4章 それぞれの修行 (6/8)
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‥‥右で蹴りに行った僕の蹴り足を、伊藤さんが捕る。やばい。咄嗟に僕は左の軸足で飛びざまにその手を蹴り上げた。一瞬で引っ込められ当たらない。――が、十分だ。着地して伊藤さんの反撃に備えながら構え直した僕を見、動きかけていた伊藤さんの手が止まる。
――しばらくの硬直。ふっと構えを解く伊藤さん。
「‥‥今のはいいわよ、典膳。やはりあなたには目があるわ。全体を見通すその目を活かし切れれば私とは違う強さを出せるわ。精進なさい」
僕ら以外は誰も居ない、武者窓も締め切った夏の夜の道場で、伊藤さんの声が響く。
「はい、ありがとうございます」
「‥‥ふう。疲れたわ。少し休憩にしましょう」
「はい、お疲れ様です」
とは言っても伊藤さんは僕と違ってほとんど汗をかいていない。まだまだだ‥‥。
僕は締め切っていた戸と窓を開ける。冷たい夜風に生き返る気がした。
――伊藤さんとの久しぶりの組手。あの時よりは‥‥多少は上手く戦えてるだろうか。二年前、たった一度きりの伊藤さんとの真剣勝負。‥‥いやあれは勝負でも何でもない。いつかの善鬼ちゃんのように軽く手玉に取られたんだから。
その強さに劣らない程の美しさを持った黒ずくめの少女。‥‥僕は彼女を死神だと思った。僕に安らぎを与える死神だと思った。‥‥今でも、そう思っている。いつか僕に平穏を与えてくれる、と。‥‥そう思っている。
僕が伊藤さんの直弟子となった、冬の日。それから毎日毎晩、伊藤さんの指導を受けている。春が来て、夏が来て‥‥。欠かすことのない夜が、半年過ぎた。
毎晩の稽古は、実に楽しいものだった。知らない技、考えつかない攻防術、伊藤さんの術理。‥‥拳術というものをこれ程に体系化して考え、まとめている拳士が他にいるんだろうか。
伊藤さんとの修行を始めてからしばらく僕は学舎の授業にほとんど出なかった。出られなかった。――正直言ってそれどころじゃなかった。せっかく習ったことを身に付けたくて仕方が無かった。どれほどに伊藤さんが進んだ人かが解かり、どれだけ善鬼ちゃんに置いて行かれていたかに気が付いてしまったからだ。半年続けて、ようやく生活も落ち着いてきて、授業にも出ることが出来るようになってきた。順調だ。
‥‥順調すぎて逆に不安にもなる。それに‥‥何故だろうと思うことがある。一つは、一刀斎がここまで丁寧に教えてくれることにだ。本当に手取り足取り、彼女の術理を言葉と体で教えてくれる。それにもう一つ。――これまで誰にも何も教えようとしなかった彼女が、何故僕にだけ――。‥‥いや、認めてもらえたんだ。これまでの僕の努力がついに認められたんだ。そう思おう。僕の師匠を疑ってどうする。
「そうそう、典膳。今日善鬼から書状が届いたわ」
「あ、来ましたか。そろそろかなって思ってたんですけど」
「意外とマメよね、あの子ってば。今は飛騨らしいわ」
‥‥今回は絵札か。伊藤さんから受け取った封書からは、手紙と一緒に一枚のキラキラと光る飛騨の絵札が出てきた。アイツからの書状には何故か毎回なにかしらご当地の札が入っている。その土地を詠んだ誰かの短冊だとか、その土地の拳豪の絵札とか。記念のつもりだろうか。
手紙にはたどたどしい平仮名で「おしさんわしはげんきじゃ、きのうにじゅうにんやっつけた、さんぞくだ、ひだはうしがうまいぞてんぜん」と書いてあった。
「ちょっと、行ってみたくなるわねコレ」
「‥‥そうですね」
伊藤さんも僕もおかしくなり、二人で笑う。伊藤さんは、後でしをりにも見せてあげましょう、と言った。
