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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
31/38

6章 前夜祭 (1/4)

挿絵(By みてみん)

   1

「‥‥まさか‥‥。善鬼が倒したっていうの?あの塚原を?」

「‥‥はい」

 伊藤さんが振り返っていた。

 いつもの長椅子に寝そべっていた伊藤さんは、いつものように僕の報告を聞き、そして、いつものようには外を見たままではなかった。

「そう‥‥。善鬼が‥‥‥‥」

 見開いていた目を静かに閉じ、彼女らしい静かでゆったりとした、流れる小川のような所作で僕から顔をそらした。

「鹿島七流も地に落ちたものね‥‥」

 伊藤さんの眉間に添えられた、白くて細長い指。ゆっくりと、ろうそくの炎も揺れないような静かさで吐き出されるため息。驚き終えた、状況を把握するために思考を巡らせているのが見て取れる。

 伊藤さんはそう言うが、実際にこの目で見ていた僕としては‥‥さすがは鹿島七流と感じていた。あんな拳士がこの世に居たのかと思わされた。かつて伊藤さんをして引き分けたという、塚原卜伝。鹿島の塚原卜伝、想像を絶する強さだと、そう感じていた。

 これだけ普段から側に仕えておきながら僕はいまだ伊藤さんの本気を見たことがない。本気で戦っているように見えた仕合は一度もない。善鬼ちゃんとの勝負ですらそうだった。余裕がありすぎた。その伊藤さんがだ。唯一引き分けた相手。それが天下無双の塚原卜伝。その名に恥じない強さを、阿修羅の気迫と技を、僕は目にした。きっと彼には人なら誰も勝てなかっただろう――。

「塚原卜伝。彼は私以上の拳士だったのよ。‥‥でも彼は、鹿島神道流を背負ってしまった。彼は自己の流派で立つべき拳士だったわ。荷物を背負うことで強くなる者、そうすべきでない者。明らかに彼は後者だった。‥‥なのに、鹿島を、神道流を名乗っていた。一度限界を越えておきながら、自分から最後の殻に閉じこもってしまった。‥‥だから阿修羅神の身でありながら子鬼に噛み砕かれた」

「‥‥‥‥」

「ふ、ふ‥‥」

 ‥‥ふいに、笑った。

「典膳」

「‥‥はい」

「善鬼を倒しなさい」

「‥‥‥‥は?!」

「善鬼と勝負し、勝ちなさい。御前仕合。あれは最高の舞台だわ」

 伊藤さんが楽しそうに笑う。

 僕は‥‥情けない話、僕は‥‥。

「‥‥僕では善鬼ちゃんは‥‥超えられません‥‥」

「典膳‥‥」

「‥‥僕のことは‥‥伊藤さんの買いかぶりでは?」

 塚原との激戦が頭をよぎる。事のついでに斎藤を倒した冷徹さを思い出す。

 ‥‥あんな鬼を相手に、どうしろって言うんだ。

「‥‥なんて情けない顔」

 伊藤さんは、怒っていた。呆れられるかと思ったが、怒っていた。


 ――かつて、僕は負けなかった。ずっとずっと、負けなかった。本当にこれでいいのか。

 ――そこに現れたのが、伊藤さんだった。

 僕の望んでいたもの――絶対の敗北をくれた。無敵の強さを見せてくれた。そして進むべき道を、教えてくれた。負ける事で逆に僕は一刀流の強さを信じられた。このままでいいんだ。一刀流を学び続けてていいんだ――。

 一刀流宗家伊藤一刀斎景子。黒く美しい少女の形をした最強の拳士。死神というものが居るのなら、こんな姿をしていればいいと思った。そうすれば僕は穏やかに最期ををまっとうできる。

 そう。彼女は、彼女こそ僕の死神だ。僕が穏やかな死を迎えられるよう導く、人にあらざる美しき死神だ。どんなにがんばっても追いつけない。追いつけるとは思えない。そんな、絶対的な敗北‥‥。それはあまりにも苦く、でも甘美で‥‥やがて、僕の心を鈍くする、そんな毒のようなもので‥‥。僕では、伊藤さんには‥‥善鬼ちゃんには、追いつけない。


 はぁ、と伊藤さんのため息。

「‥‥あなた、また泣くの?もう泣かないって決めたんでしょう?」

「‥‥泣いてなど‥‥」

 ――え?

