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伊藤さんと善鬼ちゃん  作者: 寛村シイ夫
25/38

4章 それぞれの修行 (7/8)

   6

「でも本当にいいんですか?僕ら二人だけで‥‥」

「ぞろぞろ連れ歩けというの?私に。大体私の弟子はあなたと、もう一人しかいないわ」

「ん‥‥。それは、そうですけど」

 あの伊藤さんが認めた、たった二人の弟子。その一人が、僕。‥‥その言葉に僕は自然と舞い上がりそうになる、が。やはり‥‥。

「でも他流派の連中はみんな大勢の腕利きを‥‥」

「よそはよそ、うちはうち。わかった?」

「はぁ‥‥」

 いよいよ、だ。いよいよ五年に一度開かれる御前仕合の時が近づいている。

 東国ではかなりの都会である小田原のはずれの町。普段はがらんとした僕らの町も、この御前仕合の年だけはそれはにぎやかになる。なにせ全国から有名無名の拳術家が集まり、また彼らを抱えようと大勢の大名達が観戦にやってくる。そしてそれらをはるかに上回る庶民の観戦者が集中する。――何より、御前仕合の主催者である帝までもがこの地を訪れる。――まさに日ノ本一の祭りとなる。

 尤も、御前仕合と言ったところでこれといった決まりは無いに等しい。御前仕合前夜に帝――朝廷から有力な拳豪の元に使者が訪れる。そして神槍白塔の前に集められ、勝ち抜き戦を開く。‥‥ただ、これだけだ。お声のかかる拳豪選出の判定は十日程前から訪れている帝らがお決めになるらしい。だから今はまだ無名の拳士でも今のこの地で名をあげれば十分に機会がある。

 道場を出て少し街を歩いただけで、もう3度も野試合を見かけた。戦う目的は功名心からだけではない。他の有力拳士を事前に潰すためでもある。自称拳士の力自慢までもが皆、戦いを求めてうろついている。

 そんな街を、天下の一刀斎が供をたった一人だけつけて悠々と歩いているわけだ。目的は帝のおわす仮御所。出場拳豪選定役の大名らからのお召しだ。きっと有力拳豪についての私見を聞かれるんでしょうね、と伊藤さんは言っていた。あくまで一介の拳豪に過ぎない伊藤さんに大名らが意見を求める。その為に馬車行列さえ用意されていたが、伊藤さんは歩いて行くとあっさり断った。それどころか門下生達すら連れず、僕たった一人がお供でだ。

「‥‥いちいち勝負を求められたらどうするんですか?伊藤さんは当然優勝候補筆頭ですよ。駄目元で挑みたがる者がどれほどいるか‥‥。面倒でしょう」

 実際にさっきからじろじろとこちらを窺ってる連中のなんと多いことか。その出で立ちで伊藤さんだとバレているんだろう。まだ勝負を挑まれていないのはただ様子を見ているだけだ。

「いいのよ。来たら全部あなたに相手させるから」

「はぁ‥‥。いいですけど‥‥」

「バカね、典膳。覚えていないの?私がここへやって来た日のこと。あなたと会った時のこと」

「え?」

「あなた言ったじゃない。御前仕合で優勝するのが昔からの夢だって」

「‥‥‥‥覚えていたんですか」

 まさかあんな昔のことを、僕の戯言を。伊藤さんほどの人が‥‥。

 一刀流を学び、それなりに強くなり、道場を出したばかりのころの僕。確かに僕は小田原無双と呼ばれてはいた。が、それは小田原から出ていない――まさしく井の中の蛙という意味だった。それに気付かせたのは若い伊藤さんその人だった。

 次の御前仕合で優勝してみせる、その為にも直弟子にして欲しい。腕を見てもらいたい。

 ――一刀流ニ代目となったばかりの伊藤さんがこの小田原へとやってきた時にそう言って彼女の前に立った僕。‥‥それはお願いの名を借りた挑戦状だった。そして、いつかの善鬼ちゃんのように手も足も出せずに僕はやられ、いつかの善鬼ちゃんのようには‥‥伊藤さんは言ってくれなかった。弟子にしてあげる、とは。

 あの頃の自分の気持ちは思い出すだけで居たたまれなくなる。が、伊藤さんは全く逆のようだった。

「私の影に隠れていても始まらない。あの日の気持ちを思い出しなさい。私に挑んだ心を取り戻しなさい。――あなたは一刀流の神子上典膳よ。その名前を、私の名前を使って拳士をかき集めなさい。そして全て倒しなさい。さっき面倒だと言ったわね。その通りよ。――他の連中はいらない。御前仕合は私の前で善鬼と二人だけでやってしまいなさい」