善鬼ちゃんからの近況報告は旅立った頃から月に一度程度、定期的に届いている。本当に簡単な言葉だけがつづられた手紙を読むだけで、僕の心にあの仏頂面が浮かばずにはおれない。山道をひとり歩く姿、真夏の一本道を、それでもマフラーは外さずに旅をする彼女、宿場町で無頼漢をなぎ倒す小柄な背中、道場に飛び込み名乗りを上げる善鬼ちゃんの姿が、はっきりと見える気がした。
「――さ、そろそろ再開するわよ。戸を閉めなさい」
「はい」
「そうね。典膳、電光は解かるわね?」
開けていた道場内の半分ほどの窓を閉めて周る僕に伊藤さんが話しかける。
一刀流拳術の技・電光。これは不意に討ちかかって来た相手への先の後を取る反撃技だ。返事をしながら伊藤さんの前に立つ。
「今後、電光をみっちりと磨き上げること。私相手にでも出せるぐらいにはね」
「はい」
「今から私が仕掛けるから、やってみせなさい」
‥‥一般的な間合いで、普通に立っている伊藤さん。不意打ちを想定しているのでもちろん僕も何気なく立つ。
「‥‥!」
もう、目の前にいた。速過ぎる。僕はかわしきれずに伊藤さんの突きを顎に受けて倒れてしまう。‥‥情けない。これでも手加減を感じるんだが‥‥。
「駄目ね、もう一度」
そう言って伊藤さんが同じ間合いに立ち、繰り返す。また胸を突かれて膝から崩れ落ちる。三度目、今度はかろうじてかわし、どうにか反撃の形だけを取れただけだった。そうして四度目にまた腰の入っていない反撃を披露してしまった所で伊藤さんが言う。
「駄目よ典膳、形にはなっているけど踏み込みが足りない。それでは相手は殺せないわ」
言いながら、指で僕に向かってくるように指示を出す。
さっき伊藤さんがやったように、僕は不意打ちに飛び込み、突きを放つ。体をひねりざまにトンとかわし、左の裏拳を僕に寸止めする。
僕の胸に、伊藤さんの左肩が当たっている。‥‥髪の香りが広がる。ドキリと僕の胸が高鳴った。‥‥伊藤さんに聞こえたんじゃないのか?そう思う程に、近い。‥‥すごく近い。
「わかる?こう、踏み込みよ踏み込み」
「‥‥はい」
伊藤さんの頭が、僕の鼻先にあった‥‥。
舶来屋で買った香の水を使っているんだろう。甘く、かぎなれない香りが僕の鼻をくすぐった。
「‥‥?――典膳?聞いてるの?」
伊藤さんの言葉に、僕はまさに飛び上がって驚く。
「えあ!!は、はい!聞いて‥‥!
‥‥すいません、聞いてませんでした」
伊藤さんが、はぁと大きなため息を落とす。
「‥‥腑抜けないで頂戴。
‥‥‥‥まさかあなた、今私のこと女として見てたの?」
「は?!いやまさかそんなゼンゼン‥‥!!」
‥‥すごい声が出た。僕からこんな素っ頓狂な声が出るとは、知らなかった‥‥。
「‥‥‥‥」
完全に怒っている‥‥。拳士としてではなく、別の‥‥恐ろしさが満ちている。
世の中何が恐ろしいって本当に怖いのは神でも鬼でもなく女だと、悪酔いした古藤田が言ってたことがある。僕は笑って聞き流してたけど‥‥。
とん、と僕の汗ばむ胸に伊藤さんの手のひらが当てられる。
「あなたね‥‥。これだけ私に痛めつけられ、あげく叱られ‥‥何を顔を赤らめているのよ。どきどきしてるのよ」
「いや、これは‥‥その、」
「‥‥‥‥。聞いたことがあるわ。女に踏まれると悦ぶ男がいるって。もしあなたがそうなら一度だけ悦ばせてあげてもいいわよ」
「えっ」
「‥‥何驚いてるのよ。まさか本当にそうなの?」
「いや、もちろん違いますよそんな」
「一度だけよ。二度と其れが何の役にも立たないぐらいに悦ばせてあげる。金翅鳥王拳で」
それ奥義だし。
「‥‥いや、だから僕はそーゆう属性は無いから‥‥大丈夫です‥‥」
「何をしゅんとしてるのよ」
そんな趣味がないとは言え、想像しただけで恐ろしさに縮こまってしまう。色々と。
ドン!と伊藤さんが踏み込む。いつの間にか後ろの壁が地面になったように、一瞬で僕は壁へと落下する。激しく壁板に打ち付けられるとようやく地面は元に戻り、僕は床に崩れ落ちることが出来た。
