5章 塚原卜伝 (3/4)
天下無双。この拳術至上主義の世界では憧れることすら憚られるその呼び名。彼だけは‥‥。伊藤さんと引き分ける前も後でも彼だけは‥‥天下無双と、誰もがそう呼んだ。
自然発生するその呼称。この国において誰も気軽には使ったりはしない。数十年に一度、そう呼ばれる拳士が誕生する。彼こそが現代の天下無双、塚原卜伝その人だった。
にいいっと、善鬼ちゃんは笑っている。相手が誰であろうと意にも介さない。彼女の中にあるのは強そうな相手と戦える喜び。そして伊藤さんをバカにされたという怒り。それだけだ。
――吉岡に気迫負けした自分に言い聞かせる。この姿を見ろと。どんなに周囲が色をなしていようが彼女に気迫負けなど存在しない。恐怖の欠片もうかがえない。
‥‥善鬼ちゃんは、少しだけ腰を落とし左手を上段に上げて体を正面に構える。
二ツ勝の構え‥‥を、彼女なりに工夫したらしい。膝が違う。攻めの型である二ツ勝を、より彼女らしい重心に構えている。‥‥腕を上げていることが、その構えだけでも見てとれた。
構えた善鬼ちゃんに呼応するように、卜伝はすっと、腰だけを垂直に落とした。上体は、完全に真横を向いたその上半身の背筋は美しいほどに真っ直ぐに立てられている。対峙する善鬼ちゃんからは右腕は全く見えないだろう、極端なまでの半身。
僕は三度、神道流の遣い手と勝負したことがある。が、この構えは見たことがない。
やはり伊藤さんと同様に、弟子ごときには伝授できない技を持っているということだろうか。あるいは、伊藤さん――対一刀流戦用に編み出した新たな型なのか。
風が吹く。冷たい風だ。善鬼ちゃんと会う時はいつも冷たい風が吹く。その北風以外には音は無い。取り囲む鹿島の門下生も無数の観衆も音ひとつ立てない。
善鬼ちゃんはじりじりとにじり寄る。半歩ずつ、半歩ずつ。相手を誰かと知らないながらも卜伝の力量を感じ取っているのか。一方の卜伝は身動きひとつ、身じろぎさえしない。地面に固定されたようにびたりと構えている。
半歩ずつ、小柄な善鬼ちゃんの小さな足の、その半歩ずつじわりじわりと狭まる間合い。‥‥まだ戦端は開かない。
じり、じりと‥‥お互いのつま先が届きそうな距離に。じり、じりと‥‥。ついには手を伸ばせば体に触れられそうな間合いまで迫る。
口火を切ったのは、やはり善鬼ちゃんだった。構えた左手で上段掌底から右拳、左拳、右拳、右鈎突きと一気に打ち抜く。かわす、かわす‥‥全てをかわす卜伝。
そんなもの当たるかと叫びつつもどよめく鹿島陣営。だが驚くのはまだ早かった。善鬼ちゃんの回転力はまだ上がる。突き、蹴り、突きながら蹴り、ひたすらに殴る――無呼吸で続けられる連打。途切れない攻撃。ここにいる誰もがかつて見たことのない速度と手数。‥‥そう、これが善鬼ちゃんの本気なんだ。
‥‥だが、相手は塚原卜伝だ。その連撃を左手一本で捌き、かわす。黙々と続く攻撃と防御。
塚原卜伝をもってしても反撃の隙を与えない善鬼ちゃんの連撃。どれほどの肺をしているのか、彼女の無呼吸による連続攻撃が、ついに攻守の調和を崩した。
善鬼ちゃんの右廻し打ちの一つが卜伝の突き出した左肩を襲う。威力を受け流しきれない。
ふら、と僅かに身を逸らす卜伝の隙を善鬼ちゃんは当然見逃しはしない。渾身の右突きが‥‥
ドド・どンッ、と、三つの破裂音が響いた。善鬼ちゃんの短い悲鳴。
‥‥善鬼ちゃんが弾き飛ばされた!あの彼女の突きを‥‥!
