5章 塚原卜伝 (4/4)
「‥‥‥‥」
三度、中央へと進み出た卜伝は黙って構える。今度も、両手を開いたまま下げる下段の構えだ。
答えるように、善鬼ちゃんも口をヘの字に結んだまま、一歩進んで構えを取る。前傾姿勢の一ツ勝。
尋常な間合い。睨みあう二人。その拮抗はすぐに崩れるだろう。お互いの手の内を知り、能力を知った二人。‥‥卜伝にとって目の前の少女は既に、宿敵一刀斎と並んでいるに違いない。新たに現れた、第二の好敵手と見ているに違いない。押されていた卜伝だが、善鬼ちゃんの重圧を感じているようには見えない。まだ余裕があるのか。ただの負けん気なのか。
――初めて、卜伝から動いた。やはり負けん気だったのか、卜伝からの打撃戦が始まる。掌を開いたままの甲による打ち、払い、抜き手、掌打。塚原卜伝は開手拳も使うのか。それらをかわし、払いながら善鬼ちゃんも反撃の手を緩めない。突く、突く、打つ、払う‥‥。
お互いが足を止め、流れるような連打を放ちつづける。止まらない連撃。狂わない狙い。
途切れることのない技の連撃は、ただ手を振り回せばいいというものではない。善鬼ちゃんの得意とする左右の鈎突き連打などを除いて、多種多様な拳を打ち出す連撃は一重に洗練された技術の証明になる。計算された技の繋ぎ。絶やすことの無い集中力。肺活量。筋組織の柔軟性。それを実行するためのたゆまぬ努力、反復練習。まさしく心技体そろってこその攻防。
‥‥これまで、その撃ち合いにおいて塚原卜伝を相手どり一歩も引かず、むしろ打ち勝った善鬼ちゃんだったが‥‥。
パパン、パンと、卜伝の掌甲が善鬼ちゃんの頬を、目を襲う。一度崩れた均衡は脆く、一気に片側へと傾いた。卜伝の連打。掌打、手刀、掌甲が善鬼ちゃんの頭部を中心に雨のように降り注ぐ。たまらず善鬼ちゃんの声が搾り出される。
たたらを踏むように下がろうとした足を卜伝の左足が刈り取った。瞬間、塚原卜伝の両腕が大きく円を描く。――善鬼ちゃんが、空中に舞った。
受身を取れずに背中から叩き落される善鬼ちゃん。ぎゃうっ!と叫びが上がった。跳ね上がった足を取ろうと卜伝が追撃する。――関節技か、危ない‥‥
善鬼ちゃんの両足が、独楽のように回った。これは自力だ。伊藤さんとの勝負で見せた、地の背中を中心にして身を回した遠心力で跳ね起きる。その勢いのまま一気に、善鬼ちゃんの前蹴上げが卜伝の顎を跳ね上げた!‥‥が、これはかわしている。自分から顎を跳ね上げそらしかわしていた――その頭を狙い、善鬼ちゃんの踵が振り下ろされる。すんでの所でかわす卜伝。アレを避けられるのか、卜伝は。‥‥さすがだ。
――起き上がり反撃までは出来たものの、善鬼ちゃんは乱れた呼吸ではあ、はあ、と大きくよろめく。もちろんその目の火は消えてはいない。
その姿を見ながら卜伝はとん、とんと下がった。
間合いを取り、ふーっと大きく呼吸を吐き出す。少し顎をひき俯くと、全身から滴った汗が顎をつたってぽとぽとと地面をぬらす。
‥‥ざわざわと、彼の毛が逆立つように錯覚した。
「鬼の子め‥‥。‥‥もういい、お前は死ね!」
叫ぶが早いか、一気呵成に飛び掛る。地を滑るような移動と足刀蹴りだった。足にきていた善鬼ちゃんはかわせず、踏ん張るように両手で止めるのが精一杯だった。だがとてもそれでは止めきれるものではない。よろめき吹き飛ばされ、今度は彼女が観衆にぶち当たる。
倒れないよう踏ん張る善鬼ちゃんの前に、卜伝がいた。蹴り飛ばした相手に追いついた卜伝は気合いもろともこれ見よがしな廻し蹴りを一閃させる。善鬼ちゃんは当然かわせる状態ではない。