‥‥息が、出来ない。
カフッとみっともない息を漏らして床にほほを押し付けている僕の視界に、つかつかと伊藤さんの上履きが近づいてくる。
「‥‥あなた、やる気無いの?殺すわよ?」
「すい、ま‥‥せん‥‥」
「悦ばれたら嫌だから踏まないけど。――本当にしっかりしなさい」
「はい‥‥」
さっきのは‥‥また例の、清国拳術の技だろうか。いつも滅多に僕の道場に姿を見せない伊藤さん。どこか一人で修行しているんだろうと思っていたけど、これもそうなんだろう。やっぱりすごい人だ‥‥。
「そう、それよ。その目で私を見なさい。修行なさい。いいわね?」
「‥‥はい」
「男の女の言ってる限り、私にはもちろん善鬼にも勝てないわよ」
「はい‥‥」
「私は女など捨てています。あなたも男を捨てなさい。拳術は男のすることなんて下らない思い上がりも枷も捨ててしまいなさい」
「はい‥‥」
そうじゃないんだ。僕は女だからと伊藤さんにうつつを抜かしたんじゃなく――伊藤さんだから‥‥。――いや、だからそれがいけないんだ。せっかく今伊藤さんがそれを言ってくれているじゃないか。‥‥しっかりしろ、神子上典膳。
「大体私は私より強い男にしか抱かれないわ。当然でしょう」
「それは‥‥伊藤さんは結婚なんかしない、ってことですか?」
「‥‥あなた‥‥」
「え?」
「はぁ‥‥。本当にバカね、あなたは。――善鬼じゃないけど、あなた虫じゃないの?」
‥‥そんなに怒らなくても‥‥。立ち上がり、深呼吸をして脈を落ち着かせる。
眉をひそめたまま、伊藤さんがその両手を伸ばして僕の襟元を整えながら話を続ける。
「迷っては駄目、典膳。あなたはもっと強くなれるわ。前にもそう言ったでしょう。
‥‥なれるものなら、叶うなら、私より強くなって頂戴」
「そんな‥‥。いくらなんでも」
僕の襟から手を離し、伊藤さんは静かに言葉を紡ぐ。
「これは典膳に限ったことじゃない。誰だって、ずっと、もっともっと強くなれる。本当に誰だって、ね。――まさかという心。無理だと思う気持ち。――そのタガを外す‥‥自分の心が閉じこもる殻をいかに破るか――ただそれだけの問題なのよ」
「‥‥はい」
「殻を破り、その上で能力を超える修行の上の修行、その果てに修行。そうして初めて人は次の段階へと進む。誰だって進める、誰だって強くなれる。
‥‥典膳」
「はい」
ドン、と、伊藤さんが裏拳で僕の胸を叩く。
「いいこと典膳、あなたは修行はしているわ。誰に恥じることもない。――次の段階‥‥そう、私に並べるほどに修行を積んでいるわ」
「まさかそんな‥‥」
「それよ。そのまさかがあなたの心の殻なの。その殻を破りなさい、典膳。善鬼は‥‥私の元へ現れた時にはすでに破った後だったわ。だから‥‥後は一人で武者修行をするだけで十分なのよ」
「なるほど‥‥」
「天才というのはね、典膳。才能のある人のことじゃない。タガを外すのが上手い人のことを言うのよ」
「‥‥伊藤さんにもあったんですか?そんなもの――破るべき殻が、強くなる壁が」
「もちろんよ」
「‥‥伊藤さんは‥‥どうやって壊したんですか?」
「‥‥‥‥。それは、人それぞれだから。私のことを聞いても参考にはならない。自得することよ、典膳。その殻は人によって厚みも違う、急所も違う。あなたの殻も、きっかけさえあれば意外とあっさり割れるかもしれない」
「‥‥そう願います」
「私にももう一枚、あるようだしね」
「え?まさか」
「いずれ‥‥近い将来、その殻を叩き割るつもりよ。その時を楽しみにしているのよ。‥‥私も所詮は修行中の身だから」
伊藤さんは笑った。少し、自嘲気味に笑った。そうしてこの話はこれで終わりだと言うように、くるりと身を翻す。
伊藤さんが‥‥。この伊藤さんがこれ以上なお強くなるのか?