 言いかけて僕ははっと顔を上げる。伊藤さんの射すくめるような瞳と視線がぶつかった。

 両親を亡くし、泣いていた幼い僕。ずっとずっと泣いていた幼い僕。神子上の養父に引き取られ、道場に放り出され、ただただ泣きじゃくっていた僕‥‥。

 そんな僕は、養父に手を引かれて一刀流宗家に行ったことが一度だけある。全国の支部道場主たちの集会。その間僕は一人、庭でうろうろとしていた。‥‥やがて、養父が居ないと泣き始め‥‥。

「あなたは、いっとう流の子でしょう。泣いちゃダメ」

 涙でぐずぐずになっていた僕に、女神が現れたんだ。

 大きな庭の、大きな池のほとり。僕と同じ年頃の少女の姿をしたその女神は言った。――僕にはもう、家族がいるんだと。一人じゃないんだと、教えてくれた。

 その日僕は‥‥。

「‥‥泣かない」

 たった一言、誓った。誰よりも強くなると。泣いたりしないと。

 僕の家族‥‥一刀流の為に強く強く、いつか女神様に誉めてもらうんだと‥‥そう、誓ったんだ。そんな夢幻を見たことを胸に、僕は‥‥ずっとずっと、修行していたんだ。

「伊藤さん‥‥」

 あれは、本当のことだったんだ。子供の見たまぼろしとばかり‥‥。

「安心しなさい。あなたは一刀流の子、神子上典膳よ。あなたさえ強くあれば――もう、一人にはならないのよ」

「伊藤さん」

 伊藤一刀斎景子。死神というものが居るのなら、こんな姿をしていればいいと思った。

 でも彼女は――女神だった。幼い僕を孤独から救い出してくれた女神だったんだ‥‥。


 目の前に立つ伊藤さんのしなやかな両手の指が、僕のほほを挟む。呆然としていた僕の顔をしかと固定する。‥‥伊藤さんの瞳。真正面から僕を見据えている優しい微笑み。いつだって優しい、僕以外にでも優しく美しい、伊藤さんの微笑み‥‥。

 でも、今は、僕だけを真っ直ぐ見つめている。

「あなたは特別なの、典膳。――あなたに強くなって欲しいのよ、典膳」

 伊藤さんの高い鼻が、僕の鼻にそっと触れる。

 伊藤さんの呼吸が、僕の口に触れる。

 伊藤さんの唇が、僕の唇に‥‥触れた。

 ゆっくり、やさしく、伊藤さんの唇は僕に重ねられ‥‥

 また、ゆっくりと‥‥離れていった。

 そのほんの2,3秒の間‥‥僕は宙に浮いていた。いや、今も浮いている。地面がない。立っていない。‥‥こんな術を持っていたのか、伊藤さんは。‥‥いや、僕は、今、バカなことを言ってる。

「あなたなら勝てるわ‥‥」

 ‥‥伊藤さんが、美しい瞳を細め、僕を見つめていた。

「‥‥伊藤さん‥‥」

「あなたに強くなって欲しいのよ、私は。典膳。善鬼を倒して見せて欲しいの、あなたに。

――それが出来たなら、一刀流をあげるわ」

「‥‥ッ!!」

 その言葉が、僕の両耳から尾底骨までを一瞬で走り抜け、僕の全身を震わせる。

 伊藤さんが‥‥。あの、伊藤さんが、僕を、認めて――そして、僕に一刀流を呉れるという。

 それは即ち‥‥伊藤さんを、呉れるということだ‥‥。

「そう、典膳。あなたと善鬼は私の弟子なのよ。強い方に、一刀流を継がせるわ」

「伊藤さん‥‥っ!」

 僕の女神は微笑みながらうなずいた。

「行くわよ、典膳」

 ‥‥そう。彼女はいつだって僕の前にいてくれたんだ。


(つづく)

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