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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
33/38

6章 前夜祭 (3/4)

「‥‥何?」

 誰もが我が耳を疑う。‥‥一体何を‥‥。

「帝も下らない。何故なら私より弱いから」

「‥‥一刀斎!狂うたか!!」

 但馬守が立ち上がり、太い声で怒鳴る。‥‥これは彼の言葉だ。その怒声にはじかれ、陣幕の影から襷がけをした警護役人らがザザっと現れる。さすがに素早い。

 伊藤さんは白塔を見上げている。それは満開の桜の木を慈しむ目。真っ白な塔の表面を愛しげに指を這わせている。

「‥‥この塔だって、下らない。何故なら私に倒される運命だから」

「一刀斎ッ!」

「フッ!!」

 ドン、と地面が揺れた。‥‥いや、本当に‥‥揺れた。伊藤さんの踏み込みだった。いつかの清国の拳術。背中での体当たりを‥‥白塔へと放っていた。

 その高さの割には細い、まさに槍のような――しかし、その直径は学舎ほどもある白塔に、打撃を放った。その衝撃に役人達がたじろぐ。

「やっぱりいいわね、この技は。千差万変の実戦じゃあどうかと思うけど破壊力だけは他に無いわ」

 伊藤さん‥‥一体、何を‥‥。

「乱心じゃ、一刀斎の乱心じゃ!取り押さえよ!」

 叫ぶ但馬守に、押し寄せる警護役人ら。

 僕は‥‥止まりそうな心臓と、冷え切った脳を抱えてここがどこか解からなくなりそうな程に、ぞっとしていた。‥‥でも、まさかとは思っていなかった。どこか心の中で‥‥こうなる気がしていたことに、気がついた。

 伊藤さんが右手を首筋に回し、その長髪を高々と優雅になびかせた。舞い上がる髪の毛をくるりと振り向け、僕を見た。

「ほら典膳、私、魂がふるえてる」

 炎に照らされて恍惚と囁く伊藤さんの声はしかしはっきりと僕の耳に届いた。魅せられるとはこのことだろろう。僕はぼんやりと伊藤さんを眺めていた。そんな間にも役人達は僕ら二人へと迫っていた。

「典膳ッ!!」

「はい!」

 空を切り裂く伊藤さんの一声で、僕の体は勝手に動いていた。伊藤さんを、僕を取り押さえようと飛び掛ってきた役人五人を五発の突きで倒す。

 何かの演出かと思っていたのだろう大名らも、伊藤さんが本気だと気付き、どよめく。

「でも、伊藤さん‥‥」

「典膳、言ったでしょう。どんな時にも顔に出しちゃあダメだって」

「はい」

「でも、よく動けたわ。合格よ」

「‥‥はい!」

 周りに誰も居ないような。僕ら二人だけのような、伊藤さんの笑顔。

 あまりにも堂々としたその姿に、警護役人らも躊躇を隠せない。

「ええい、何をしておるか!ひっ捕らえろッ!!」

「囲め、逃がすな!」

 ばたばたと、場が動き出す。

 伊藤さんを背に、僕は警護役人らに向き直る。棒を手に手に、遠巻きに囲んでいる。

「典膳、あなたの龍尾返はいいわよ。威力なら私に勝るとも劣らない」

 ‥‥どう突破して見せればいいのかと考えている僕の背に、伊藤さんはいつもの口調で話し掛ける。何を‥‥と、ちらっと振り返ってみると突然、伊藤さんは自分の右親指をガリっと噛む。

「壁の、ここ」

 ‥‥自分の血で印をつけた。

「ここに打ち込みなさい」

「え?!でもそれどころじゃ‥‥」

「でもは嫌いよ、典膳」

 僕らの会話までは聞き取れないらしい役人らは何事かとぼそぼそ相談し、機を伺っている。

 ‥‥ああもう、好きにしてくれ。

 言われたままに、腰を入れ僕は全力で打ち込んだ。伊藤さんの清国拳術でもびくともしない壁に目掛けて、渾身の蹴りを放った。――蹴り込んだ右足のつま先から脳天まで走った痺れに、全身が震える。‥‥なんだ、これは。パキンという乾いた音が響き渡った‥‥ように感じたけど、周りの役人を見るに、それは僕にだけ聞こえた音らしい。

「よし。次は‥‥ここ」

 再び、伊藤さんの血痕にめがけ大きく足をぶつける‥‥。やはり全身が痺れる。乾いた音が耳をつんざく。――目の前が真っ白になった気がした。

「ええい、何をしておるかっ!早う捕らえい!」

「は、ははあ!」

 但馬守の命に、十か二十かの役人がどっと押し寄せる。呆けている場合じゃない‥‥!