左へと吹き飛ぶ善鬼ちゃんは、今度は商家の壁にぶち当たる。――そこには卜伝が居た。前に出した善鬼ちゃんの防御をハエを追い払うようにかち上げ、善鬼ちゃんの胸に正拳を6発ぶち込んだ‥‥。
歯を食いしばりながら横に逃げようとする善鬼ちゃんを追い、また卜伝の廻し蹴りが炸裂する。炒り豆が弾け飛ぶように、逃げる観衆という壁まで吹き飛ばされる。
‥‥なんだ、これは。僕はさっき彼のことを阿修羅の生まれ変わりかと思った。‥‥違う。これは阿修羅そのものだ。
さっきまで善鬼ちゃんが優勢なように見えていた。‥‥甘かった。華麗な技と獣の野蛮性の融合‥‥。善鬼ちゃんだけの物ではなかったんだ。これが彼の本性か‥‥。連撃速度も技の正確性も、何よりその洗練された技の数々。全て、明白に卜伝が勝っている。でも‥‥。
「くあっ!」
善鬼ちゃんが廻し蹴りを放つ。大きく、頭の上まで上げた上段を打ち下ろす。吹き飛ばされる度に影法師のようにひたすら追いすがる卜伝にその不意打ちはかわし切れず、両手で受ける。まだあんなに腰の入った蹴りを撃ち出せる‥‥。
そうだ。勝負の世界で一番モノを言う気迫は卜伝にだって負けない。旅から旅の末にさらに修行に出された善鬼ちゃんは、ひとり孤独に戦い続ける善鬼ちゃんは、五百戦無敗という卜伝のそれに勝るとも劣らない気迫を持っている。
「おのれ‥‥ッ!」
重い蹴りに膝をついた卜伝が身を起こすと、そこにはもう彼女は居ない。後ろからの蹴りが卜伝を襲い、吹き飛ばす。‥‥反撃だ。
――そして、たった一つの優位性。誰にも――そう、卜伝にすら勝る善鬼ちゃんの能力。電光石火の移動体術だ。本気の卜伝をも上回る神速。
――僕は、言葉もなかった。僕もひとかどの拳士のつもりだった。善鬼ちゃんの、好敵手のつもりだった‥‥。なのに‥‥。なんなんだ、この二人は。
善鬼ちゃんが民家の壁を蹴り、飛びあがって脇にあった木にぶら下がり、さらにぐるんと体を回して平屋の屋根に登った。屋根の上に立ち、大きく肩で息をする善鬼ちゃん。気付けばいつしか日も暮れ始め、町は朱色に染まり始めていた。
反撃で立て直したとはいえ卜伝の連撃を食らったんだ。呼吸だけでも落ち着けようとしているんだろう。あんな所まで誰が追える。伊藤さんですらあんな芸当‥‥。
‥‥卜伝だった。同じように木を蹴り壁を蹴り、屋根へと飛び移る。軽量で俊敏性がずば抜けている二人だけの世界。見れば卜伝も肩で息をしている。
ヘタには動けない屋根の上。二人は見合う暇も惜しむようにじりじりと間合いを詰め始める。これではうかつに足技は使えない。それだけならともかく、あんな足場じゃ善鬼ちゃんの移動体術が意味をなさない。足を止めての打ち合いとなると‥‥。卜伝はそれを見抜いて追ったのか‥‥。
夕陽の中対峙する二人。冬の日輪はつるべ落としだ。二人の決着も一気に付く。‥‥そんな予感がした。
にじり寄っていた二人が、互いの手が届く間合いまで接近する。
‥‥何度目かの、撃ち合いが始まった。――やはり足を止めての激しい撃ち合いとなる。ガシャガシャと揺れ、こすれあう屋根瓦。
呼吸を止めての撃ち合いの中‥‥卜伝の抜き手が善鬼ちゃんをかする。善鬼ちゃんの突きが卜伝を襲う。しかし善鬼ちゃんが一発当て、次の一発を当てるまでには卜伝の突きは三発当たる。それでもひたすらの殴り合い、意地のぶつかり合い‥‥。卜伝の開手拳がこめかみに当たる。ふらつく善鬼ちゃん。
阿修羅の手が加速し、六本に増える。六発の拳が善鬼ちゃんを襲い‥‥
グキャリッ、という音だ。初めて聞く音。
‥‥二人の動きが止まった。
が、次の瞬間、善鬼ちゃんの一発だけの正拳が、まっすぐと卜伝と交差する。
夕陽に逆光となり、重なった二人の姿は融合した一つの影となり、再び‥‥時間が止まった。
‥‥払捨脚かっ!
