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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
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1章 迷い込んだケモノ 2/3

「どうした?みこがみと言ったか。来ないのか?」

「‥‥‥‥」

 うれしそうだった。実にうれしそうに笑っていた。

「じゃあまだワシの手番じゃの」

「‥‥ッ!」

 とーん、と、今度は微かな跳躍音だけを残してヤツはもうそこに居なかった。‥‥居なかった、どこにも‥‥

 ガッ!と、かろうじて左を受ける。その右拳を受けながら突きを放つ。が、そんな反撃は難なくかわされる。上体だけを動かして突きをかわしたヤツはそのまままた連撃を出し‥‥、蹴りだった。左右の突きの途中でいきなり下段から蹴りが跳ね上がってきた。

 光る線を、滅多にお目にかかれない速度の蹴りを僕はかろうじて仰け反って避け‥‥

 ドン、と、僕の胸に衝撃が叩きつけられる。と同時に背中に床が打ち付けられる。‥‥いや、僕が床に叩きつけられた。

 仰け反った胸を、蹴り、か?何かの攻撃が加えられた、らしい。

 したたかに打った背中が、僕の肺から空気を残らず搾り出す。ゴ、っと、僕だけに聞こえる形で空気の流れ出す轟音が響いた。

「かっ‥‥!」

 酸素を吸いたい、が、吸い込めない。

 本当なら床を転がるしか出来ない体を、一刀流の道場主だという誇りが無理やり引き起こす。

 肘をついて頭を起こし、腕を伸ばして上体を起こす。

 ‥‥強い。

 道場生の前で、という意地が、道場生の視線が、僕の体をかろうじて立ち上がらせる。

 ‥‥こいつ、本当に強い。

「はぁ‥‥」

 無理やりに息を吸う。僕が立つのを待っていた道場破りは、変わらずうれしそうに笑っている。

 ‥‥構えだけじゃない。突きも蹴りもそうだ、道場破りの持っているモノは全て、技術でも何でもない、ただ殴りかかってきているだけのものだ。野生の攻撃そのものだ。彼女の姿勢から右利きだということぐらいはわかる。消えた直後、右に跳んだことを予想できたのもそのためだけだ。だから初段はかわせた、が‥‥。なんだ最後の連撃は。あの体格でどうやって‥‥。どんな柔軟さなんだ、どんな体をしてるんだ。

「やるのう、やるのう」

 にいっと口の端をあげて笑うと、二つの八重歯が見える。‥‥まさしく獣だ。

 彼女の拳筋が見えない。

 ‥‥こちらからはどう攻めればいいかもわからない。

 これまでの僕は、向かい合えばどんな相手でも手が読めた。構えを見れば、そこから出る技はもちろんその性格、思想まで見てとれるように‥‥僕は誰の拳筋でも読むことができた。

 構えた姿勢から、おのずと出せる技は決まっている。出せる技とは即ち身につけた技だ。その拳士の鍛えた生き方であり、どうありたいという彼が理想とする拳理そのものだ。真剣に向かうというのは全身を使った、拳士としての生き様の対話だ。解らないはずがない。

 構えから相手を読み切る。一刀流ではこれを写の位と言い、上級の術に位置付けている。‥‥それこそが、僕の特技だった。

 人より力が強いわけではない。特別に速いわけじゃない。連撃が得意なわけでも、気の術を持っているわけでもない。そんな僕が、思い上がりではなくずっと無敵だった訳。それは相手の動きを読めたから。――だから誰にも負けなかった。‥‥あの人以外には。

 そう、伊藤さん以外に負けるはずは無い。‥‥一刀流を名乗る限り、誰にも負けるわけにはいかない。それもこんな道場破りなんかに‥‥。

「‥‥‥‥」

 ごくり、と、乾ききった口の中で僕は出ない唾液を無理やりに飲み込んだ。

 もう一度、大きく構えなおす。

 いつかあの人が言っていた。本気で動き回るケダモノに拳を当てられれば一流だと。当ててやるさ。あの人に、伊藤さんに僕を認めてもらうんだ。

「‥‥!」

 来た!正面から攻撃をしかけてきたヤツの連撃をどうにか捌く。‥‥速い。が、防御に徹すればどうにか‥‥本当にどうにか。七、八発の攻撃を捌いた最後に、僕は左拳で寸止めにする。当てる気の無い拳を道場破りの目の前に突き出す。当てる気で打ち抜けばかわされ反撃を受けるが、最初から寸止めするつもりなら拳ひとつ分の踏み込みを甘くできる。拳に殺気もこもらない。‥‥これなら反撃されにくい。

