4章 それぞれの修行 (8/8)
広場にいた拳士らがどよめき、二、三歩ずつ後退して輪を広げる。
そうだ。これこそが伊藤さんだ。
拳士の心理なんて皆同じだ。――俺が一番だ、自分こそが強い、私が最強だ――その意地のぶつけ合いこそが、勝負そのものだ。‥‥そう。上品に相手を認め合っていて何になる。そういった誰しもが持ちえる自己顕示欲に対し、全く、毛ほども迷わず言い切る。
いつどんな時でも誰が相手でも。私に文句があるのなら否定すればいい。ただし私に勝てるのなら――
若い慢心を思い出して恥じる僕に、伊藤さんは言う。
――思い上がり、そして勝ちなさい――
それが伊藤さんの生き方だ。そのかっこよさに憧れ、僕は、善鬼ちゃんは強さを求める。
「待っていたぞ、一刀斎!」
黒い肌の大男だった。頭髪を剃り上げた頭は黒光りし、その男の逞しさと強靭な肉体をより誇示して見せる。黒人の南蛮拳士とは珍しい。ほんの数回しかお目にかかったことはない。男は大きな口をゆがめて笑い、肩衣から突き出したむき出しの右腕で伊藤さんを指さすと、その太い腕の筋肉がびくりと脈打つ。
「負け知らずらしいな、女。だがそれは俺も同じ!キサマと塚原を倒し、俺の撲震流を―」
「要らないわ。あなたの名乗りとかそーゆうのは要らない」
「‥‥なんだと?!」
――まただ。また伊藤さんは相手に名乗りを上げさせない。相手に名乗る価値が無いと言ってしまう。拳士としてこれ程の屈辱は――無い。
「ふ。私に勝てたら後で勝ち名乗りを上げなさい。それで十分でしょう」
「ハッハ!それもそうだ。いいだろう、かかって来い!!」
黒人のその言葉が終わった時、3メートル離れていたはずの伊藤さんは彼の目の前に居た。半回転していた。
――伊藤さんの左手が虫を払うようなしぐさで放たれていた。両の目を削り取られた黒人の男は大きな手のひらで顔面を覆い、悲鳴を‥‥
パンッ!とはじける音が高く高く響き渡った。
男が両目を覆おうとした瞬間、顔の前を守るためだけに両手が使われた瞬間に伊藤さんの右平手が男の左耳を大きく強くはたいた。――はたいた、という言葉からは想像もできない程の大きな音。そしてもう一度あがる、男の悲鳴。そのたった一発で頭部のすべての穴から血を流しながら男はどうと倒れる。
冷ややかな目で伊藤さんはうつぶせに痙攣する大男を見下ろし、その頚椎へと足刀蹴りをめり込ませた。
一切の容赦無い攻撃。微塵の隙も無い動き。流れる美しい技に観衆は歓声をあげる。そんな中、終わったことをちらりと確認した伊藤さんは僕を振り返り、凍てつくような瞳で笑いかけてこう言った。
「いいこと典膳。あなたが殻を破る法は一つだけ。――修羅場を喰らうこと。それが今のあなたに必要なことよ。この場にいる拳士全員を殺しなさい、こんな風にね」
血しぶきが舞う赤黒い空気。重く圧し掛かる幾十の殺気。纏わり付く幾百の視線。それらに包まれたままで伊藤さんは変わらず堂々と立っている。人であふれた小田原の町に、天下無双ののぼりは弱々しくはためいていた。
僕は一度喉を上下させる。伊藤さんの迫力に気圧されていた有象無象の拳士らもいい開き直りを見せはじめる。――やってやろうじゃないか、一刀流が何だ――彼らの心の声がはっきりと聞こえる程の殺気が押し寄せる。それはそうだ、彼らにしてみれば自分の命という賭け銭を張るのはこの賭場の他にあるはずもないだろう。二十人からの拳士――。正直勝てるとは、一人で相手して生き残れるとは――。
僕はもう一度喉をごくりと鳴らした。それでも僕は、伊藤一刀斎の弟子なんだ。今ようやく、あの日の善鬼ちゃんに追いついたんだ。伊藤さんに認められたんだ。今、命を賭けるのは僕も同じだ。
伊藤さんと入れ替わるように僕は一歩足を‥‥
「何をやっとるかッ!!」
‥‥一触即発のその場がまさに爆発したかのような大声が響く。僕らを取り囲んでいた拳士達をたじろがせ押しのけ、男がドカドカと割って入る。