「伊藤さん、伊藤さんッ!」

「そして、ここで‥‥」

 しかし伊藤さんは自分の目の前に、一点の印をつけて腰を屈め‥‥

「おしまいッッ!!」

 滑り込むように、猿臂を打ち込んだ。轟音が炸裂する。その音だけで役人らがのけぞる。

 ‥‥しかし何も起こらない。塔にはヒビすら入らない。‥‥伊藤さんの肘は大丈夫だろうか。

「ふふ‥‥。ふふふ‥‥」

 ‥‥大丈夫そうだ。伊藤さんは笑っている。

 地面を揺さ振る踏み込みに動きを止めていた役人らだったが‥‥。

「くくく、何をしておるか一刀斎!本当に乱心したようじゃなあ!」

 但馬守につられ、大名らが、役人らが笑いだす。

 だが伊藤さんの耳には全く届いていない。打ち終わった伊藤さんはまた桜の大樹に寄り添うように白塔の表面をなでる。

「――これを作ったのが本当に神だったのなら。

 誰にも壊させないつもりでこれを作ったというのなら――。

 舐めたものね神は。

 ――この私を」

 伊藤さんの口が‥‥耳まで裂けた。――夜叉のような‥‥笑い顔だった。

 ‥‥塔が、天地が裂けるような音を、悲鳴をあげた。巨大な亀裂が一気に走った。風が‥‥中から溢れた風が轟々と吹き、僕はかろうじて倒れるのを拒否する。わずかな隙間から洩れる光が僕の目を突き刺す。

 ‥‥陣幕が、吹き飛んだ。帝の仮御所が吹き飛ばされる。大名らの御座敷があおられる。暖を取るためのかがり火が倒される。

「い、いい‥‥一刀斎っ!!」

「‥‥塔がっ!!神槍白塔が!!」

 ‥‥まさか、本当に神槍白塔が‥‥まさか、崩れるのか‥‥?祖先らがさまざまな手段で試しても傷一つ入らなかった神からの挑戦を、たったの四発で‥‥。

 大名達が、高級役人らが逃げ惑う声。ごうごうと吹きすさぶ風。あふれ出る光。倒れたかがり火が火を撒き散らす。‥‥もう、混乱は収拾できない。

 伊藤さん、朝廷の転覆を‥‥?でも、こんなやり方で‥‥。

「知ってる?典膳。こんな時イングランドではショウタイム、と言うそうよ」

 伊藤さんが両手を広げてうれしそうに言う。ほほを上気させている。瞳が潤んでいる。高揚しきっている。塔からの強風に舞い上げられた黒髪が伊藤さんを包むように広がっていた。

「‥‥しょうたいむ、ですか。‥‥解からないですが。なんだかいいですね、それ」

「うふふふ‥‥。狂気と拳の祭典の始まりよ」

 ‥‥もう、いいさ。

「出会え出会え!乱心じゃ!二人を生かしておくなっ!」

 但馬守が叫ぶ。ちらと見ると、脇に貴族らしい男を抱えて逃げ出している。‥‥ああ、あれが帝か‥‥。

 ――よし、僕も行ける所まで行ってやる。僕こそ一刀斎の一番弟子だ。

「ショウタイム!」

 伊藤さんの声が場に響き渡る。それが合図となった。

 僕の正面やや右にいた男がわっと叫び、飛び掛ってきた。

 一人目をかわしながら左からの男に振り向きざまの右正拳突きを入れ、一撃で倒す。返す裏拳で一人目のアゴを砕き出足を払う。その隣に居た男のえりを掴み、転ばせた男の上に引き落として左拳を打ち下ろし人中を砕く。かがんだ僕の頭を狙って右側からせまった足を避けながら取り、その四人目の軸足を払って後頭部から石畳へと落とす。

 顔を上げ、周りを見回した。僕と目の合った五人目、六人目は一瞬の躊躇を見せる。が、腐っても吉岡一門の拳士であり朝廷警護役人だった。即座に連携を取りやすい布陣で僕へと向かってくる。

 左の男に三日月蹴り入れる。男は鳩尾にめり込んだつま先に反吐を撒き散らす。右からの男を足刀での膝、顎と二段蹴りで倒す。前から迫っていた二人に突きを二発と三発ずつ入れ倒す。かわして顎めがけて右の猿臂を打ち抜く。掌打で怯んだ男の喉に抜き手を入れる。連撃の後に弧拳で吹きとばす。腹を蹴る。股間を打つ。脾臓を突く。倒す。砕く。砕く。潰す‥‥‥‥。

 次第に、血が上りきった僕の頭は静かに冷たくなっていく。

 作業のように、淡々と数をこなしていく。

 七人目から先は数えていなかったことに気付いた。

 急所を蹴り潰す感触が気持ち悪かった。

 早めに上着を脱いでおいてよかった。

 足元に折り重なった体が邪魔で動きづらい。

「伊藤さん、移動しましょう!」

「そうね。あなたの前の方に行きなさい」

「はい!」

 それだけを言い交わす。

 振り返りはしない。確認しない。そんな必要が、あるはずもない。

 次々と襲い掛かる警護役人を相手どりながら、次の空間へと場を移す。

 そこでも僕は、僕らは役人を倒し、輪を作りはじめる。

 こんなに血を見て、命を奪っているのに僕の頭はますます冷静になっていく。動きが流れる。技があふれる。心が‥‥躍る。

 戦いながら、僕は解った気がする。善鬼ちゃんを旅立たせた日の、伊藤さんの言葉。‥‥そうだ、道場稽古だけでは全く意味がない。一人でも多くの拳士を倒し、命を奪わなければ彼女たちのような心胆は持ち得ない。何も恐れず迷わずの真の踏み込みは得られない。