あの異様な音の正体‥‥。それは、卜伝の右足の出す音だった。卜伝の右足が、膝から外側へと曲がる。膝を後ろへと折りたたんだように、体の側面へと曲がっていた。
払捨脚――。それは、武者修行時代に寝込みを奇襲された伊藤さんが編み出したという、一刀流奥義の一つ‥‥。通常蹴りというものは相手へ向けて真っ直ぐに振る。弧を描く廻し蹴りにしろ、突き刺すように押し出す前蹴りにしろ、それは相手へ目掛け、一点に向けて放たれる。払捨脚はそうではない。無造作に振り上げることで相手の視界はもちろん、何より意識外から襲い掛かる攻撃。――それを、足技の無い場所で‥‥まさかここで出すとは。
長丁場の仕合において初めて卜伝の悲鳴が上がった。でもそれは女の観衆らの悲痛な声に打ち消される。男らのうめきに押し包まれる。
「うふ、ふふふ、ふは‥‥!」
善鬼の笑い声だった‥‥。
‥‥また、観衆の悲鳴が消えた。町全てが分厚い真綿に包まれたように、日が蔭ったように薄暗く、そしてすうっと静まり返る。
それに反して子鬼の不気味な笑い声だけが大きくなる。洞窟の壁に反響するこだまが続け広がりつづけるように‥‥皆の耳を突き刺し侵入する。
「うは、はははははは!!」
鬼の子が、卜伝の胸から自分の拳を引き抜く‥‥。
支えを失った卜伝が、糸を切られた操り人形のようにガタガタっと足をよろめかせ、屋根からも踏み外し‥‥落下した。力なく落ちた操り人形は運悪く左手から落ちてぼきりと腕までが折れる。が、もうそれも関係は無かった‥‥。
「先輩っ!!」
はっと気が付いた時にはもう、彼はそこに居た。斎藤と呼ばれた赤いジャージの男。
無残に、まさしく無残に崩れ倒れた塚原を抱きかかえる。決して頭を揺さぶらず、静かに抱えて声だけで呼びかける。あの塚原卜伝の眉が、口元が弱々しく震えている。
‥‥平屋の屋根から僕の目の前へと善鬼ちゃんが飛び降りてくる。
なお高笑いを止めようとせず、絶叫する。
「強かったのう!
見たか典膳!こやつ強かったのう!!」
顔中を口にして大笑いしていた。
善鬼ちゃんは‥‥荒々しい息か笑い声か叫び声か。僕に叫んでいた。
「誉めてもらえるかのう!
