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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
28/38

5章 塚原卜伝 (2/4)

   2

「――ああ、言った。伊藤一刀斎‥‥。ヤツの拳にあるのは強さだけだ。目の前にある敵を倒すことだけだと。そう言った」

 現場へと近づくとはっきりとその声が聞こえる。‥‥やはり、伊藤さんの話だった。

 それ程多くない人通りの中、青や、あるいは赤のジャージを着た集団の背中が目に入った。着物が多い町中での洋式学生服は目立つ。鹿島学生だろう。

「拳士とはすなわち拳のさむらい。古の侍達の残した道を、拳を以って守る者だ。拳を以って民を外敵から守り、士道を以って民の手本となる。――それが、拳士の本懐なんだ」

 人垣となったジャージの中から、そんな通りのよい声が聞こえる。はきはきとした自信に満ちた声が。

「ヌシがゲンコツ振り回すのにどんな格好をつけようが知ったことか!」

 その人垣の向こう側から聞こえた声。女の子の声なのに、そうとは思えないほどに負けん気の強い、不遜なその声。‥‥間違いない。

「何してるんだ、善鬼ちゃん!」

 僕は騒動の輪に飛び込み、彼女の方へと駆け寄る。果たしてやはり、彼女だった。

「おう、典膳。久しいのう」

 ‥‥一年ぶりだというのに、何も変わっちゃいない。週明けに会った学舎の級友ぐらいの感覚で笑い返してくる。

「何をしとるかじゃと?典膳。見てわからんか。お師さんを笑う連中を見かけたでな。喰ってやろうかと思うとるだけじゃ。――どこに行こうがおるのう、この手合いは」

 伊藤さんほどの著名人だ。悪く言う連中もそりゃあどこにでも居るだろう。それらを見かけるごとに善鬼ちゃんはいちいち倒してきた。‥‥たしかに、想像するまでもないことだった。

「‥‥お師、と言ったか」

 ぞくりと、した。

 後ろから‥‥。さっき僕がその背中を見ていた連中側から聞こえる声。さっきの落ち着いた声と同一人物だろう‥‥が。なんだ今のは‥‥。

「‥‥伊藤がはじめて弟子を取ったと聞いていたが‥‥。なるほど。女、お前がそうか」

 完全な殺気のこもったこの声‥‥。思わず僕はごくりと唾を飲み込む。

 ‥‥嫌な予感を持って振り返り、その相手を見た。

挿絵(By みてみん)


 鹿島学の生徒らを従えるように立つその少年が、僕の視線を吸い寄せる。青いジャージに紺の袴、僕より頭ひとつ程も小柄なその少年は、じっと善鬼ちゃんを見据えている。

「善鬼ちゃん‥‥。君、誰と喧嘩してたんだ‥‥」

「喧嘩はまだやっとらん。これからじゃ。相手はお師さんを笑う連中じゃ。

 ‥‥殴り合いもせず、口ですまそうとする程度の連中じゃ!」

 その言葉にジャージの連中が吼え出す。なんだと?!と口々に叫ぶ。中央の少年だけが、キっと眉をひそめ静かに立っている。

 この少年‥‥武術の名門鹿島学生達の中心に立ち、他に無い凛としたその空気。

 もちろん僕にとって初めて見る顔だが‥‥、もう誰だか解かっていた。体が理解をしていた。

「‥‥何故、あなた程の人が伊藤さんを虚仮にするんですか?」

「誰だ君は」

「‥‥一刀流、小田原の神子上典膳です」

 彼の周りにいる鹿島学生らがますます怒りをあらわに、声を荒げる。

「貴様も一刀流か!」

「鬼夜叉の手下が何しに来た!」

 一触即発の空気。この間の吉岡一門よりずっと険悪な空気がぶつかってくる。

 それでも、僕にとっても今回は訳が違う。僕だって黙ってはいられない。

「僕は伊藤を虚仮になどしていない。事実を言ったまでだ。

 ――ヤツの拳は軽いとな。ヤツの拳では誰も導けはしない、とな」

「何じゃと――」

 僕は善鬼ちゃんを手で制し、反論する。

「あの人は一人ひとりを導く人じゃあない。僕ら一刀流一門は、あの人の背にひっぱられてそれぞれが前へと進むんだ」

「君はそうせざるを得ない理由を尤もらしく言っているだけだ。――伊藤は、おのれの強さにしか興味が無い。おのれが強くなることしか考えてはいない。いくらヤツが強くなろうが、それは士道ではない。人々が後を歩ける道ではない」

「何を‥‥」

「力を以って我のみが謳歌する。私利私欲の為に権勢を振るう。そんな者ばかりになってみろ。どれほどに世が乱れ、どれほど多くの民が苦しむ。

 僕らが示すべき道は王道。僕らが進むべき道は王道。たとえ世に何が流行ろうが関係はない。王道は百年昔も百年後も変わらず王道でいる。流れ行くだけの物、すぐに消え去る物には次に歩く者たちを導く力など無い」