‥‥いや。だからこの考えが駄目なんだろう‥‥。
井戸水にひたした手ぬぐいで汗をぬぐいつつ、僕は庭に出て少し歩いてみた。茂みの中で虫がジイジイと鳴いている。池があるから夏の夜風も冷たくて気持ちがいい。僕は庭石に腰掛け、池に映る月を眺める。
いつだったか‥‥。そう、あれは去年の秋だ。伊藤さんが来て半年たった秋の月見の時。月見をダシにして僕と道場生たちはひとしきり宴会を楽しんだ。
気が付けば伊藤さんはいつものようにひとり、この庭石に腰掛けて月を見上げていた。気付いた僕もそっと宴会を抜け出した。側に仕えるように伊藤さんの横へと立った僕に、彼女は話してくれた。
それは、まだ幼かった伊藤さんが出会ったひとりの拳士の話。自斎様に連れられて行った鹿島の神道流道場。神道流の宗家と自斎様が話をしている間、道場をふらふら見て回っている間に見た、その拳士。――それが、まだ若い塚原卜伝だった。元服前にして既に隠れもしない神童として鹿島の名を背負うと謳われた塚原卜伝だったという。
一目でその少年が強いと理解し、そして自分ではとても敵わないとすら感じたと、伊藤さんは話してくれた。
伊藤さんの性格からしてその場で挑戦しそうな物だと思いながら聞いていたが、何もなかったという。何も出来なかったと言う。‥‥今の伊藤さんしか知らない僕は、信じられないぐらいだった。過去を、身の回りをあまり語らない伊藤さんの、短くも重要な思い出話だと、その時の僕は思った。
その二人の邂逅から数年後――。伊藤さんは武者修行として単身鹿島に乗り込み、鹿島七流に挑んだ。たった一日で、名門鹿島七流七人と連続して戦う――。そして六人を倒し、天下無双と呼ばれるようになっていた塚原卜伝とまで引き分けたという、まさにありえない出来事。伝説の一戦。――その日、鹿島の人々は伊藤さんのことを鬼夜叉と呼んだ。
その一戦を以って伊藤一刀斎景子の名は全国に轟き渡る。もちろん僕も興奮した。自分の身に付けた一刀流の強さが証明されたんだから。しかもそれから程なくして、その伝説の当人が‥‥開いて間もない僕の道場へと逗留することになったんだから。これで興奮しない方がどうかしている。
だが、そんな伊藤さんの強さも最初のうちはまぐれだなんだと貶めるような声がほとんどだった。次々と現れる挑戦者を全て打ち倒し、半数は亡き者にし、その強さが真実だと証明し続けた。当たり前だ、馬鹿馬鹿しい。そもそも鹿島七流のうち六人を破っているんだ。偶然で成せるわけがない。
でも、鹿島最後の砦である天下無双の拳客塚原卜伝の心境やいかに、だ。曰く、五百戦無敗。曰く、五つの流派の奥義を極めている。曰く、三面六臂の阿修羅の化身‥‥。その無双の男が敗れはしなくとも、初めての引き分けを喫したのだから。
――一度は恐れた相手。勝てないと感じてしまった、若き阿修羅に‥‥。伊藤さんは自ら挑み、引き分けをもぎ取った。それこそが殻を破った証明なんだろう。
僕に‥‥。今もなお善鬼ちゃんの背中を追う僕に、そんなことが出来るんだろうか。