破れた拮抗に、観衆の興奮した声が空気を揺さ振る。
‥‥全く解からなかった。何も見えなかった。左構えの卜伝の顔を、善鬼ちゃんのあの音速の突きが貫いたはずだった。見切りを特技とする僕にも目視できないほどの彼女の高速の突きと同時に放たれたのは右構えの卜伝の突きが三発、だ。
善鬼ちゃんが身を起こす。口を切ったらしい。べっと鮮やかな赤色の血を吐き出した。
だが呼吸は乱れていない。損傷というものでもない。まだ始まったばかりだ。
「なるほどな‥‥。たしかにお前は鬼夜叉の弟子だ。鬼の子だ」
「‥‥そんなに鬼が見たければすぐにも地獄へ送ってやろうぞ」
「ふ、はは‥‥。さえずるなよ子鬼め」
短く言葉を交わすと、二人はそれぞれさっきと同じ構えを取った。
最初と同じ距離で構え、にらみ合いが再開する。だが今度は二人ともがにじり寄る。じり、じり、と、ゆっくりと、しかしさっきとは倍の速度で距離が縮む。
そして、同じ間合い。普通ではない、密着しそうなほどの至近距離。下がらない二人。殺意をぶつけあう二人。
拳舞が始まる。
攻と攻。今度は攻守ではなかった。左の卜伝、右の善鬼から拳が飛び交う。空中衝突しそうなほどの連打、連打、連打。
善鬼ちゃんの連打に負けない‥‥いや、勝るほどの連撃が左から飛ぶ。口を開かない二人。呼吸を忘れる観衆。二人の拳の空気を切り裂く音だけが僕の耳を刺激する。
今度こそ‥‥当たる。卜伝は攻撃に転じている。防御に集中していたさっきとは違う。すぐにも当たる‥‥。当ててくれ。
ドド・どンッ‥‥。僕の祈りを嘲笑う音。卜伝の拳が、またしても善鬼ちゃんに直撃した。乱打の末、再び善鬼ちゃんが弾け飛ぶ‥‥。
一体何が起こってるんだ。僕は見ていた。確かに左構えだったはずの卜伝が右構えの三連撃――右裏拳、左正拳、右鈎突きで善鬼ちゃんを弾き飛ばす。
なんだこの男は‥‥。三面六臂の阿修羅の生まれ変わりの二つ名は比喩じゃないというのか。
善鬼ちゃんと‥‥一刀流の善鬼ちゃんと、これ程に差があるのか?
ドっと沸き返る対岸の鹿島学生達。だが、すぐにそれはどよめきに転じた。善鬼ちゃんがぴょん、と飛び起きたからだ。――最初の二撃は喰らっていたものの、止めの鈎突きは左腕で防いでいたらしい。自分から飛び下がり威力を吸収していた。
もう一度、ペッと地面に黒い血の染みを作る。
「さすが、お師さんと分けた男じゃわ。‥‥典膳」
「なんだ?」
「よっく見とれよ。退屈せんぞ」
「‥‥ああ」
むしろ僕の方が緊張し、短くしか返せない返事を背中に受け、善鬼ちゃんが構えなおす。
――それは、一刀流の構えではなかった。いや、どの流派の構えでもない。構えならざる構え――道場破りの日に見た、あの獣の姿勢だ。
グ‥‥。善鬼ちゃんが、スズメを捕捉した猫の低さになる。どよめく観衆。――しかしさすがは歴戦の勇士、卜伝だ。その構えを見てもなお戸惑う表情を見せない。
だが。全身を使い飛び出した獣に身を硬くする。
正面から飛び掛る善鬼ちゃんの飛び蹴りを両手で防ぐ卜伝。大男でも地面になぎ倒すその蹴りを受け、力だけを流し吸収して飛び下がる。着地することなくそのまま空中で廻し蹴りを放つ善鬼ちゃん。それさえも卜伝は防ぐ‥‥が、流しきれない。はじかれた両手をかいくぐり、善鬼ちゃんの突きが襲う。左右突き、右脚。――全弾が命中し、卜伝がくの字に折れる。
‥‥行けるッ!行け!
神速の連打がなおも続く。それでも大振りの攻撃はしない。確実な連打で卜伝を削りとる。ゴンゴンと善鬼ちゃんの、決して軽くない連撃が卜伝に命中し、左半身が下がった‥‥が。
ドドドッ!‥‥まただ。‥‥いや、今度は右構えだったはずが瞬時に左構えになっていた卜伝が三連撃をもって善鬼ちゃんの動きを止めていた。
「ふーーーーっ‥‥
三ツ之太刀を三度も使わせるか‥‥、鬼夜叉の子!」
激昂した塚原卜伝が吼える。
「やりたきゃ何度でもやるがよかろ」
連撃を喰らったはずの鬼の子はニヤリと笑う。彼女らしくなってきた。
「喰らえぃ!」
両手を下段に構えた卜伝に再び善鬼ちゃんが強襲する。
「僕に!」
飛び掛ってきた虎を正面に受け‥‥
「同じものを二度見せるな!」
卜伝が、両手を大きく廻した。
くるりと善鬼ちゃんの体が舞う。‥‥あの飛び蹴りを空中で捌くのか‥‥!