 毅然とした声で、少年が叫ぶ。何にも恥じることはないと、声を大にして宣言する。

「先人達の残した技に正義を見出し、先人の拓いた道を次の段階へと進ませ、そして次に託す。それこそが僕ら拳士の進む道だ」

「‥‥強さに思想を持ち込んでどうなるんですか。僕ら拳士は強くなることこそが本懐でしょう」

「この国の歴史は常に強さと供にある。――拳に思想を乗せることのみがこの国を守る手段だ」

「それは‥‥」

「‥‥僕が、鹿島の拳術を、この国の武士道を未来へと繋ぐ。

 ――資源も無い、技術も遅れている。拳術の先進性もいずれは追いつかれ、追い抜かれるかもしれない。その時にこの国に何が残る。

 ‥‥いいか。士道を断ってはこの国は滅ぶんだ。思想こそが、国そのものなんだ」

「‥‥それでも、僕らは‥‥。伊藤さんのように、強くなりたい。伊藤さんのような、貪欲な強さに憧れる。あの人は‥‥強くなるために生まれてきた人だ。そこにこそ、美しさがある」

 僕の精一杯の反論にも鹿島の大樹は揺るがない。

「‥‥‥‥。君はまともそうに見えたが‥‥所詮、鬼夜叉に魅せられた者だったか。

 何故、僕らは戦う。何故人は強くなりたい。

 もう一度言おう。その答えに迷う拳には人を導く力なんか無い。ヤツに人は導けない。伊藤の心にあるのは自分の拳のことだけだ」

「‥‥たった一度戦っただけで‥‥何を」

「わかるさ」

 彼は初めて、僕に笑顔を見せた。

「わかるさ、もちろん。――拳以上の言語(ことば)拳士(ぼくら)にあるのか?」

「‥‥‥‥」

 ‥‥一言も返せなかった。

 もしこの場に伊藤さんが居たなら「そんなものは弱者の戯言よ」と一蹴し、卜伝に牙を剥き、そして高笑いと共に打ち倒すだろう。

 でも、僕には‥‥。

「何をやっとるか、典膳。あきれたぞ。‥‥ヌシはそれでもお師さんの弟子か。こやつはお師を嘲笑しとるんぞ。舌なぞ動かしてどうなる」

「善鬼ちゃん‥‥」

 気が付けば僕らは、騒ぎを聞きつけた鹿島学舎の学生らに囲まれていた‥‥。ここは下校路だ、当然だろう。

「そんだけ長々とお題目を唱えたんじゃ。よもや逃げの一手はあるまいの?」

 今度は善鬼ちゃんが僕を手で制しながら、前へと踏み出す。

 伊藤さんにしろ善鬼ちゃんにしろ‥‥。どんな状況でも全く動じない。自分が負けると思っていない。負けることを恐れていない。だがそんな善鬼ちゃんの行動に、鹿島学生らはますます怒気をみなぎらせる。‥‥いやこれはもはや憤怒だ。

「先輩、先輩が出るまでもないですよ。――俺にやらせて下さい!」

 少年の後ろに控えていた、僕より背の高い眼鏡をかけた赤いジャージ、ダウンジャケットを羽織った学生が声を荒げる。

 そうだ‥‥同じなんだ。この小柄な少年のことを虚仮にされれば、周りの連中が黙っているわけがない。それは、僕らと同じなんだ。

「騒ぐな斎藤。下がれ、こいつは僕が相手してやる。‥‥伊藤の鼻をへし折る丁度いい実験台が折角来てくれたんだ」

 斎藤‥‥。聞いたことがある。塚原卜伝の高弟、斎藤勝秀‥‥彼がそうか。

 言いながら少年は肩幅よりぶかっと広がった袴を、ほとんどゆらさずに前へと歩き出す。音もなく、スッ、スッ、と。

 他の鹿島学生達は下がった。二歩、三歩、四歩‥‥。僕らを取り囲むように、試合場を作るように。程よい広さの空間を作る為に慣れた動きで素早く行動する。

「待ちくたびれたわ」

 善鬼ちゃんが笑う。

 ‥‥小さい善鬼ちゃんとさして変わらないその小柄な少年。三メートル程の間を空けて善鬼ちゃんと対峙するその少年こそ‥‥。

 取り囲む鹿島学の生徒を内堀とするなら、いつしか野次馬の外堀が出来ていた。勢いづいた空気の鹿島学生たちの対岸になる内堀で、僕は一人で絶望的な気持ちを抑えられずにいる‥‥。

「‥‥伊藤が力に溺れ、強さのみを求め、どんな邪道を進もうが僕の知った所ではない。

 ――でも。僕との道が交わるならば。ヤツが曲がりなりにも拳士を名乗るのならば。容赦はしない。鬼夜叉を狩るのは、僕だ。――お前がその前哨になる」

 その場に拳士が二人。勝負は始まっている。‥‥もう、止められない。――本当に、こんななし崩しで始まっていいのか?この勝負が。いや、なし崩しでなければ起こらない仕合なのかもしれない。

 だって、善鬼ちゃんが‥‥僕の姉弟子が向かい合ってる相手は‥‥間違いなく‥‥。

「一刀流!小野善鬼ッ!

 お師を笑う者は神でも鬼でも殴りつける!」

「鹿島神道流、塚原卜伝!

 お前の体で伊藤に伝えてやる!神道流の伝統を汚させない!正統拳術の名誉は僕が守るとな!」

 おおおおお、と、

 大地震に揺れる城の外堀さながらに観客がどよめいた。

 ‥‥それは、そうだ‥‥。

 天下無双と名高い塚原卜伝が、ここにいる。

 塚原卜伝と唯一引き分けた鬼夜叉の弟子が、そこに対峙している。


(つづく)

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