武家らしいその男。白い羽織に白い袴。そらした胸は分厚く、盛り上がった肩は羽織の上からでも丸まって見えるほどだった。そのいかめしい岩そのものの顔がその場の拳士らすべてをねめつけ、そして僕と伊藤さんをジロリと睨みつける。最後にかち合った伊藤さんの視線とがバチリと火花を散らした時、彼の周りには彼同様に白羽織、白袴に身を包んだ十人程の武家が従っているのに気がついた。
「そうか、お前が一刀流の一刀斎か!何をやっとるか!」
関西なまりだ。西国の拳士か。伊藤さん相手にも全く動じた様子もなく、その声の太さは変わることがない。
‥‥‥‥あれ‥‥。いや、待てよ‥‥。前にどこかで‥‥。
「拳士同士の、それも御前仕合の小田原や!勝負するのは構わん。‥‥が、何事にも限度っちゅうもんがあるやろうが!今のこの町では乱闘騒ぎはこのワシが許さんぞ!」
‥‥そうだ、思い出した。この男たちの白い羽織りに白い袴。そして中央のこの大男。間違いない。
「‥‥知ってるの?典膳」
僕の気配を読んだ伊藤さんは男から目線を外さずに少しだけ僕を振り返りそう尋ねた。
「‥‥吉岡直元ですよ、京流吉岡の」
――五年前。一刀流拳士だった養父の出場を見守るため、古藤田に連れられて御前仕合会場へと来た僕はその時遠目に彼を見た。代々続く、京都朝廷警護役指南役。それは東の神道流に対して西の吉岡流と謳われる名門武術一門。拳術を志す者で知らない者は居ない。‥‥いや、善鬼ちゃんは知らないだろうけど。
完全に水入り状態となったその場の拳士達はみんな毒気を抜かれてしまい、その握った両手を下に下ろしてしまっている。
「あぁ‥‥。居たわね、そういうのが。朝廷御留流の吉岡よね」
そんな中でさえ伊藤さんは僕にニヤリと笑ってみせ、前へと向き直ると誰の耳にも届くような澄んだ声で楽しげに言った。
「警護役サマも暇なのね。こんなところをうろついて。帝をお守りしなくていいの?」
悠然と腕を組み、伊藤さんが挑発を返す。見上げる視線をニヤニヤと絡ませる。数年前の僕はなんて大男だと驚いた。‥‥今の僕でもそう思う、その身の丈。力比べなら伊藤さんの胴をボキリとへし折りそうな腕。
「――ワシは指南役であって警護役ではない。警護役どもを鍛えることこそがわしの勤め」
「へぇ、まぁあなたのお仕事なんてどうでもいいんだけど」
「‥‥正々堂々の一騎打ちやったら構わん。が、こんな何十人の乱闘ともなれば何があるかわからん。火事でも起せばそれこそどないするつもりや。――女、お前も一流一派の長やったら考えて行動せんかい」
「あら‥‥。大きいのは見た目だけなんだ、みみっちい。えーと、吉岡さんだっけ。都の男ってみんなそんななの?」
‥‥すごい。吉岡相手ににっこりと笑顔で言ってのける。言い返している。しかも明らかに向こうが正論なのに、なんて負けん気だ。――当の吉岡はこんな典型的な挑発に顔を引きつらせてしまっている。
「貴様‥‥!とんだ狂犬やのう、ワシに噛み付くか!このメス犬が!」
「ふふ。そう来なくちゃね、あなたの好きな一騎打ちよ」
僕らの目の前で羽織りを脱ぎ、地面に叩き付ける巨漢。それを見て、しめたという笑顔を作る僕の師匠。‥‥もちろんおたついたりはしないが、穏やかに見てられるわけがない。なにせ相手は朝廷御留流だ。ひやひやと事の成り行きを見守っていた僕に伊藤さんが振り返った。突然目が合い思わずきょとんとする僕に、伊藤さんは楽しそうに、笑うようにささやく。
「さ、典膳。出番よ」
「‥‥僕がですか?!」
「言ったでしょう?これはあなたの為の修羅場よ」
「‥‥わかりました。――僕が負けた時は仇をお願いしますね」
「駄目よ、勝ちなさい。絶対に」
「‥‥しかし‥‥」
「駄目。勝ちなさい」
伊藤さんは同じ言葉を繰り返す。天下の朝廷警護役指南役を相手に勝てと言う。御前仕合に出場する必要すらない、朝廷御留流を相手に絶対に勝てと言う。
「そうね。理由を教えてあげるわ。――この男に勝てるからよ。善鬼なら、ね」
「!」
‥‥確かに。善鬼ちゃんなら――勝てるかもしれない。いや、勝てるだろう。大男の剛拳にすら匹敵する破壊力を秘めたあの小さな拳足ならば。伊藤さんをもしのぐあの俊敏さならば。今も一人、厳しい修行を繰り返しているだろう彼女なら‥‥。
