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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
27/38

5章 塚原卜伝 (1/4)

挿絵(By みてみん)


   1

 ――僕こそ、見捨てられたのではないか。

 ‥‥結局伊藤さんは何も言ってはくれなかった。叱ってさえくれなかった。あれだけ丁寧に教えてもらっておきながら殻ひとつ破れないままの僕に、愛想を尽かしたのでは‥‥。あんなに強い善鬼ちゃんですら不安がっていた気持ちが今ならよく解かる。御前仕合まであと一ヶ月足らず‥‥。それは、その日を約束とした善鬼ちゃんとの再会までの時間でもある。

 僕は今、旅路にある。善鬼ちゃんを呼びに行くと、そんなどうしようもない言い訳を理由にして町を出た。

「‥‥ま、それもいいでしょう」

 伊藤さんは僕の心を見透かしたようにそう言っただけだった。

 善鬼ちゃんに会ってどうするわけでもない。ただ、彼女の顔が見たかった。彼女のがんばる姿を見たら、僕もなんとかなる気がした。――ただ、それだけだった。ただそんなことだけで、僕は急ぎ片道4日かけて水戸の地へとたどり着いた。


 ――考えてみれば、僕には友達と呼べる者は居なかった。ずっと、誰ひとり居なかった。

 悩みを話す相手なんて居やしなかった。相談はされても、こちらからは出来なかった。一緒に大怪我をして笑いあう友達が欲しかった。倒し倒される好敵手が欲しかった。本気で殴っても壊れない敵が欲しかった。

 そんな、僕が望んでいた人は‥‥16の時に訪れた。神子上の養父が敗れ弟子となった鐘撒自斎様のその一子――伊藤一刀斎景子その人だった。

 でも僕が待ち望んだその人は‥‥ずっと願っていた敗北の日は、あまりにも圧倒的で。僕の手には届かない人で‥‥。僕じゃあの人の友達は務まらない。――弟子すら務まらなかった。

 ――それでも、追うべき背中だけは手に入れたんだ。それはどれだけ幸せなことか――

 僕は自分に言い聞かせるように、箱庭の中で修行を続け‥‥。

 そう。僕は一人、あいかわらず肩を並べる友達一人いないまま修行を続けていた。二つの道場を往復し、多くの尊敬といくらかの妬み、数え切れない恨み。そして何より――僕を育ててくれた一刀流への恩義。そういったものをまとわり着かせ、次第に重くなっていく拳を振り上げ続けていたんだ。いつか伊藤さんに認めてもらいたくて‥‥。

 そんな小さくて美しい僕の箱庭。一刀流という箱庭に‥‥ある日彼女が飛び込んできた。とても充実した、とても退屈な毎日をぶち壊すように彼女が飛び込んできた。

 やっと会えた。

 ――そう、やっと会えたんだ。僕はあの夜、そう思った。あの小さな女の子が、僕よりずっと強い少女こそが、僕には無くてはならない存在だと、そう感じた。

 僕と同じ人にあこがれ、僕より先に夢を叶え、二歩も三歩も先を走る少女が、僕は誰よりも大切だと思った。

 小柄で、照れ屋で、激情家で。ちゃん付けされただけで動揺し、握手すれば赤面し、伊藤さんに頭をなでられればほほが崩れる。僕に威張るなと威張って言う。マフラーだけは何があっても手放さない。‥‥いつ洗うんだよ、あれ。変なやつ。そのくせすぐに人を虫呼ばわりするし。沙鈴にからかわれると何故か代わりに僕にやつあたりしてくる。みかんは皮をむいて夜の間窓の外に出し、凍らせて食べる。その時だけは目を線みたいに細めて満面の笑みになっていた。‥‥もしかして伊藤さんより冷凍みかんの方が好きなんじゃないか?あいつ。

 ‥‥‥‥。会いたい。‥‥会いたいな、善鬼ちゃんに。今こそ彼女に話を聞いて欲しい。悩みを聞いて欲しい。――僕には友達がいるんだ。


 でも、伊藤さんは‥‥。

 あの人は、どれほど孤独なんだろう。自分の悩みを誰にも打ち明けられない。あの鐘撒自斎様をも倒した伊藤さんだ。‥‥打ち明ける相手なんて居るはずもない。追いかける背中すら無い。

 ――いつも一人で座り過ごす長椅子でのたそがれ時。物憂げな夕暮れ時の孤独な横顔。

 伊藤さんは言った。殻を破ることで次の段階へと進めると。どんな大きな殻を、どんな手段で割ればあの境地にたどり着けるんだろう。‥‥鬼夜叉になれたんだろう。

 ――世界で誰も登る事の出来ない山。その頂にただ一人だけで登頂し、世を睥睨する。誰もがあこがれ想像するその見晴らし。‥‥でも、そこへと至る苦しさも、その絶景の感動も、まとわりつく冷たい空気も、誰にも話せない。仮に語ったところで理解はされない。仮に話したところで妬まれることはあっても共感は得られない。そんな場所で‥‥あの人は何を見てきたんだろう。

 もしその隣で、一緒に眼下に広がる雲海を見下ろせる人が居るとすれば‥‥塚原卜伝ぐらいか。天下無双の拳士。伊藤さんが現れるまでまさに無敵と呼ばれていた若き天才。あの二人にとって、お互いはどんな相手なんだろう。ただの好敵手?心を通わせた相手?憎き仇敵?