「‥‥‥‥」

 鼻つらに拳があっては突き蹴りも限られる。この拳を取りにくればそれに合わせて反撃を入れられる。僕の右拳は僕の顎に添えるように構え、いつでも打ち出せる。

 道場破りは黙って一歩下がる。

 無理に攻めずにいると、すかさず道場破りが反撃に出る。僕は左手のみでその攻撃を捌く。‥‥見える、足を止めた打ち合いなら、攻撃に転じなければなんとかなる。

 ‥‥やはりだ。明らかに我流のヤツは攻撃力はあるが防御技術は一段劣る。特にこういった攻防に慣れてはいない。

 連撃も速いが、型は洗練されていない。型の産む流れる動きではないから、いくら速かろうが隙はある。必ずある。

 あせらずに捌き、捌き‥‥隙を見つけもう一度寸止めを決めた。

「ぬ‥‥!」

 たった二合の攻防だったが、もう汗が止まらない。こんなに集中力を使う仕合は他にない‥‥。

 だが、ここだ。再び下がった道場破りは、壁を背負うようにして立っている。

 後の先を取り相手を後退させ、意図した追いで相手の出せる技を限定させ、さらに後退させる。そこで生まれる新たな後の先。そうして追い詰めた果てでの交差法による止め。

 ――敵の動きを制し、思考を操る。それが一刀流の奥義にして基本思想、妙拳だ。

 ちらりと、ほんの目の隅で背中の壁を確認して道場破りは言う。

「‥‥ほう、面白い」

「‥‥お前の、負けだ」

「壁際に追い込んだ程度で‥‥抜かしおる!」

 道場破りが床を蹴り前に出る。

 この道場においてこの時、その場所は――壁に空いた小さな穴から入る西陽が差し込む。

「‥っ!」

 僕めがけて突っ込んできていた道場破りの目が閉じる。

 ホンの一瞬、毛ほどの寸刻。彼女の瞬きを、僕の意図した時に発生させる。――その瞬間が欲しかった――!

 迷わずに僕は下段に廻し蹴りを入れた。‥‥崩れたところに左拳から右の一本抜き手でヤツの左眼をつぶし‥‥

 ‥‥あ、れ‥‥

 目の前に、床がある。

 僕は膝をつき‥‥四つんばいになっていた。

 ‥‥あれ?

 ――後で道場生に聞かされた話によると、僕の下段廻しをひょいと、膝を曲げるように飛びかわしながらの飛び蹴り上げだったらしい。飛び上がりざま下からの蹴り上げが、僕の顎を、意識を打ち抜いていた。‥‥らしい。――でも、這いつくばっている僕には何がなんだかわからず‥‥。ただ、何らかの手段で倒されたのは間違いがなかった。

 経験を出し切った。知恵をしぼった。奥義を尽くした。地の利を活かした。‥‥なのに、なのに、こんな道場破りに‥‥ただの生まれ持った技量だけに‥‥僕は負けるのか?

「やるのう、ヌシは。驚いた。今のは面白かったぞ、本当にな。

 ‥‥どうじゃ、まだ出来るか?」

 無様に這いつくばった僕を見下ろす道場破りがうれしそうに言う。

 そんな、ばかな‥‥。

 そうだ、ばかな、だ。僕は一刀流の神子上典膳だ。絶対に負けるわけに行かない。僕はあの人の――一刀斎の弟子なんだから。

「‥‥ほう」

 どうすればいいか、わからない。勝ちの目が見えない。それでも、僕は、立った。立てた。無傷の道場破りは驚き感心の表情で僕を見ている。

 ‥‥くそ、立っただけでそんな顔をされるとは‥‥。

 でも、本当にどうすれば‥‥。

 道場破りが静かに、腰を落とす。容赦なく飛び掛る準備をしている。

 僕の足は‥‥少し揺れている。だが、問題はない。体は動く。拳も握れる。ぎゅ、っと、精一杯硬く作り上げた拳を持ち上げ、構える。

 でも‥‥本当に、どうしたらこいつを倒せるんだ‥‥。

 ――あと、三拍で‥‥二拍で‥‥来るッ!

「あら、お客さんなんだ?」

「!!」

 突然の、たった一言のその言葉。

 ヤツの飛び掛る気が充満しきっていたこの間が――僕の立つ足元が、道場に戻った。――そうだ、僕は森でトラと対峙していたわけじゃないんだ‥‥。助かった‥‥。

 ――助かった?僕は‥‥僕は、何を言ってるんだ。

 でも、それは‥‥事実だった。僕を睨みつけていた二つの赤い目はもう僕を刺していない。


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