 若い慢心を思い出して恥じる僕に、伊藤さんは言う。――思い上がれ、と――。

「典膳。諸岡の三姉妹は知ってるわよね」

「ええ、鹿島神道流から派生した一波流の拳豪ですよね」

「かつての鹿島七流の一人、諸岡一羽の三人の妹たち。一刀流に――私に雪辱を果たすつもりだったらしいわ」

「はい、聞いています。先代に勝るとも劣らない使い手とか」

「使い手だった、ね」

「――え?」

「善鬼が倒したわ」

「‥‥ええ?!」

 ‥‥いや、善鬼ちゃんなら――。そうだ、彼女なら勝てるかもしれない。が‥‥。

「この間善鬼から届いた書状は覚えているわよね」

「え、ええ‥‥。そういえば強い女拳士達と立ち会った、とか‥‥。まさかと思ってたんですがそれですか?」

「そ。今日、諸岡の長女・次女の訃報が聞こえたの」

「‥‥‥‥」

 修行がてらで‥‥。武者修行の道すがらで、あの三姉妹を倒したのか‥‥。伊藤さんに挑むと嘯いている噂は聞いていたから、いずれ僕が戦うつもりで覚悟をしていた三人を。

「善鬼にはもっと強くなってもらわないとね‥‥。ふふ。あの子は私のものなんだから」

 弟子の活躍にうれしそうにくすくすと笑う伊藤さん。

「――善鬼はそのまま鹿島へ向かうと言っていたわよ。それがどういう意味か‥‥わかるわよね?」

「‥‥鹿島に。鹿島神道流と、ですか‥‥」

「でしょうね」

 あの塚原卜伝のいる鹿島神道流本家に挑戦するつもりだろうか――。伊藤さんに敗れたとはいえ、鹿島七流やそれ以外にも多くの拳豪を抱える鹿島の地に。

 善鬼ちゃんの活躍。善鬼ちゃんの挑戦心――。僕だってもちろんうれしい筈なのに‥‥何故か、笑えなかった。この一年。伊藤さんに技を叩き込まれ、以前よりは基本から拳理から総合的に上達できたとは思う。そうは思うが‥‥一年前の善鬼ちゃんの影にもまだ追いつけていない気がしている。それなのに、彼女は‥‥善鬼ちゃんはあの俊足をもって僕を置いてより強くなっていっている。僕からはるか先へと走り去る善鬼ちゃんの背中が見える気がした。

「‥‥‥‥。

 ――鐘撒自斎が弟子を連れて武者修行をしていた頃のことよ」

 不意に話し始めた伊藤さんの声に、呆然とうつむいていた顔をはっと上げる。

「父、鐘撒自斎が伊豆伊東の神社に立ち寄った時に孤児の女の子を一人拾ったわ。薄汚れた女の子を、一人。――あの人に子育ての甲斐性があるとは思えないのに、不思議よね」

「‥‥‥‥」

「伊東で拾われたその子はやがて拳士になり、伊藤一刀斎と名乗った」

「――!」

「父に拾われた所から、私は始まった」

 ――伊藤さんが‥‥。僕と同じだったとは。

「言ったわよね、典膳。人に生まれは関係ないわ。誰だって強くなれるのよ。――神社の軒下の子も、名門塚原の嫡男も、誰でも強くなれるわ」

「はい」

「典膳。あなたの殻を破るきっかけを教えてあげる」

「――え?!」

 伊藤さんらしくない言葉に、僕は思わず声を上げて驚く。が、その僕を制するように伊藤さんの右手のひらが僕の前に突き出された。ぴたりと足を止め、伊藤さんの視線を追うと――町の広場に竹矢来が組まれているのが見えた。今の小田原には珍しくない、野試合場。これ見よがしに立てられた天下無双ののぼり。げらげらと大声で笑いあっている十余人の拳士たち。そう、この御前仕合の戦場へと早めにやってきた拳士ほど自分を目立たせようと、強く見せかけようとするものだ。

「天下無双、か」

 伊藤さんは困ったように笑ってみせる。勝負を売ってるように見せて数で圧倒し誰にも挑戦させない男たちの群れに、伊藤さんは当たり前のようにすたすたと歩いていく。

 男たちがそんな伊藤さんに気づいたのは、伊藤さんが男の一人に触れられるほど近づいた時だった。

 ――スパンと、一分の隙もない鮮やかな半月を描いて伊藤さんの蹴りが男のあごを直撃した。

 蹴られた男は伊藤さんを睨み、何かを怒鳴ろうとごにょごにょと声をあげながら地面に吸い込まれるように崩れ落ちる。まるで足がこんにゃくで出来ているように、ぐにゃりと崩れ落ちた。

「天下無双、ね」

 伊藤さんはもう一度そう呟き、男の頭をぐいっと踏みつけた。

 ――「何事だ」と「まさか」と「やはり」と。

 この場にいる拳士が町人が、さまざまな表情を浮かべながらも一様にその漆黒の少女へと釘付けになる。

 目線だけで男を見下ろしていた伊藤さんはその瞳を閉じ、ふっ、と笑った。

 肩にかかったつややかな黒髪に伊藤さんの細く長く、拳士とは思えないそのしなやかな指先が吸いこまれる。その優雅な手つきのまま伊藤さんはふわりとその髪をなびかせる。舞い上がる髪と共に、小田原の町娘たちの黄色い声が大きく上がった。

「――さ。私の前よ。拳士ごっこは御仕舞いになさい」

 男の頭を踏みつけたまま、伊藤さんは口を開く。その細身に羨望と恐怖と怒りを浴びることに慣れた微笑み。悠然と腕を組むその立ち姿。

「怖いなら隠れて私をやり過ごしなさい。命が惜しければ今すぐ走って逃げなさい。嫌なら拳士などと名乗らないことね。

 ――私は伊藤一刀斎景子!名を上げたい者は私に挑みなさい!」


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