 そんな考え事をしながら街道を歩く内にようやく鹿島と呼ばれる町へと入ったらしい。東国の中では僕の住む小田原と比べるとやや小都市だが歴史深い鹿島神宮のある土地であり、そして何より古くから武術の盛んな土地として他には無い種類の活気を持っている。それは、御前仕合を控えた小田原と似ているかもしれない。

 定期的に届いていた善鬼ちゃんからの書状。半月ほど前に届いたもの――一波流の三人を倒したというあの書状によれば、修行の仕上げに鹿島に向かうとあった。あと中には喜連川の藩で使用されているらしい富くじが一枚入っていた。‥‥これだけ渡されても仕方がないんだけど。

 鹿島と言っても広い。こう、ぶらぶら歩いたところで善鬼ちゃんと出くわすことはもちろん無い。が、彼女は一流の拳士であり、武者修行の旅路にいる。手がかりの場所はわかる。

 とは言えさすがにこの地では簡単には行かないだろう。何分、伊藤一刀斎の手によってその名誉を地に落とされた武術名門の土地だ。‥‥そこで、一刀流拳士が一刀流拳士を探す。うかつなことは口には出来ない。

 ここは街道沿いで、それなりに大きな町並みだ。旅人の往来も少なくない。もちろん茶店もちらほらと目に入る。旅なれない僕としては、ゆっくり5、6日かけたい旅路を4日でここまで来た。とりあえず一服しながら今後のことを考えよう。

 鹿島は古い町だけあって、茶店もどれも伝統的な店構えばかりだ。特にこだわりもない僕は、目についた一番手近な茶店の長椅子に腰掛けた。程なく女中が注文を取りにくる。お腹が減っていたので団子はよしておにぎりを二つ頼み、ついでにこのあたりで一番大きな拳術道場の場所を聞いてみた。それならこの通りを曲がったところにあるじゃないですか、と不思議そうな顔をされた。鹿島神道流の本部道場ですよ、と言う。

 ‥‥なるほど、それは呆れたような顔にもなるだろう。あの塚原卜伝の道場がすぐそこにあるのに、どこか道場はないか、なんて聞いたんだから。

 腰を曲げて通りの先を眺めて見ると、まっすぐ行った先にはこのあたりには不似合いな、大きな洋風の木造建築が見えた。あれは‥‥道場には見えない。藩邸でもないだろう。商人の家にも見えないが‥‥と眺めていると、お盆を手に現れた女中が教えてくれた。

「あれは鹿島学舎ですよ。立派でしょう」

「なるほど、だから新しいんだ」

 持ってきたおにぎりには納豆が少しついてきた。さすが水戸だ。

 この二、三十年で全国的に大型の洋式学舎が増え始めている。勉学と拳術を両輪とした文武両道の人材育成という南蛮式の教育方針が広まりつつあり、各藩ともにその流れを受けて学舎を建て始めているからだ。そう言われて見ると道にはちらほらと学生服を着た若者も目に入る。

 鹿島にもうちの小田原学舎と同時期に学舎が出来、卜伝らが在籍していることは、僕ももちろん耳にしていた。

 仮に、善鬼ちゃんがすでに鹿島入りをしていたら恐らくこのあたりの道場で噂になっているだろう。いくらここが名門地とは言え、あの善鬼ちゃんだ。そこらの道場で負けているとは考えられない。そうなればニ、三の道場を破った時点でその噂は広まっていないはずがない。それならヘタに道場を回るよりは、鹿島学舎に見学と称して訪れ、部道場あたりでさりげなく聞いてみるのもいいかもしれない。もし彼女がまだ来ていないようなら数日も滞在して待てばいい話だ。‥‥今日はもうそろそろ夕方になりそうな頃合だ。学舎に周るのは明日にして、早いけど宿を取っておこうか。

 おにぎりをほおばってる間にそう考えをまとめた僕は、残った茶を飲みながら何気なく通行人を眺めていた。そろそろ下校時間と見えて学生の数が増えてきたんだが‥‥。

 どうにも通りの右手が騒がしい。ケンカのようだ。御前仕合が近くもなると、このあたりでも血の気の多い連中が増えるんだろうか、と暢気に構えていたが‥‥。

 かすかに聞こえる言葉の端々から、一刀流や鬼夜叉という言葉が混ざっている。どうやら伊藤さんがらみの騒動らしい。

 この地にはもちろん一刀流道場なんて無い。もしかしたら伊藤さんを応援する者が居て、御前仕合の予想とかでもめているだけかもしれない‥‥が‥‥。まさか。

 僕は茶の代金を椅子に置いて店の中に一声かけ、騒ぎの方へと走り出した。


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