち込み、胴の正中線目掛けて突きを撃ち込む。
――これか。
石壁をも砕きそうな吉岡の剛拳を殺せる術。それはこの、本当にたった1センチ単位の見切り。伊藤さんのような華奢な女性がどんな大男にも力負けしなかった理由が解った。
――相手の力点の死角。全力を込められない立ち位置。その絶妙な位置を取る術。
おそらくは――相対している吉岡ですら気づけまい。そこに、相手の撃ち始めを殺すように半歩の踏み込みを混ぜてやれば、ますます相手の攻撃が崩れていく。当たっているのに効かない。当てる前に威力を殺される。――混乱に拍車がかかる。
「吉岡!どうした吉岡、そんなもんか?!」
「くっ‥‥そ!」
‥‥伊藤さんと、善鬼ちゃん。この二人が見ていた風景はこれか。明らかに強い相手を手玉に取るという、一握りの者にだけ許される行為。
「‥‥抜かしおったな!」
そうだ、怒れ。もっと本気を出せ。もっと力を見せろ。僕をもっと強く‥‥僕に力をくれ――!
吉岡の右の鈎突きから左の下段蹴り‥‥を、僕は膝で受け、残った軸足を龍尾返で刈る。‥‥倒れ‥‥ない。吉岡が体を残し、顔を上げた機を狙い‥‥
「セアッ!!」
僕の突きが、吉岡の喉にまさしく刺さる。
「ご‥‥ッ!」
‥‥目を剥く吉岡。ぱくぱくと口を動かし‥‥両手で僕の肩を掴もうと、そのまま、前のめりに倒れた。
――隙の機を狙い、急所さえ攻められれば人は死ぬ。刀も南蛮筒も、吉岡の剛力も必要はない。ただ親指一本で十分なんだ――。それが、見切りを得手とする僕の拳理だ。
その為の、僕の親指だ。この数年、毎日毎日欠かさず僕は親指だけの腕立てをしている。朝晩に数百回ずつ、欠かすことがない。この親指での一本抜き手こそ、地味で単純ながら僕だけの奥義だ。千日繰り返した日、親指のみで一寸の杉板を割ることが出来たことから千文字と呼んでいる。
「典膳、見事よ」
「‥‥ようやく、一つの殻を破れました」
「そのようね」
伊藤さんの言っていた通りだった。技は自得するもの、斬って覚えるもの――。吉岡のおかげだ。この猛者がいなければ、僕は‥‥。伊藤さんの動きを見、習い、そして倣い覚えただけでは永遠にたどり着けない。それが強さというものなのか‥‥。
轟々と燃え盛る仮御所。無数の拳士の遺体。砕け落ち、煙に霞み中腹も見えない神槍白塔。この世の終わりのような場所で、僕は晴れ晴れとした気分を味わっていた。
「‥‥‥‥。今わかりましたよ。伊藤さんはが望んだことが。――朝廷の世を転覆させるなんて小さいことじゃなかったんですね」
「‥‥‥‥」
「伊藤さんは、この世界を壊したかったんだ」
「‥‥半分ぐらいは正解よ、典膳」
――いつか、二階の長椅子で伊藤さんに言われた。自分が倒せない者は観察をしろと。倒せる目を探せと。その伊藤さんがいつも窓から見ていた風景。ふらりとどこかへ行く伊藤さん。‥‥この町へやってきた、二年間の生活。
伊藤さんはこの白塔こそを壊したかったんだ。ずっとずっと、そう考えていたんだ。
倒れた吉岡の上に、いよいよ崩壊する神槍白塔の外壁が舞い落ちる。
伊藤さんの拳撃をきっかけに入った長大な裂け目。しかし塔そのものから見ると、ほんの小さなヒビのはずだった。だが見上げるとそのヒビは天から降り落ちた雷がまた天へと還るように、すさまじい勢いで上へ上へと広がっていき、今となっては恐らく頂上までも届いているだろう。
そのヒビから、自重に耐えきれないように塔は崩れ続け‥‥。
いや、それは違うな。崩れるのではなく、卵が孵ろうとしているんだ。人ほどもあるちっぽけな塔のカケラはまるで卵の殻のようだった。柔らかな丸みのある、薄い薄い真っ白な卵の殻。この巨大な卵から、何が孵ろうとしているんだろう――。
(つづく)