お師は喜んでくれるかのう、典膳っ!!」
「‥‥‥‥」
大声で吼えながら、善鬼ちゃんは激戦に取れかけていた上着の袖を自分で取っている。
「先輩っ!!塚原先輩っ‥‥!!」
「斎とぉ‥‥」
善鬼ちゃんが目もくれない敗者に、僕はまた目を戻していた。
長身の斎藤の手の中で、小柄な卜伝が‥‥勝負前よりもさらに小柄に見える塚原卜伝が、ぼろぼろと泣いている。さっきまで、鬼との死闘を繰り広げていた阿修羅が、斎藤の腕に抱えられて少年の顔で泣いていた。
「ぼく‥‥、かし‥‥ま‥‥を‥‥」
斎藤のほほにあてられていた塚原の手が、力なく地面に落ちた。
「聞いとるのか、典膳!ワシは約束まで、あと一ヶ月!しっかり修行しとくからのう!がんばっとるぞとよっく報告しといてくれよ!」
はっと、僕は姉弟子へ目を戻す。今までに見たこともない程に顔を紅潮させ、はぁはぁと息をあらげて笑っていた。顔についた敗者の血をぬぐいながら善鬼ちゃんは笑っていた。‥‥彼女は‥‥笑顔すら鬼のそれに見えた。
ドンッ!!と――何かが爆ぜる音がした。
その音と同時に善鬼ちゃんが真横に突きを一発放つ。
――斎藤だった。斎藤が地面を蹴り、音速の踏み込みで善鬼ちゃんに長い膝蹴りを放っていた。‥‥放っていた、らしい‥‥。
眼鏡がかしゃりと落ちる。彼は彼を見もしていなかった善鬼ちゃんの正拳に貫かれ、果てていた。僕が目をやった時には、もうそうなっていた。僕には‥‥何も見えなかった。
ずぶりと、取り囲んだ鹿島の学生達にも聞こえる嫌な音を立てて善鬼ちゃんは小さな拳を引き抜く。そのままがくりと膝から崩れ落ちた斉藤は血まみれの口から最後の言葉をつぶやいた。
「先輩の闇は‥‥俺がひろっ‥‥てた‥‥、伊藤‥‥独り、だ‥‥哀れ‥‥」
無念の表情を浮かべたまま、もう一つの操り人形も崩れ落ち‥‥そのまま動かなくなる。
‥‥これは、今の善鬼ちゃんの動き‥‥まさか‥‥。
「見たか?典膳、これが一刀流夢想拳じゃ。
‥‥お師の拳じゃ!お師は強いのう!」
卜伝のとは別の血でべっとりと染めた拳を突き出し、また彼女は頭をゆするようにアハハと大声で笑った。見開いたままのその目に見据えられ、僕は、姉弟子が、この獣が怖くて、ただ怖くて動けなかった。僕でさえそうだ。その場にいる全員、誰ひとり動けなかった。町中が赤く染まっているのは夕焼けのせいか、それとも。
「‥‥ぬ?どうした典膳?」
「‥‥善鬼‥‥」
善鬼ちゃんは、訝しげに眉を潜める。笑いをひっこめる。
「‥‥‥‥。どうした典膳。その目は」
「‥‥何でも、ない」
伏せられた瞳。‥‥哀しげにもみえる、その表情。
「‥‥‥‥。怖いか典膳。ワシが怖いか、典膳。
――ワシの目に鬼が見えるか」
「‥‥いや、何でもない。気にしないでくれ」
「ワシの名は善鬼ぞ。善い鬼と書いて、善鬼じゃ。ワシは鬼の子じゃて。のう、典膳」
「‥‥‥‥。ごめん‥‥」
「なあに。――それよりお師さんに伝えておいてくれよ。善鬼は御前仕合で、お師さんの拳で勝ってみせると。天下無双になって見せるぞと」
気が付けば笑う善鬼に、僕の知るいつもの笑顔で僕に笑う善鬼に‥‥。
僕は、黙ってただうなずく。また、善鬼ちゃんにも敗北した心を抱え込んで、奥歯を噛み締めた顔でうなずく。
そのまま、僕は‥‥四日の道のりをまたすぐに辿り、家へと帰った。
(つづく)