いつかの伊藤さんが見せた掛け手による捌きは、ただ善鬼ちゃんの力を流したに過ぎない。が、卜伝のこれはさらに技へと昇華したものだった。横の姿勢だった善鬼ちゃんは手品のようにひょいっと空中で一回転し、頭から地面へと叩きつけ‥‥
られない。
見越していたように善鬼ちゃんは手で着地し、逆立ちのまま足技を仕掛ける。かわしきれずに頭部に蹴りを受けた卜伝がよろめき、あわてて下がる。
卜伝の合気術をもってしても善鬼ちゃんの動きは仕留められない。卜伝は二度同じ技を見せるなと言ったが、それは彼女にとっても同じなんだ。伊藤さんに勝るとも劣らない拳豪塚原卜伝。それなら彼女の飛び蹴りは返せるはず。合気で返されることさえも折込済みでの攻めだった。
攻めている。塚原卜伝を、僕の姉弟子善鬼ちゃんの連撃が二たび卜伝を捕らえ攻め立てている。‥‥すごい。善鬼ちゃんがこれ程だったなんて‥‥。
これまでの卜伝の見せた返し技は、どの拳士を倒すにも十二分なものだった。そこには以前の善鬼ちゃん――一年前の彼女も含まれる。彼女が旅立った日のままだったなら、おそらくもう勝負は着いていただろう。この勝負を見守る僕には驚きと感動と――そして、複雑な感情が‥‥。
「‥‥あっ!」
思わず声をあげてしまう。善鬼ちゃんの連撃の隙間。今、ここにあの技を差し込まれる‥‥。卜伝の仕掛ける機が、見えた。横からの観戦の、それも四回目で初めて見えた。
「‥‥こんなもん!」
しかし善鬼ちゃんの右拳が卜伝のわき腹に突き刺さる。まともに入った。
「種がわからんでもかわせば良かろうて!」
そこからさらにガンガンと左右の鈎突きの連打を放つ、放つ。竜巻がそうするように、卜伝の体を左右に揺さ振りつづける。卜伝の奥義を、謎の反撃を、善鬼ちゃんは隙にしてしまった。
‥‥なるほど。袴をはいている卜伝は膝がわからない。左半身に立っている卜伝は、構え合っているうちにいつの間にか足を交差させていた。その交差された足は相手の攻撃を見切った時、瞬時に身を反転させかわす力となる。その回転はそのまま三連撃へと繋がる。そこだけ言ってしまえば簡単な原理だが‥‥。それでも全く解からなかった。上体を微動だにさせず重心を変えず、両足の接地点のみを移動させる。宙に浮かべるハチドリでもなければあんなことできるはずがない、けど実際にやっていたんだ。
しかしその技を見切ることなく、卜伝の攻撃の機を読み切ってかわす。‥‥そう、野性と技術の融合。これこそ善鬼ちゃんの恐ろしいところだ。
連撃の最後に、善鬼ちゃんの龍尾返が入った。卜伝が吹き飛んだ。巻き込んだ観衆が民家の薄い木戸を割る。
僕は、手のひらに食い込ませていた爪に気付いて握った指をほどく。僕もいつの間にか呼吸を忘れていた。
鹿島の学生達のどよめきに気付く。それはそうだろう。こんなことを信じられるはずがない。彼らにとって塚原卜伝は、僕にとっての伊藤さんだ。負けるはずがない。負ける姿なんて想像もできない。その塚原卜伝が――伊藤一刀斎ではない。その弟子にいいようにされているんだ。ここで驚かずにどこで驚く。
――それは僕だって同じだ。あの卜伝をしのいでいる。――勝てる――。また僕の手にぎゅっと力がこもる。
きれいな円を描いていた観衆の輪が一箇所だけいびつにゆがんでいる。倒れた卜伝を避けて出来たその空白地帯に、鹿島の視線を浴びた卜伝が立ち上がる。‥‥さすがに、まだ決着はつかないか。
立ち上がった卜伝が前髪をかきあげた。砂埃と、どちらの血ともつかない血のりが髪をなでつける。
(つづく)