「いい顔になったわね。そうよ、勝ちなさい。必ず勝つという気持ちで挑みなさい。下がって勝てるのは道場稽古ぐらいなものなのよ。――ケンカに勝ちたかったらただ前に出ること。相手の攻撃を喰らうこと。何発でも喰らうこと。わかる?」
「‥‥はい」
「敵が攻撃したら前に出る。相手が下がったら前に出る。そうしたらいつかは相手が倒れている。‥‥簡単でしょう」
「はい」
僕のその返事は、前に出る為の自分への掛け声でもあった。
ずいっと一歩、もう一歩。
ああん?と、大男が訝しげに首をかしげて僕を睨みつけたた。その後ろに控える十人もの吉岡一門拳士の視線が僕にズンズンと突き刺さる。――殺気が、僕に集中する。‥‥伊藤さん‥‥こんなのを前にあれだけぶちあげていたのか‥‥。
「さ、行きなさい」
「はい!」
伊藤さんの声に押され、僕は壁のような男の前に立つ。吉岡は変わらず、酒場に迷い込んだ子供を見る目つきで僕を睨みつけている。
「‥‥なんじゃ色男。邪魔や、どかんかい」
「‥‥‥」
「あ?――どけ言うとるやろうがッ!!」
「吉岡直元。僕が相手だ」
「‥‥ああ?!舐めんな!雑魚になんぞ用はあるかッ!!」
龍のような咆哮。思わずわずかに身を引いてしまう。
「吉岡先生の邪魔や、どけ!」
ざざっと二人の武家が僕の両横に詰め寄る。
「‥‥‥‥」
パパンッと、僕は二人の鼻を同時にへし折った。げあっと妙な声を上げて顔を抑える武家二人。‥‥ありがたい。火の点き難い僕の心臓が、ようやく動き出した。
「もう一度言うぞ。――吉岡直元、僕が相手になる」
殺気立って飛び出そうとする門下生達を片手で遮り、吉岡が口をゆがめて笑う。歯を剥き出しにして、ニタリと笑う。
「‥‥ええ度胸や。田舎拳法、どんなもんか!このワシが見てやる!」
叫び声のようなその怒声に、僕が‥‥
「何をされる!吉岡殿!」
「?!」
突然の闖入者。全神経を目の前の武者に振り向けていた僕はさすがに驚きを隠せない。見れば、その乱入者たちも武家の身なりだった。
「ええい、邪魔をされるな!これは売られた勝負やぞ!」
「なりません吉岡殿!
かしこくも帝が!帝がこの地におわすのだぞ?!御指南役が事を荒げていかがいたす!」
‥‥‥‥。
一気に肩の力が抜けそうになるが、まだ終わってはいない。
しかし騒ぎを大きく長くしすぎたようだ。
「‥‥残念。今度こそ幕引きのようね。典膳、行くわよ」
「ええ?!‥‥しかし、いいんですか?」
「いいわよ、もう。どうでも」
「ちょお待て!待たんかワレ‥‥!ここまでやっといて逃げるんか?!ふざけおって!」
吉岡が吼える。
憮然とした表情の伊藤さんはこれ見よがしに「はぁ‥‥」と大きくため息をついてから振り返る。さっきまでの挑発じみた慇懃さは消え去り、いつもの面倒そうな、伊藤さんの素顔だ。
「――大体あなた、御留流じゃない。こうなってしまったらどうせ何もできないでしょうに。だからよ。残念なのは私も同じ。‥‥機会があればまたお会いしましょう」
‥‥‥‥。
あの後、伊藤さんと僕は止めに入った家臣らの数名と供に大名の方々へと訪れ、当初の予定を済ませた。何事も無かったかのように笑顔で話す伊藤さん。質問への解説を繰り返し、最後に用意されていた晩餐は丁重に断り、僕らは日が暮れる前に道場へと帰った。
その帰路の間も、家に帰ってからも、食事の間も――僕は一言も口を利かなかった。伊藤さんも、僕に何も言わなかった。
‥‥不甲斐ない‥‥。なんて情けないんだ、僕は。完全に、負けていた。それも腕で負けていたんじゃない。――心で、だ。あんなに念願だった伊藤さんに弟子入りしたというのに‥‥このザマか‥‥。
その夜僕は一人、屋根に登った。善鬼ちゃんを真似して、登ってみた。
‥‥屋根から見下ろす町の夜景。月明かりに照らされ浮かび上がる、蒼白い神槍白塔――。
僕はあの塔のように、真っ直ぐな強さを求めていたんじゃないのか‥‥。
ようやく芽生え始めていた僕の中の自信に、大きな亀裂が入ったような気がした。
こんな時、彼女ならここで何を考えるんだろう‥‥。一緒にすごした一年前の冬の夜、善鬼ちゃんは‥‥どんな月を見上げていたんだろう。
北風の中、僕は彼女に会いたいと思った‥‥。