「ふふ‥‥久しぶりだわ。最後に踊ったのは小田原に来る前だものね」

「いつ、どこでですか?」

「そうね‥‥。廻国修行で立ち寄った小さな小さな宿場町の盗賊団よ。2、30人だったわ」

 伊藤さんの声はいつもと大差なかった。

 機嫌のいい日の、やや上ずった声だった。

 僕は、さすがに息が上がってきていた。‥‥それに気付いてしまった。心臓が高鳴りつづけている。ドンドンと激しく胸を叩いている。

「言ったでしょう、典膳。あなたは特別なのよ。あなたは私の弟子なのよ」

「‥‥はいっ!」

「私の背中を預けられるのは――あなたしかいないのよ」

「‥‥はいっ!」

 一も二も無かった。伊藤さんがそう言ってくれる。僕を特別だと言ってくれる。それが全てだ。

 三つ目の輪を作っている途中。‥‥警護役人達の濁流が収まった。見ると、最初は十重二十重に取り囲んでいた役人らも数えられるほどに‥‥十人程になっていた。

 僕は完全に肩で息をしている。今のうちに、と呼吸を整えようとするが、息を吸うことすら苦しい。

 そっと振り返ると、伊藤さんの側にいる三人の役人達が震えていた。手に手に、刀を握っている。左手に鞘を握り、右手を柄に掛け、がくがくと振るえている。

「抜きなさい」

 伊藤さんの声が、よく通る美しい声が炎の燃え盛るこの場に響いた。

「‥‥っ、ほ、本当に抜くぞっ?!抜くぞ!!」

「抜きなさい、早く。抜いて帝を守りなさい」

「くそ、くそ‥‥っ!抜いてやる!斬ってや」

 中途半端に言葉が終わる。

「遅すぎるわ。‥‥呆れる程に時間切れね」

 あごが折れていた。

 隣に居た警護役人の悲鳴が耳に突き刺さる。男でもいざとなればこんな高い声が出せるんだな。

 恐怖と、なけなしの気合いとで。残った全員が一斉に脇差を抜き放つ。十本の刀がぎらりと光った。‥‥そうか、これが、刀か。

「何故素手で帝を守っていた!何故最初から剣を持たない!槍を持たない!南蛮筒を持たない!

 何故に貴様らは!素手での強さを絶対の価値と見るかっ!」

 ここに来て初めて、伊藤さんが声を上げた。下らない怒声ではない。高く、そして透き通る、どんなに離れていてもどこに居ても届きそうな凛とした声だった。

 ――蹴散らす。

 この言葉は今の伊藤さんを表現するために生まれた言葉なんだろう。伊藤さんは残った兵たちを蹴散らし、飛び越え、踏みつけ、弾き飛ばしていく。

「私は伊藤一刀斎景子ッ!!

 この私に挑む者は神でも鬼でも容赦はしないッ!斬ってみせろッ!!私を斬ってみせろッ!!」

 何人倒したかもう全くわからない。どれだけの拳を放ったか、わかるはずもない。何十人と倒し一時の興奮状態から解けた僕を一度に疲労が襲う。

 酸素が不足し、夢うつつのような、浮ついた気分で、僕は伊藤さんの姿を目で追った。

 早くも七人が倒されているのを見、残った三人を見る。その刀は哀れなほどに怯え震え、その目は無様なほどに狂気に染まっている。

 伊藤さんは、高らかに笑っている。これ程の状況を作り、戦い、倒し‥‥それでもなお、笑っている。伊藤さんと言えど恐らくは初めて戦うであろう刀使い十人を相手に、ほんの数秒程度で倒しきって笑っている。息の止まっていない無数の拳士たちがうめく白砂の上で。赤く黒く染まった白砂の上で。

 肩で息をあげ、僕は僕の死神の拳を見守る。僕の女神の瞳を見守る。無尽蔵の体力、果てることのない気力、絶対の技術。以前伊藤さんは善鬼ちゃんのことを「戦う為に生まれてきた一人だ」と評した。この人達は本当に――戦うために生まれてきたのかもしれないな。

 百もの拳士が倒れる試合場で、僕らだけが立つこの場で、伊藤さんが僕を見る。

「‥‥典膳。あなたの見せ場ね」

 伊藤さんが見ていたのは‥‥僕じゃない、僕の後ろだった。


(つづく)

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